浄土真宗に対するカルチャーショック
先日質問をさせて頂きました。
今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。
私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです)
祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。
納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。
広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。
その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。
ちょっとショックでした。
確かに浄土真宗教義ではそうなのですが
言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。
曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。
正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。
先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。
既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。
浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。
そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか?
あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
浄土真宗
拝読させて頂きました。
貴方が疑問に思われることは、浄土真宗に属する私もごもっともだと思いました。
お祖母様の御遺骨を納められているお寺の住職が、かなり言葉足らずで、参詣者に対してあまりに配慮がなさ過ぎるのでしょうね。補足するならば、成仏したから帰って来ないのではなく、成仏したが故にいつも寄り添っていてくれる存在だということと思うのです。
これは仏教の法要儀式に詳しい、同じ宗門の先輩僧侶から聞いた話で紹介させて頂きます。少なくとも納骨先の住職のような理解が主流となったのは、明治以降、それも戦後ではないかという見解です。
お仏壇の前に、野菜で作った牛や馬こそ飾らないものの、一般に理解されるお盆の概念は浄土真宗にもあったということです。
京都にある本山西本願寺(東本願寺でも)では、盂蘭盆会の時は宗祖親鸞聖人の御真影を安置する御影堂に、本願寺御歴代の御影(肖像画)が全て懸けられます。
そしてそれら御影の前には、巨大な亀甲(切子)灯篭と呼ばれる盆灯篭の一種である灯篭が吊るされます。この灯篭こそが「魂の依り代」で、古くはその灯篭の真下で、本願寺の門主が盂蘭盆会のお勤めをしたそうです。
そうした史実からしても、浄土真宗でも通仏教と同じような思考で盂蘭盆会を勤めていたことが解る、とのことでした。
確かに、浄土真宗の教義に厳格にいうならば、盂蘭盆会を勤めること自体が矛盾します。実際に浄土真宗が盛んな滋賀県や北陸では盂蘭盆会をしない地域もあります。でも、墓参りはされるそうなので、日本人古来の先祖を慕う文化なのでしょう。先輩僧侶が言うには、儀礼と教義は必ずしも合致しないことが多いと話されていました。
今ある浄土真宗のお寺とお付き合いされる中で、今回と同じようなケースに遭遇されることは、ある意味で多いかも知れません。しかし、そうした一刀両断的な発想が浄土真宗全般に蔓延している訳でも決してありません。先輩僧侶のように儀礼の歴史をひもときながら、その意味合いを受け入れる僧侶もいます。私も納骨先の住職のような言われ方をすると、例え同じ宗派でも気持ちを閉ざしてしまいます。
真宗寺院の納骨堂に、本尊がない納骨堂はないとは思いますが、納骨堂での読経も、遺骨に対してではなく、納骨堂の中心に安置される本尊に対するお勤めという位置付けで、住職は読経されてたのではと思っております。
合掌
深い悲しみ、寂しさ、俺の疑問
みすけ様
このたびは寂しく悲しみの深い中、悩まれて大変な日々を過ごされましたね。お察しいたします。
私が感じたのは、形式ばかりのお坊様で馴染みもなくて疑問がたくさん湧いて、ショックが重なったのだろうと思いました。
「当然、知っていますよね。よく勉強していらっしゃる」なんて…。
少し上から目線かなぁと思いました。みんなが知っているなんてありえませんよね。
そんなことよりも、もっとお祖母様の生前のお姿や、悲しみの深いご遺族に対してどう死と向き合うか、などを訊いてみたかったのではないかなぁと思います。
私も尊敬する祖父との別れは放心状態で、一部記憶がないほどでした。
北海道は今、どんな花が美しく咲いているのでしょうか。
紫陽花にも百日紅にも秋桜にもお祖母様を感じ重ねられるのではないでしょうか。
ところで、成仏についてです。
私が講師に教えて貰ったのは。
黒板に山を描いて、頂上に「成仏」と書かれました。
そして、道をいくつも描き「登る過程が違う。目指すのは成仏、同じ」
「なるほど!」と思いました。
崖を登るのは自力聖道門ともいえるし、平坦な道を安全にしっかりと歩くのは他力本願と言えるかも知れませんね。
みすけ様が俯瞰して、もーっと俯瞰して物事をとらえて、地球を見下ろしたら何かわかることがあるかも知れません。如来様はそれよりも遥か彼方からお見通しですしね。
まとめますと、最愛のお祖母様との別れの際に、違和感や馴染みのない僧侶の振る舞いに疑問を感じた。そこへ更にショックな言動がきて、思考が整理できないぐらいに…。
それでハスノハに問いかけたのかな?と思いました。
誰もみすけ様の悲しみややりきれなさを受け止め共に涙する者もいない、せめてお坊さんにはこうあって欲しかったのに…と。
怒りや悔しさもあったかも知れませんね。
最後に「こうあるべき」を少しずつゆるめて行かれませんか?
