思うだけでも罪になる
私はどこの宗派に属しているわけでもありませんが、色々な書物を読むことが好きで、高校大学がカトリック系列であったため、聖書やキリスト教関係のものも少し読みました。祖父母は浄土真宗なので、般若心経も小さい頃から暗記するくらい読んで唱えて、大学院では国文学としての密教も少し学びました。どの教えも尊く、かつ興味深いのですが、中でもキリスト教の教えに「思うだけでも罪である」というのがありました。ここでの「思う」は、悪いこと、憎しみを思うことを指します。
確かに、「思う」だけで心におさめられることもありますが、「思」へば、それを実行してやろう(例えば、機会があったら悪口を言ってやろうとか。)という気にもなります。仏教(宗派は忘れてしまいました)にも似たような教えがあって、「良いことも悪いことも、思えばエネルギーがそちらに動いて、そのとおりに物事が進むようになる」とも。
ですので、何かマイナスの考えが浮かぶと「あー、ダメダメ。そういうこと思うのやめよ」と、なるべく自分に言い聞かせますが、なかなか思考はコントロールできないですよね。やはり、悪く思ってしまうこともあります。お坊様方は、自身の心の在り方を、どのように受け止めていらっしゃるのか、修行などによって、我々凡人よりも少し克服できるものなのか、伺ってみたいと思いました。
私は高校教員です。既婚者で夫、娘の3人家族です。特定の宗教の信仰はありません。この世は八百万の神。どんなところにも守ってくださる神様がおられると思って、日々を過ごしています。
心配事などがあると爪を噛んでしまいます。何度か治そうとしていますが、脳の方がそれをストレス発散の方法として認識してしまっているような気がして、挫折ばかりです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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止めて観る
拝
思考のコントロールって本当に難しいですね
怒りや悲しみ
拒絶と不寛容
これは内在するものですから
坊さんだって不安になるものでして
奥さんとうまくいかなかったり
上から押さえつけられたり
色々あります
こういう問題に対して
まずは自分に原因があるのか相手に原因があるのか
探すわけですが
全部人のせいにできるわけでも無いし
全部自分のせいなわけでも無い
勿論一度その点は深く観察しなければなりません
ところが長く同じ問題を抱え込むほど人は強く無いという事を覚えておいて下さい
そして
長く抱え込むというのは問題の先送りでしか無いんです
そして心も病んでしまいます
僧侶なら座って呼吸を整えたり
指先一本の動きまで注意する事で認知機能を高めて
問題の主人公でありながら
客観的に見るようにある事で
問題の中心にいながら
不安の主人公から離れます
不安の主人公にならず問題を観察すると
内在する不安や自分の未熟さに気がつく事になります
この処理の繰り返しで問題を長期にわたって引きずりづらくなるのです
勿論すぐにはできないし
中々日々の忙しさが積もると
禅もできない
僕ら現代人はそういう意味で忙しすぎる
だからこそ
止まる必要がある
止めて観る必要があるんですね
止めて観ると書いて「止観」と申しまして
禅の中でもとても基本的な修行でして
これの繰り返しが問題解決のエキスパートになる為に必要なんですね
問題の主人公である限りは
論理は生まれてこない
もう1人の冷静な人格で観てみると
問題は内在するものである事がとても多いといずれ気がつくでしょう
すると問題が問題でなくないと腑に落ちる
僕らは普段は冷静になれてない
人は皆未熟
それをしっかり受け止める事
そして客観視できるのも人間の特別な能力として備わっている
その辺を踏まえて言うならマイナスの考えが悪いわけではありません
マイナスはいけないという評価で止まるのではなく
マイナスを生み出す自分に内在する思考の癖を認識する事の大切さ
悪いイメージを持たないというのは動物である以上は無理なのです
動物の危険を察知し身を守るためのバイアスが人の場合悪く働く事が多い
こうした深いところで働く心の動きを知る賢さって幸せに生きる為に必要なのです
合掌
思いが業になる
仏教では、心に思うことが業になり、口から音が出たとか、手が当たったとかは業にはならないと見ています。
意図的に何か意味のあることを言ったり、意図的に体を動かして何かをすれば、それは業になりますが、心が、言葉や体でそうさせているので、業の正体は心の働きなのだ、と言います。
がんじがらめのように見える仏教の戒律はこの理屈を利用しています。まず言葉と行動を縛る。それで心が悪いことしたくても外に出る部分で何とか止める。
そのうち、心自体が柔軟になり、悪いことをしたいと考えなくなります。怒りですぐに口や手が出る人が、無理やり抑え込むことが続くと、怒ること自体がパワーが必要でばかばかしくなり、冷静に話し合ったほうがいいや、と、気づき、実行するようになります。酒を飲まずにいると、ある時から、まあ、酒がないほうが楽だ、と気が変わります。
いつもうまくいくとは限りませんが、言葉や行動の前に、心に気を付けるのです。心の変化にも気が付くと、進歩しています。
最初はへとへとになると思いますが、悪いこと考えないぞ、と、マイナスが出ないようゼロに保つのはむつかしいので、プラスを心に満たしてマイナスが出る暇を無くす相殺作戦が有効です。
用事があるときは、要らないことを考えず、てきぱきと集中する。効率も上がり、マイナス心は出ず、万歳です。
暇になったとき、さあ、気をつけましょう。悪いこと考えないぞ、ではなく、「生きとし生けるものが幸せでありますように」などと心の中でつぶやき続けて、そのプラスの思考行動によって悪いことが心に現れる暇もなくすのです。
そのうち、心の基本志向がプラスになり、ぼーっとしていても少なくともマイナスのことを考えず、全生命の幸せを願う心のままぼーっとしていられるようになります。
「生きとし生けるものが幸せでありますように」は仏教の慈悲喜捨の思想で、スマナサーラ長老が日本語に訳した「慈悲の瞑想」が、(宗)日本テーラワーダ仏教協会のホームページに出ています。
質問者からのお礼
早々のご返信ありがとうございました。問題を長く抱え込む、問題の主人公でありながら客観的になり、一度離れるというお考えにとても共鳴いたしました。おそらくそれを世間一般的には「切り替えが大事」というのでしょうが、その具体的な方法を教えていただき、なるほどなと思いました。私はどちらかというと、嫌な出来事も、悩みも、失恋も、相手への恨み(というほどでもありませんが、悪い思い?)も、「大丈夫、いつかは(今深く思っていることも)通り過ぎるときが来る。」と日にち薬によるスルー派でしたが、冷静に客観的に問題事を見て深く腑に落ちるようにするということも大切なことかなと思いました。ありがとうございました。
藤本晃(慈照)さま
お返事をいただきまして、ありがとうございました。心が言葉や体をそうさせている、まさにそのとおりですね。私が読んだキリスト教の教えの「思うだけでも罪になる」も、宗教は違えど、要は藤本さまが言われるようなことなのかなと思いました。
プラスの思考で相殺も本当にそのとおりだと思います。ですので、私はハスノハのつぶやきでつぶやくときには、なるべく「全ての子供が幸せでありますように」「早く世界が平和になりますように」とお祈りのつぶやきを入れます。勿論個人的つぶやきもゼロではありませんが。宗)日本テーラワーダ仏教協会のホームページ、また検索してみます。どうもありがとうございました。