hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

離檀について

回答数回答 3
有り難し有り難し 33

私の実家の菩提寺との関係にについてご相談です。
昨年末に実父が亡くなり葬儀を行いましたが、お布施の金額や住職の振る舞いが納得できるものではなく、離檀を考えております。

お布施の金額についてお伺いをたてたところ、60万円。お車代2万円×2人分を請求されました。お布施とは、そもそもお気持ちであり、金額を提示されるものなのでしょうか、また葬儀は30人ほどの小規模のものでしたが、脇導師もいらっしゃいました。菩提寺ではない近隣の寺からいらしたようです。2人必要なのでしょか?
戒名は一番下のランクで葬儀社の方も驚いていました。実家周辺の同じ宗派の寺の中でもかなり高額とのことです。

今までにも、年期法要など毎回、かなり多くのお布施を要求されています。お布施をお渡ししたときに私たちの目の前で、お布施の中身を数え確かめたこともありました。

住職として信頼できないこと、菩提寺には墓がないこと(自宅近くの公共の墓地に墓はあります)今後、これからもかかるであろう高額な費用を捻出することも難しいので離檀を考えています。

離檀の際にお気持ちはお支払いしますが、離檀料として30万円もの金額を支払う必要はありますか?
(先日、49日の相談をした際に〝今後のお付き合〟と書かれた用紙を渡され)盆暮れの付け届け○〇円、年季法要お布施〇〇円 等と書かれている用紙に離檀料25~30万円との記載がありました。

嫁ぎ先もたまたま同じ宗派ですが、もっとこちらの話に耳を傾けてくださいます。地域が違えば色々と違ってくるとは思うのですが、どうなのでしょうか

2023年1月25日 15:07

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お寺は、信頼出来ない、ついていけないと思われたら、終わりです

そうですね。お寺の事情や地域の取り決め等もあるかと思いますが。
お寺を支える檀家さんが負担を感じ、寺や住職に対して不信感から信頼出来ない、ついていけないと思われたら、終わりです。
住職の日頃の関係性や向き合う姿勢も大事でしょうね。

お布施に関しては、ご家庭でもいろんな事情があり、こちらも相談を受けたり、内情を知っていますから、出来る範囲で構わないですよと申し上げますし、用意出来ない方もいらっしゃいますが、それでも大切に勤めさせていただいています。お布施とはそういうものです。

離檀にも理由があるわけですから。引越しとかね、様々な環境の変化や事情によります。うちは、離檀料は必要ありません。また新たに、お住まいの縁あるお寺を紹介しています。仏縁は大切に繋いでいただきたいからです。

離檀料に関しては、そちらの総代さんにも相談なさってはどうかしら。やはり、これからの付き合いを考えると、憂鬱になりますものねぇ。

2023年1月26日 0:24
{{count}}
有り難し
おきもち


はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として...
このお坊さんを応援する

菩提寺と檀徒

ご相談ありがとうございます。
お布施という文言に正確に沿った場合、制度等で詳細に決められるものではないですから、例えばそれを金額に表した場合は「お気持ちで」という表現にもなるわけです。
しかし「貨幣経済を基礎にして成り立っている世の中」という立ち位置から、ある一ヶ寺の檀徒としてお勤めをいただくべきことは何なのかを考えれば、それ相応のご喜捨を定期的にいただかないと例年通りの行事運営(各固定費や建屋修繕費等の捻出含め)が難しくなる、という側面もあります。
そこでやはり大事なのは、中田師も仰っている「信頼」なのです。
明瞭な使途が公になっていればそれで足りるのか…と言えばとそうばかりでもない、先ずは日頃から「対人関係としての菩提寺対檀徒」という構図が上手く成り立っていないといけない、それが大前提になるのでしょう。
他方、金額の多寡については一概には言えないものと考えています。
その場面で納めてもらうべき60万円ならそれなりの理由があるはずですし、不必要なら1万円でも高すぎだと、私は思うのです。
先方から具体的な説明が欲しいところですが、それこそそういう時が普段からの「信頼関係」有りきの場面なんですよね…。
とにかく直接的であれ間接的であれ、お寺様との常なる対話と相互理解が必要、ということになるでしょうか。困ったものですね。

2023年1月27日 10:53
{{count}}
有り難し
おきもち


現代は実に「背負い込んでる」人が多いと思う。 別に自分が背負い込まなくて...
このお坊さんを応援する

本来は5人

生きている人に戒を授けるときは、5人のお坊さんを5人の仏菩薩にみたてて儀式をします。
葬儀も、昔はお坊さんが5人でやっていたようですが、簡素化され3人とか2人、コロナ禍と家族葬ブームで1人の場合も増えました。
なので、本来は、2人でも少ないのです。
ただ、そのようにお金の話ばかりされる住職さんは、ちょっと異常な気はしますね。

2023年1月26日 8:29
{{count}}
有り難し
おきもち


がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございました
本来は導師様はお二人でも少ないのですね
なぜ、お二人なのか、お布施の金額にしてもこちらの質問にお答えいただければここまでの不信感はなかったと思います。
お忙しい中ご回答いただきありがとうございました

「仏教全般」問答一覧

チベットのダライ・ラマ法王の話は本当?