「そんな考え方もあるんだねー」と。
サザエのカツオみたいにお調子者の感覚を真似たら楽になるかもです!
「〜べき」が強すぎると自分も周りも縛って緊張状態になりますから。
色々お節介が過ぎましたね。長々とスミマセン。
コロナ禍、ご自愛ください。
薫衣きみこ
浄土真宗でも故人は還ってくる(還相回向)
ご相談拝読しました。
お祖母様のご葬儀の時にも曹洞宗との違いに違和感を感じられたようですね。幼少より慣れ親しんだ教えにやはり安心感・親しみを感じるのだと思います。信教の自由は保障されていますから、どうぞみすけさんの信仰を大切になさってください。
さて、浄土真宗においても故人は還ってくると考えます。それもお盆に限らずいついかなる時も還ってきているのです。
それは何も幽霊になってくるとか、魂が彷徨っているという話ではありません。残された人が故人を偲び称える「南無阿弥陀仏」の声となって還ってくるのです。
故人を思う私の「南無阿弥陀仏」の声が、実はそのまま故人から私への呼びかけであり促しなのです。
先だってこの世の命を終えられていった故人が、同じく限られた命を生きる私たちに、どうか後悔の無いように、本当の満足、本当の幸せを求めて生きてくださいと、その問いをごまかさずに持ち続けてくださいとはたらきかけてくださるのです。
浄土真宗における供養とは故人のためにしてあげるものでなく、故人が私のために用意してくださったご縁をいただくものです。
故人は私が何かしてあげないと迷ったり苦しんだりする存在ではなく、むしろ迷ったり苦しんだりもがいている私たちを心配しておられるのでしょう。
もちろん、おっしゃるとおり
>こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ません
故人ご自身の姿を確かめられない私たちは「私にとっての故人(私自身の受け止め方)」を確かめていくしかできません。
故人の存在がなければ中々阿弥陀仏に手も合わさらず、教えを聞こうともしない私たちに、故人は「それでいいのか?」と促してくださります。その促しを受けて、私たちは故人を偲ぶ気持ちをとおして阿弥陀仏の教えにご縁を賜るのです。
あなた自身の信仰を大切にしつつ、せっかくご縁をいただいた浄土真宗についてもこれから親しみを感じて頂けると嬉しいです。もちろん選択はあなた次第です。
質問者からのお礼
薫衣きみこ様
仰られる通りなのです。
上るルートが違うだけで山は同じなのですよね。
祖母は末期がんが分かってから急に亡くなってしまい、コロナの問題もあり入院中一度もまともに顔を見せに行ってあげる事が出来ませんでした。
幸い、孫の中では私だけが一度だけ少しの間顔を見せる事は出来ましたが、やはり私としてはもっとしてあげたい事があったのだと思います。
それを亡くなった後からでもせめて、と思っていた矢先の祖父母の菩提寺の反応でしたので、尚の事ショックを受けたのだと思います。
もっと悲しみの中にいることが出来れば、このような些細な事は思う事も無く、そうできていないかもしれない自分にも色々と思う所はあります。(また「べき」な方向に行きかけているかもしれません。
吉武文法様
祖母曰く私が孫の中で一番可愛いかったそうなのです。
なので祖母が悲しまないように、宗派の違いの些細な事を気にしないで進んでいけたらと思います。(宗派の違いを些細な事と言っては問題があるのかもしれませんが(汗)
西田通慧様
同じ宗派の中でも色々な考え方があるのですね。勉強になりました。
菩提寺のお坊さんの考え方が全てでは無いと言う事が分かり、むしろ各宗派の考え方や物事の進め方は尊重しながら自分の思うように故人と今の自分の道を進めていこうと思いました。
まとめてで大変恐縮ですが皆さまありがとうございました。