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仏教の言葉について教えてください

回答数回答 2
有り難し有り難し 16

お坊さんこんばん。たくさんの質問の中から回答していただきありがとうございます。
早速質問ですが、精神が不安定な時に聞くとホッとするような、安心するような仏教用語、禅語などはありますか?
また、お坊さんが個人的に好きな言葉はありますか?

2023年1月27日 22:39

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

諸行無常 諸法無我 涅槃寂静

一切の事象は人間の考えや思い、見解を離れているがゆえに、いつでも新たに変わり続けている。ゆえに、あなたの思いもあなたの状況も、身も心も常に前のことから解脱し続けていて永遠に浄化され続けていることが無常である。
無常とは救いの道理であって世間の国語の教科書や辞典的な意味ではない。
仏教は救いの教え。救いの側面から見た無常でなければ単なる隠遁主義に陥る。
どうして釈尊は救いの法則としての無常を説いたのに世間の人々はそれを別の解釈をするのでしょうか。

無常とは、いつでも真新しの秒めくり、瞬間めくりカレンダー状態、永遠の浄化されっぱなし状態のことを言うのである。
一切皆苦とはこの世界は苦しみではなく、この世界は人間の考え方や思い方、願いや理想からまるで無縁で自立・独立・分離した自由な発動体・活動体・作用体として存在していることをいうのです。

無我とは自分が無くなるとか無になるということではない。
人間の身心にはもともと自分という意識、エゴエゴした自分中心なエゴ意識としての「わたくし」意識が立ち上がる以前の様子がある。人間はもともとこの世界の一部。人間の思いや理想や願いとは無縁なる世界と同期している存在である。それを無我という。私たちの私的なものの眺めではない世界。わたくしという意識の影響しない自由で独立した清浄なる世界。そこを無我という。ゆえに道元禅師は仏道をならうとは自己をならうなり。自己をならうというは自己をわするるなりと説くのです。自分意識というエゴアプリが起動する以前の世界は自由で無名で人間の世界の勝ち負け損得生滅苦楽からも離れた自由な世界だからです。よって無我も救いの様子なのです。

涅槃については、関心があれば自分で言葉を超えて心底追及するべきです。
仏道は人から言葉で習うことではなく、自分が自分のこのどうしようもない生老病死、四苦八苦、三毒、無尽なる煩悩から自由になる道です。
歯磨きだって自分でやらなければ、歯は汚れ、虫歯になる。
こころとて、どうして自分で磨かずして心が清浄になることがありましょうか。
坊さんのアリガタヤな話に用があるのではなく、それを通して自分が自分の真実をきちんと明らめることが第一優先案件なのです。
これを機に、真剣に仏道を求めることをお勧めします。
言葉だけおってもそれは知識。理解。会得や体得ではないのです。

2023年1月30日 0:04
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有り難し
おきもち


丹下 覚元(たんげ かくげん)
お悩み相談は「08020659278」まで。どなたでも無料。 救われた方...
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仏心者大慈悲是

拝読させて頂きました。
あなたが仏教についてご興味を持って下さることをとても嬉しく感じます。ありがとうございます。
仏教用語は多岐にわたりますからね、色々な言葉があり私達の生活の中に根付いておりますよね。ですから私達の生活な人生に大きな影響を与え続けているということかと思います。
そうですね…、不安定な時にホッとしたり安心する言葉ですか…。

仏様の心は大慈悲である、という言葉でしょうかね。

仏様のお心は全てのものを慈しみ寄り添いそして優しくお救いなさって下さるというお言葉ですね。

私達は誰もが小さく弱く儚く愚かな存在です。その様な私達を決して忘れることなく決して見捨てることなく余すことなく全てお救いなさって下さいます。そして仏様は私達を正しくお導きなさって下さり一切の迷いや悩みや苦しみからもお救いなさって下さいます。そして仏様のもとにて親しい方々と再会させて頂き一緒に清らかに成仏させて頂くことができます。
ですから仏様の大慈悲の心がいつも私達をお見守りなさっていて下さいますので安心することができるのです。
まだまだ沢山の仏教用語があるでしょうから様々な言葉に出会って下さいね。至心合掌

2023年1月28日 15:43
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有り難し
おきもち


Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

回答ありがとうございます!素敵な言葉ですね!

「仏教全般」問答一覧

チベットのダライ・ラマ法王の話は本当?

今まで来世・霊魂・輪廻転生について質問しました ご丁寧な回答ありがとうございます 回答を頂いた内容だけでなく、他の質問に対する回答も読むようにしております。 そこで新たに知りたいことが出てきたので 日本になじみのないチベット仏教について質問します。 【質問 その1】 チベットのダライ・ラマ法王とは日本の僧侶から見てどんな立場の方なのでしょうか? ①日本に存在するカトリック教会から見たローマ法王のように頂点に立つ人物である認識ですか? ②日本の仏教界から疎遠にみられているのでしょうか? ③昔の院政をしていた皇族(白河法皇など)のように高貴な身分の人と言う認識でしょうか? (②ならば キリスト教における カトリックとプロテスタントの関係、イスラム教のスンニ派とシーア派の関係のようなもの) (③ならば人の道を説く宗教家と言うより権謀術数を駆使した政治家) 【質問 その2】 チベットの ダライ・ラマで検索すると 以下のような話が出てきました https://diamond.jp/articles/-/34724?page=2 上記サイトから転載  輪廻転生、前世の存在については、現在まで多数の文献等に報告されています。  また、チベットのダライ・ラマ法王は何度も転生を繰り返しているとされ、その位の継承は、代々転生者(生まれ変わり)を探し出すことでなされています。法王が亡くなると、次に生まれ変わってくる方角などが予言され、数年後、それにあてはまる幼児を探し出すと、先代の遺品を選ばせたり、先代の身近にいた人物を見分けさせるなどして前世の記憶を試すのです。現法王も幼少時に、先代ダライ・ラマ13世の愛用していた数珠を見分け、側近の名を迷わず言い当てたと言います。 この話は信憑性の高い話なのでしょうか? 【質問 その3】  上のURLは 東大病院で責任のある地位にいた医師が書いたものです。 ここでは 前世の記憶がある人の話が出たり、 霊媒師を通して自分の亡母と会話をした話が出ています  Yahoo 知恵袋ではこのようなQ&Aもありました https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14270511814 これを読んで お坊様はどのような感想を持たれますでしょうか?

