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自殺以外の選択肢が思い付きません

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有り難し有り難し 15

お世話になります。2年半ほど前にコロナ禍で生きがいを失い、悩み相談させて頂きました。その時に頂いたご助言のおかげもありなんとか生きながらえています。
しかしながら、タイトルにもある通り以下のようなことから希死念慮が絶えず付き纏っています。
まず仕事面については今年色々と行き詰まりがあり数ヶ月の休職をしてしまいました。今は復帰していますがリハビリと言うこともあり給料に見合わない(不当に高く払われすぎだろうと思われるような)単純作業をする日々です。周りの同世代や下の世代がどんどん仕事を覚えてキャリアを進める中で自分1人が無様な状況。転職しようにもこんな奴が箸にも棒にもかかるとは思えず。30になるので第二新卒もない。情けない状況です。
次にプライベート。当方男ですが、周りの同世代は上記の仕事面だけでなく恋人がいたり結婚したり子供を授かったりとプライベートにおいても充実させてます。それに比べて自分は未だ一人で仕事は上記のざまで、趣味も1人でライブやスポーツ観戦をするもコロナ規制や同じ場所にカップルで来てる人を指を咥えて眺め悶々とする日々。
そしてコロナ禍に対する不満。前回質問時もお話ししましたが、日本だけが一向にコロナ規制が終わらず、ライブやスポーツ観戦も思ったように楽しめない日々。まして今はカタールW杯でマスクなしの声出し応援をしてる風景を見て余計に悶々とします。「うちはうちよそはよそ」と言われても現状を正当化したいだけの屁理屈にしか聞こえません。

上記の通り仕事やプライベートで一向に思ったような改善や向上が見られない、そしてその原因は自分にある。

どんなに嘆いても社会や世の中は変わってはくれません。分かってます。どんなにコロナ規制の不満を嘆いても変わらない。だったら自分が良くなるように変わるしかない。でもそれも出来てない。なら自殺以外に選択肢がないですよね。弱者男性という言葉がネットで流行ってますがまさに私のことです。ネット曰く私のような人間は安楽死で淘汰されるべきだそうで是非そうしてもらいたいです(笑)

ならさっさと死ねよに対して返す言葉もありません。慰めが欲しくて書いてるのでもないです。死にたいなら死ねも大歓迎です。最後は取り止めもなく気持ちを書かせて頂きました。
要は死ぬ勇気と生きる希望のどちらかが欲しいと言う悩みです。申し訳ありません。

2022年12月1日 20:56

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

希死念慮という言葉に騙されてはいけない

私も死にたいというときは何度もありましたよ。
人間誰だって、辛いことが重なる=心の中で悪いこと・暗いこと・ネガティブなこと・陰鬱なこと・精神に活力を与えないことを考えていればそれが脳内で最優先案件とされる。だから、死にたい死にたいということをやるようになるの。そういう心理に追い詰められているというだけなのです。私自身も当時は死にてーという気持ちに取りつかれていました。あるとき「ああ、これは脳が死にたいということを考えているだけじゃん。」と気づけました。人は考えたことに「なる」。
西遊記やアニメのドラゴンボールになんにでも変化するキャラクターが登場するでしょ。それは人間が「考えたことになる」ということを象徴している一面もあります。
選択肢は二つどころではない。
死にたいというならそれは我なのか。我を捨ててもいいと思うくらいなら無我です。無我は千手観音の象徴。無我だからこそ、死のうという選択肢を改変することができる。
死ぬ気になれるということ。
死んでもいいくらい、何でもやれるということ。
死んでも誰かを守りたい。助けたいという力にもなる。
私は、死んでもいいというほどに思うのであれば、この世に本当の救いというものはないのか!と奮起しました。
仏教でもサトリサトリといいますが、本当に悟りということがあるならそれはどういうことなのかを知りたいと思いました。
こんなに死にたい死にたい行っててばかばかしい、情けない!と怒りの気持ちすらわきました。
その時、怒りというエネルギーは私をすくったのです。
怒りも悪い怒りばかりではない。
世の中の多くの人たちを救われた人たちもみんな怒りを上手に用いた。
この世の中を何とかしたい!
こんなことで苦しむなら、この苦しみをもう誰にもあわせたくない!
そうして生まれたものがあんたの前にあるあらゆる道具だとおもってみなさい。
するとカーテンだってまぶしさをさえぎるもの。
布団だって寒さを無くしてくださるもの。
携帯だって伝書バトや早馬を用いずとも遠方の人と連絡が取りあえる素晴らしい救済グッズでしょう。
あなたの悩みだって、これを通して誰かを救う力になるのです。
生きるか死ぬかだけではなく、今俺はこれを見ていたという選択肢があったはず。
人間の心は迷うためだけにあるのではない。誓願。より良い心へ向かうためにある。

2022年12月2日 8:26
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。なんだかんだで生きてます

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