母に死にたいと言われました。
こんばんは。いま実家住みで大学生をしている者です。
去年、母方の祖父が亡くなりました。自ら命を絶ちました。あまり私とは話す人じゃなかったので今でも実感がありません。
それから母は祖父が亡くなったことを悔やみ鬱のようになってしまいました。
辛そうでよく話し相手になっていたのですが年末に死にたいと泣かれてしまいました。仕事や親戚関係などもあったので疲れていて言ったんだと、しょうがないと、そんなこともあると思ってそうなんだとその時は流しました。
時間が経ち今はあまり落ち込んだ様子はなく、死にたいとは言わなくなりましたが私は母のことを大切に思えなくなりました。すこしどうでもよくなりました。
ずっと大好きだった母なのに死にたいと言われてから大切に思っても無駄なのだと思ってしまい会話もあまり入ってこなくなりました。
私が鬱になった時、死にたいと言ったとき母はいつも励ましてくれました。ですが母が死にたくなったら大切に出来ない、恩も返せない。私の薄情さに嫌気がさします。
ずっともやもやしています。
どうしたら前みたいに母を大切に思えるでしょうか、なやんでいます。
長文失礼しました。
回答いただけたら幸いです。
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親孝行が一番効くかも
怒りに対する薬は慈悲・慈しみだと言います。
何か・誰かに対して怒りが湧いてきたら、「○○が幸せでありますように」とその対象に対して逆に慈しみの心を作って相殺させるのが良い生き方のコツだと言います。相手に直接何かするのではなく、自分の心の中で、怒りがなくなるように、慈悲に置き換えるのです。
誰かが苦しんでいたら、慈悲の悲の心「○○の悩み苦しみがなくなりますように」と、マイナス状態がなくなる意味での幸せを願う気持ちを心に作ります。
自分が自分の心の中だけで慈悲の心を作って、何か意味があるでしょうか? 案外あります。誰か・何かと接していなくても、心の中に怒りなどがないほうが良いし、直接見聞きしたり、自分の心でもそのことを考えたりするので、その時に同時に嫌な気持ちが生まれるよりは、慈悲の心が生まれるほうが良いのです。そういう心でいると、体も軽く動けます。
鬱にも、「幸せでありますように。悩み苦しみがなくなりますように」という心で接する。あるいはもう一歩踏み込んで喜「願い事がかなえられますように」という気持ちで接することも良いかもしれません。
鬱だと何かをする気力も減って生ける屍みたいに見えるかもしれません。怒りや悩みのような何か具体的な問題があるようにも見えないので、本人も大変でしょうけど、周りも困ります。
しかし、せっかく人間に生まれて、しかも子供まで産み育てて社会人としてすごく頑張ってきた人が、無気力であっていいはずがありません。本人の心はともかく、接するあなたにとって大恩ある母ですから、まずあなたが、自分の恩人であるこの人が幸せで、悩みなく、願いが叶うような生き方をすべきだと、自分の心を作り上げてください。
そして、ここで念じる順番はじつは、まず「私が」先です。私が幸せで、悩み苦しみなく、願い事が叶うように、と自分の幸せを願います。それから「私の親しい人々が」、最後に「生きとし生けるものが」幸せで、悩み苦しみなく、願い事が叶うようにと、心で念じて心に刻みます。自分がまずしっかりしないと他者のためにも動きにくいので、誰かの苦しみを見ても、まず自分が、と、心を作るのです。
一緒に住んでいるなら、その上でやれることはいっぱいありますね。ご飯を作ってあげたり家の掃除をやったり。親にとっては子供が親の心配をして世話をしてくれる親孝行が一番効きます。がんば!