有り難し有り難し 11
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離檀について

私の実家の菩提寺との関係にについてご相談です。 昨年末に実父が亡くなり葬儀を行いましたが、お布施の金額や住職の振る舞いが納得できるものではなく、離檀を考えております。 お布施の金額についてお伺いをたてたところ、60万円。お車代2万円×2人分を請求されました。お布施とは、そもそもお気持ちであり、金額を提示されるものなのでしょうか、また葬儀は30人ほどの小規模のものでしたが、脇導師もいらっしゃいました。菩提寺ではない近隣の寺からいらしたようです。2人必要なのでしょか? 戒名は一番下のランクで葬儀社の方も驚いていました。実家周辺の同じ宗派の寺の中でもかなり高額とのことです。 今までにも、年期法要など毎回、かなり多くのお布施を要求されています。お布施をお渡ししたときに私たちの目の前で、お布施の中身を数え確かめたこともありました。 住職として信頼できないこと、菩提寺には墓がないこと(自宅近くの公共の墓地に墓はあります)今後、これからもかかるであろう高額な費用を捻出することも難しいので離檀を考えています。 離檀の際にお気持ちはお支払いしますが、離檀料として30万円もの金額を支払う必要はありますか? (先日、49日の相談をした際に〝今後のお付き合〟と書かれた用紙を渡され)盆暮れの付け届け○〇円、年季法要お布施〇〇円 等と書かれている用紙に離檀料25~30万円との記載がありました。 嫁ぎ先もたまたま同じ宗派ですが、もっとこちらの話に耳を傾けてくださいます。地域が違えば色々と違ってくるとは思うのですが、どうなのでしょうか

有り難し有り難し 33
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成長し苦しみを滅することができるのか

仏教の本を読んでいたら次のような一節がありました。 若い人たちに授戒して騒ぎになり、授戒した僧を叱るお釈迦様の言葉だったと思います。 “二十歳に満たないものは、暑さ、寒さ、飢え、渇き、虫刺されと痛み、風と太陽、地を這う動物との接触、厳しくそっけない言葉に耐えられない。彼は、死に至るまでのあらゆる身体的不快や苦痛を、我慢できない。だが、二十歳になればそれができる。このことは、いまだ我々に信頼を寄せていない人々に信頼を抱かせることも、すでに信頼を寄せている人々の信頼を強めることもできない” 最後の一文はどういう意味でしょうか?本筋と異なりますが、もしよろしければ、あわせてご教示いただければ幸いです。 私は二十歳を超えていますが、これらのことに耐えることができません。本当に毎日つらくてたまらなく感じます。さらに年をとるとますますつらくなるのかと思うと、怖いです。 "二十歳になればそれができる"、とありますが、大抵の人は耐えられるのでしょうか。私は人生で、努力をしてこなかったから、苦しいのでしょうか?成長し損ねたのでしょうか?40になって今からどうしていけばいいのかと思います。 苦しい状態がずっと続いています。 お言葉をいただければ、幸いです。

有り難し有り難し 8
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病弱でもボランティアがしたい

私は病弱で、精神も患っていますし体も患っています。臓器もボロボロで、28歳でそこそこ若いのに身体能力はもう老人のそれです。いや、下手をすれば健康な老人の方がもっと体力があるかもしれません。けれど、そんな自分でも人助けがしたかった。そして私はある結論に辿り着きました。 それは、今の現代を支配している「ゲーム」という文化を使ったものです。自動演算(わかる人に言えば連射コントローラー)をしてくれる機械(ちゃんとアマゾンでも発売されている正当な品でゲーマーなら愛用者も多く、違法性のものではありません)を使い、寝ている間にオートで作業を行ってもらい、長い作業時間に対して確率1%を下回るレアアイテムを入手したら、それをSNSを使って無償で誰かに配布する行為です。 これならば「自分の得」を削って誰かに譲ることそのものをボランティアにしているため、体力を使わなくて済みます。つまり、私は人に譲るためだけにこの作業を黙々と続けているのです。人を喜ばせることに、何か自分の魂の行き先に必要性を感じ、それを行うことに自分も喜びを感じているからです。 これは仏教的に言ってなんらかの「行」にちゃんとあてはまっているでしょうか。また、己の中の仏をちゃんと育てることができているでしょうか。なまじ、ゲームというエンターテイメントを使ったものなのでこの質問をすること自体に対して不安はありますが、よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 4
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