今まで来世・霊魂・輪廻転生について質問しました ご丁寧な回答ありがとうございます 回答を頂いた内容だけでなく、他の質問に対する回答も読むようにしております。 そこで新たに知りたいことが出てきたので 日本になじみのないチベット仏教について質問します。 【質問 その1】 チベットのダライ・ラマ法王とは日本の僧侶から見てどんな立場の方なのでしょうか? ①日本に存在するカトリック教会から見たローマ法王のように頂点に立つ人物である認識ですか? ②日本の仏教界から疎遠にみられているのでしょうか? ③昔の院政をしていた皇族(白河法皇など)のように高貴な身分の人と言う認識でしょうか? (②ならば キリスト教における カトリックとプロテスタントの関係、イスラム教のスンニ派とシーア派の関係のようなもの) (③ならば人の道を説く宗教家と言うより権謀術数を駆使した政治家) 【質問 その2】 チベットの ダライ・ラマで検索すると 以下のような話が出てきました https://diamond.jp/articles/-/34724?page=2 上記サイトから転載  輪廻転生、前世の存在については、現在まで多数の文献等に報告されています。  また、チベットのダライ・ラマ法王は何度も転生を繰り返しているとされ、その位の継承は、代々転生者(生まれ変わり)を探し出すことでなされています。法王が亡くなると、次に生まれ変わってくる方角などが予言され、数年後、それにあてはまる幼児を探し出すと、先代の遺品を選ばせたり、先代の身近にいた人物を見分けさせるなどして前世の記憶を試すのです。現法王も幼少時に、先代ダライ・ラマ13世の愛用していた数珠を見分け、側近の名を迷わず言い当てたと言います。 この話は信憑性の高い話なのでしょうか? 【質問 その3】  上のURLは 東大病院で責任のある地位にいた医師が書いたものです。 ここでは 前世の記憶がある人の話が出たり、 霊媒師を通して自分の亡母と会話をした話が出ています  Yahoo 知恵袋ではこのようなQ&Aもありました https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14270511814 これを読んで お坊様はどのような感想を持たれますでしょうか?

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

成長し苦しみを滅することができるのか

仏教の本を読んでいたら次のような一節がありました。 若い人たちに授戒して騒ぎになり、授戒した僧を叱るお釈迦様の言葉だったと思います。 “二十歳に満たないものは、暑さ、寒さ、飢え、渇き、虫刺されと痛み、風と太陽、地を這う動物との接触、厳しくそっけない言葉に耐えられない。彼は、死に至るまでのあらゆる身体的不快や苦痛を、我慢できない。だが、二十歳になればそれができる。このことは、いまだ我々に信頼を寄せていない人々に信頼を抱かせることも、すでに信頼を寄せている人々の信頼を強めることもできない” 最後の一文はどういう意味でしょうか?本筋と異なりますが、もしよろしければ、あわせてご教示いただければ幸いです。 私は二十歳を超えていますが、これらのことに耐えることができません。本当に毎日つらくてたまらなく感じます。さらに年をとるとますますつらくなるのかと思うと、怖いです。 "二十歳になればそれができる"、とありますが、大抵の人は耐えられるのでしょうか。私は人生で、努力をしてこなかったから、苦しいのでしょうか?成長し損ねたのでしょうか?40になって今からどうしていけばいいのかと思います。 苦しい状態がずっと続いています。 お言葉をいただければ、幸いです。

有り難し有り難し 8
回答数回答 1

病弱でもボランティアがしたい

私は病弱で、精神も患っていますし体も患っています。臓器もボロボロで、28歳でそこそこ若いのに身体能力はもう老人のそれです。いや、下手をすれば健康な老人の方がもっと体力があるかもしれません。けれど、そんな自分でも人助けがしたかった。そして私はある結論に辿り着きました。 それは、今の現代を支配している「ゲーム」という文化を使ったものです。自動演算(わかる人に言えば連射コントローラー)をしてくれる機械(ちゃんとアマゾンでも発売されている正当な品でゲーマーなら愛用者も多く、違法性のものではありません)を使い、寝ている間にオートで作業を行ってもらい、長い作業時間に対して確率1%を下回るレアアイテムを入手したら、それをSNSを使って無償で誰かに配布する行為です。 これならば「自分の得」を削って誰かに譲ることそのものをボランティアにしているため、体力を使わなくて済みます。つまり、私は人に譲るためだけにこの作業を黙々と続けているのです。人を喜ばせることに、何か自分の魂の行き先に必要性を感じ、それを行うことに自分も喜びを感じているからです。 これは仏教的に言ってなんらかの「行」にちゃんとあてはまっているでしょうか。また、己の中の仏をちゃんと育てることができているでしょうか。なまじ、ゲームというエンターテイメントを使ったものなのでこの質問をすること自体に対して不安はありますが、よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