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友達がいないのはおかしいのでしょうか?

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私は昔から友達を作るのが苦手で、友達と呼べる人は少ない上に今ではあまり連絡もとっていません。

友達がいた方が楽しいのはわかります。実際羨ましいなとは思うのですが、大学時代に仲良くしていた子とのトラウマで、友人との距離がつかめず広く浅くです。

希望の就職先に就いたわけではなく、そのことを昔からの友人に知られるのも嫌で、今友人だと思っている子にもここ1年は連絡していません。友人からも連絡が来ないので、その程度だったのかなと落ち込むこともあります。

そんな私に母が
連絡をくれる友達がいないのはおかしい
そこがあんたはおかしい
と言いました

私はべつにひとりで過ごす時間が嫌いではありません。むしろひとりの時間、空間がないと辛いと感じます。
友達がいた方がいいし、自分自身さみしい交友関係だとはおもいます。しかし大学時代のトラウマもあるので、しばらく友達はいいかなと思っています。

友達がいないことはいけないことなのでしょうか?
おかしいことなのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無理に作る必要はありません。

友達は、自然にできるもので作るものではないと思いますよ。気の合う人が集まって自然に友達になっていきます。気軽に話ができる人は友人ですが、本当はあなたが困った時、相談に乗って欲しい時に、腹を割って真剣に一緒に悩み考えてくれる親友、そういう人が一生に1人か2人いたら十分じゃないでしょうか?一生に1人か2人ですからね。雑談したりわいわいがやがや騒ぐの友達であっても親友になれるかどうかわかりません。
何故かって?それはその人の個性の問題です。誰が誰と付き合おうと自由ですからね。付き合わない自由もありますよ。ただ、あなたに対してあなたのために悩み、考えてくれる人はあなたの成長のために必要ですよ。つまり親友ですね。
あなたは、まだ20歳だし、そんな親友にいまその年で巡り会えていたとしたら、この愚僧の出る幕はありません(笑)
私はもう少しで還暦、60ですが親友と呼べるのは3人ですよ。20年に1人くらいですかね、出現するのは、その出会いを大切にしていますよ。
あなたも無理に友達を作る必要はありませんよ。ただ、本を読んでジャンルは何でもいいですよ。感性や人格を磨いてくださいね。
あなたの幸せを祈っていますよ!

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浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向きに楽しく愉快に生きていくためのヒントを自分自身も考え続けながら、また少しでも皆さんのお役に立てればと考えています。できるだけ、わかりやすく簡単にお答えしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。現在も整骨院をやっていますが、医療福祉関係の仕事に長年従事してきました。他に、知的障がい者施設の仕事に関わらせていただいています。また、イジメや引きこもりなど子どもたちのために何かできることがないか、現在模索中です。フリースクールをお寺で開講予定しています。仏教特に浄土学は死ぬまで研鑽だと思っていますが、居眠り専門なのが、課題です。

自分の心と友達であれば万人の友となる

そんな完ぺきな友達はいません。
私も心悠と呼べる人間はいますが、別人、別人格、別存在、別行動。
わたしは私。
彼は彼。
違っていいのです。
あなたはもっとその心、考え方をこそ自分の真の友人にさせるべきです。
何故ならあなたのその物事の見方、捉え方、考え方を生み出す心こそ、自分の永遠の友達であり、親友にするべきものだからです。
そこがおろそかであると友達もできない。卑屈になる。
そこが、はっきりしていれば、誰とでも友達になれる。
そういう心を作る教えが仏教です。
私は万人の友である。釈迦

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

解答ありがとうございます。
お二方のお返事、どちらも読みいってしまいました。

ひとりで考え、ひとりで過ごすのも好きですが、これから、親友とよべる友達に出会えればと思います。

まだ出会えていないけれど、それは悪いことではないのだと思えるようになりました。
ありがとうございました。

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