読経で性格が悪くなる事はありますか?
仏教に関心があり、真言宗の勤行集を買って朝夕読経するようになりました。
今大体2ヶ月目となります。
読経していると最初はとても気持ちよく感じていましたのですが、最近は読経中、後に関わらずやけにイライラしたり、悪い事を考えてしまって戸惑っています。
これは読み方が悪いのでしょうか?
回数は唱えている方ですが、特別な事はしていないつもりです。
それとも潜在意識の汚れが浮かび上がっているのか?
自分には判断ができません。
僧侶の方でも同じような経験をされた方いらっしゃいますか?
何卒アドバイスよろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
誰でも越える壁です
てらずきさん、毎日の読経お疲れ様です。ご自愛ください。
何回も続けているとイライラしてくる。私もそうでした。最初のうちは覚えることが多く新鮮にうつりますが、慣れてくると早口になったり、誰も聞いてないことを良いことに飛ばしたり、ラップみたいに読んだり等々。
誰のために読んでいるのか?自分のためだけでは割りきれないこともたくさんありました。
しかし、家族や友人、遺族の感情に触れていくうちに読経だけが思いに応えるものだなと思うようになり、私に与えられた時間を真剣に読経に集中しました。そしたらお経の意味が見えてくるようになり今では手を抜かずに読経しております。
あなたもこの先に待っているものをつかむ気持ちで読経を続けてみませんか?後悔(航海)の先には大きな発見が待っているかもしれませんよ。
お経は「読むもの」でとどまってはいけない
曹洞宗の大本山総持寺で10年おりました。
毎朝のおつとめで「大悲心陀羅尼」というお経を読みます。何回読んだかわかりゃしません。私が上山した当時はがっちり縦社会でいじめも見えないところではあり当時は酷い所でした。毎朝大慈悲心の陀羅尼を読んでいるのに慈悲心が生じないのですから。修行仲間の一人は逃げ出して自ら死をえらびました。酸いも甘いも裏も表もみなけりゃいいものも見てきました。お経ですら人が病む。
ボランティア団体だって内部でケンカしちょるのもおるでしょう。
宗教団体だって蹴落とし合いしておるのもいるでしょう。
政治や医療や教育だって非道な行いが起こることはあるでしょう。
畢竟じて人間の行いとは「一行」に尽きる。一場、一場、そこでの一行。
どれほど心をこめられるか、どれほど打ち込めるか、どれほど誠実におこなえるか、どれほど手ごたえのあるものになるか。
他人さまはどうでもいいです。自分がどうか。
お真言もお経も念仏も禅語も本当にそれを読めるようになるということは自分のものになるということです。生きた救いになるかどうか。救いの手になるかどうか。智慧の働き、慈悲の働きになるかどうか。
どんな痛ましい地獄の経験もそこから這い上がって、どうか。
毒されてやさぐれてあいつめこいつめ、どうでもいいわい、とヤケクソ、適当、ぞんざい、自己中心的な振る舞いになれば何べんお経を読んでも餓鬼界畜生界という精神に堕するのだと気づきました。
お経の意味なんぞ知らんわからんでも人を立派にご教導、導き、救ってくださる立派な先生もおられる。お釈迦さまはお経を読んだのか!という禅の公案があります。
お経の言っている内容とは何か。説いていることは何か。導く先は何か。
そこに愛はアルンカイ?ではなくそこに菩提心があるのかどうか?道心。求道心があっても菩提心の何たるかを知らないままであれば、いくら求めても大悲心陀羅尼を千回読んでも慈悲心のカケラすら生まれん!と私は気づきました。
お経を読まずとも大慈悲心、広大・真実・清浄なる智慧の働きがこの人生で生み出されるかどうか。法要も読経も修行もカタチではなく血の通いがあるかどうか。山岡鉄舟の下に提唱をお願いしたいと門下生が。鉄舟は稽古場へ連れて行って自身の稽古の様子を学ばせました。生きたお経、生きた人生、生きた智慧・慈悲、生きた真言、生きた救い…の一行を。今、そこで。✋
慣れて飽きてきたんでしょうね
読経なんて最初はうまくいくかどうかわからないし、どこから声を出せばいいのか、一定のリズムでいいのか、何より間違わないか、などと、必死で一所懸命にやります。
慣れてほどほどできるようになると、飽きますね。「ああ、毎朝夕何分もこれに時間と手間をかけるのは苦痛だなあ」とまで、思ってしまうかも。
何のために読経?意味はあるの?などと意義を自分に問い直したり調べたりして、やるならば、やる気でやるほうが良いと思います。
質問者からのお礼
早速のお返事ありがとうございました。
丁度早口になっておりましたので、気をつけて今後も読経したいと思います。
この度はご縁をありがとうございます。
藤本晃様
お答えいただきありがとうございます。
率直な所飽きは全くございませんが、その経の意味を考えながら読む事は大切なことだと確かに思いました。
アドバイスありがとうございます。