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観音菩薩とか不動明王とか本当にいるの?

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有り難し有り難し 37

 お経には観音菩薩とか不動明王とか釈迦以外の仏様がたくさん出てきますが、仏教ではそういう霊的な存在を本当に存在すると教えているのでしょうか?
 それとも実在しているわけではなくて、仏教の教えを象徴しているだけの架空の存在なのでしょうか?たとえば、不動明王の剣は智慧の象徴とか、座ってる石は固い菩提心の象徴とかいう感じで、仏教の教えを大衆に分かりやすくキャラクター化して説明しているだけで、崇拝の対象ではないのでしょうか。
 お経の中ではお釈迦様がいろいろな菩薩や如来を紹介しますが、お釈迦様自身がそういう存在を拝んでいたとか護摩祈祷をしていたとか逸話は聞いたことがないので、不思議に思い質問させていただきました。よろしくお願いします。

2022年11月8日 22:42

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いると「みなす」

たとえば、ゲームに登場する架空のアイドルを応援して生き甲斐を感じる若者もいます。
私達は、レモンや梅干しの味を想い浮かべるだけで唾液が分泌されたりもします。
私達は、観音様がいらっしゃると「みなす」ことで心と体に何らかの影響を与えることが可能なので、実在しなくても無意味ではないと思います。
学問的には、大乗経典はお釈迦様が亡くなられてから数百年後にできた経典であり、お釈迦様が実際に観音様や不動明王について語られていた証拠は無いでしょうね。
追記
 実在すると信じられればそれが一番です。
 しかし、仏教は、経典を信じられない私達、疑ってしまう私達を見捨てるような器の小さい教えではないと思います。
 あくまで個人的な見解ですが。

2022年11月9日 12:57
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

真意をきちんと弁えた上で知り、学び、引き出し、我が体となす。

そもそも「本尊」とはなにか。
たとえば「観音」や「不動」や「地蔵」や「薬師」というのは、そういう謎のホトケや菩薩やイボイボ頭の神様めいたものがどこかに存在するのではない。
自己の無我の働きを象徴したものでもあるわけです。
仏の無量無限の功徳の人格化、具現化。もっと言えば、人間にそういう作用があるから、そういうものが生まれた。
逆に言えば、こちらが元々、ちゃんと修行して自分を見つめてみれば本当にこの身心が観音、不動、地蔵、薬師の作用体なのです。それを「知った」というレベルではあなたが家庭や社会で救い、利他、善導のはたらきにはならない。「そう」ならなければ。
では、どうすればそうなれるか。
人間がトコトン自己探求して自己の本来の様相・性質性の追求をしていくと、わたくし・自我・エゴ・我の無いところ・こころにいたる。
そこは自由で、無碍で、安楽で、静寂で、迷いやためらいがない。何かのためにということが無い。
では、実験をしてみましょう。
これをご覧の方は、今からまず、この以下の文を読む前に、立ってください。片手をあげてみてください。
「今すぐ立ちなさい!」「手を挙げてみてください」と言われて、立てる人、手をあげられる人はある種、無為、無我なのです。
あるいは機敏、躊躇が無い、迷いが無い。
「私」が無いから「スッ」と立てる。
プライドや自分の構えがある人間というものは本当にめんどくさいもんです。「なんで?やだ。やりたくない」という人は自分がある。優先順位が別、先、他に「ある」からやらない。我・餓鬼心というのは、自分の保身の強いこころの覆いを象徴したものでもあるのです。自分を認め、自他の隔てを持っている様子。
そういう世界を六道ともいうわけです。
だからこそ、六道を救済する地蔵とはあなたがまず自己の無我性を自覚することからなのです。
無我ゆえに、慈悲、智慧、自在の働きとなり、教導、救済の作用となるのです。
無我とはエゴ的な自分意識が無いこと。
自分の意志が無いとか個性が無いとか言うことではありません。
何でもなれる。己我に縛られない。
三十三身。
変幻自在。
臨機応変。
六道救済の地蔵菩薩。
千手千眼観自在菩薩のすくいのはたらき。
自身の薬師のはたらきで自己を浄化する。
その働きで他者をも救える作用となる。
観音も地蔵も不動もみんな自分の中にある自他をすくえるチカラなのです。

2022年11月9日 23:08
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

 僧侶の方も実在するとは思ってらっしゃらないのですね。あくまで方便という感じでしょか。
 なるほど、神仏がゲームのキャラクターみたいな架空の存在とわりきって考えるとスッキリしますね。
 でも架空の存在でもいるとみなすことによって、現実に影響が出てくるところがゲームとは違うところですね。とてもためになりました。ありがとうございます。

 仏像のような神仏は実在はしているのではなく、人間の仏様のように清らかになった時の心を、象徴的に描いたものなんですね。
 無自我になれば、人の心の力は魔法のように働くことがあり、その見えない不思議な作用を強引に人の形で表現すると、仏像みたいな変わった恰好になるということでしょうか。
 私たち一人一人の無自我性は、観音様や不動明王様のような変幻自在の人を救う力を持っている。そして自分を捨てて素直になれば、みんながその魔法のような力を使うことができる。とても夢のあるお話をありがとうございます!

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