自分の死を受け入れて生きる事は可能か
お世話になっております。
以前より、強い死の恐怖について質問しており、その度に暖かいご回答を頂き大変感謝しております。
今回は、自分の死を受け入れて生きることが現実的に可能なのか、という質問です。
今まで頂いたご回答や仏道の自習において、「死はみんな怖い、けれどそのまま生きている」「死の恐怖を無理に消そうとしない」「禅は【今を生きる】修行で、未来のことを考えない(未来のことを考えるのは、今を生きていない)」といったお考えを学びました。
このお考えの論理そのものはとてもよく分かります。そもそも怖がってたって人間は死ぬし、時間の無駄だとも思います。それでも湧く本能的な恐怖なのですから、放っておくしか無いのが実状でしょう。
また、心理学の森田療法でも同じように書かれており、宗教の壁を超えた現実的なお考えだと思っています。
ですが、その考え方は、本当に現実的に可能なのでしょうか?このお考えを知って尚、そんなふうに生きれない私がおかしいのでしょうか。
私は恐怖感に襲われ続け、正直もう疲れてしまいました。皆さんに暖かいご回答を頂いているのにも関わらず、恐怖を受け入れられない自分が情けないです。そしてできる限りの実践や自習もしてきたつもりです。自分のできる限り死に向き合って、でも実生活が疎か疎かになるから恐怖を無理やり忘れて、また思い出してはパニックになりの繰り返し。
日常的な禅などで身体で理解するまでにも至らず、3年ほど強く悩まされて「本当は恐怖を受け入れる日なんて来ないんじゃないのか、来ないまま慄き泣き喚き絶望に塗れて死ぬしかないんじゃないのか」と絶望でパニックの日もたくさんあります。
修行が足りないだけなら今後も修行するしかないのでしょうが、会得までの長い間がもう、頑張れないです。弱音吐いてすみません。
死ぬのが怖い、でもその気持ちを抱えたまま生きているのがどうしても苦しい。皆同じだからと言われても、私が納得できないんじゃ、私は救われないままです。
わがままだと思います。自己中だと思います。ただ、辛い現実から救われたいのは、それこそ皆同じなのではないかとも、思っています。
具体的な解決策はありませんでしょうか。
どうか知恵をお貸しください。
死と別れが怖い。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたにとって「受け入れる」とは
くう 様 相談ありがとうございます。
死の恐怖感に襲われ続けている。自分の死の恐怖を受け入れられない。とのことだと思いますが。
まず、あなたにとって「受け入れる」というのは、どういう状態なのかイメージしてください。例えば恐怖があっても、明るく生きられることなのか、恐怖を脇に置いていられるような状態なのか、それとも全く感じない状態なのか?具体的な状態を想像することによって、その状態に向かうには、どのような心持でいて、身体はどんな状態であればいいのかの設定をしていくことが大切かなと思いました。
そして、恐怖感以外に隠された感情が無いか探る必要があります。例えば、喪失することからくる悲しみや寂しさ、孤独感。さらには死に至るときに起こる辛い苦しいという苦痛の感情。また死後どこに行くのかという不安感、さらには死に対処できない自分自身への怒りの感情など、一つ一つ吐き出して感じてみることも大切です。ゆったりとした呼吸で吐く息とともに、何度もそれぞれの感情を一つずつ吐き出してみる、繰り返し吐き出してみる。ある感情が少し減ったと感じたら、また次の感情を減るまで吐き出して、ある程度減るまで続ける。こうしてやがてもしかしたら例えば脇に置くということが可能になってくるかもしれません。
さて、ところで、あなたは、死の恐怖感に、どうしてそこまで思い詰めなければならないと思うようになったのでしょうか?納得しなければならないと自分に課し、まるで強迫観念に責められているように解決しなければと思い込んでいるその思考の癖は、どのあたりから、何歳ごろから習得したのでしょうか?誰かから「段階を踏んでしっかりしなければならない」「完璧に一つ一つをこなさなければならない」というような諭された体験が深く残っていませんか?あなたが意識せず持ってしまった思考の癖をあきらめることで、総合的に恐怖感というものがもしかしたら軽減してくのではないかと、私は感じました。
参考にしてください。一礼
追伸:お礼メッセージありがとうございました。字数制限でこの欄に、返信を述べられないのですが、瞑想の方法などで「パニックになりづらい環境」のお手伝いをできるように思います。ご縁がありましたらご検討ください。丁寧なご返信誠にありがとうございました。合掌礼
質問者からのお礼
お礼が遅くなり申し訳ございません。いただいた回答を何度も読み直し、自分を見つめ直すことができました。
特に、納得しないと、という強迫観念というのは新たな角度でとても勉強になりました。
周りに聞いてみたところ、私は幼少期から納得したいタイプだったようです。確かに死のことに限らず、納得していないと、やっぱりこうだったかも、こうした方が良かった、などと自分の気持ちや軸が不安定になったり、不安や恐怖、悲しみなどがぶり返す性質でした。
また、仏教においても納得を追い求めていた一番の理由は、草薙龍瞬さんというお坊さんの本を読み、その中に『苦悩を超えた「納得の境地」にたどり着こう、きっとたどり着ける、と考えるのです。』(『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬著,KADOKAWA/中経出版 ,2015年より引用)というお言葉があり、「死なない方法を考えるよりも、納得を追い求めるほうがよい」と思ったためです。
できれば、何も感じない状態になりたいと言うのが本音です。でも、それはハスノハで酩酊状態と変わらないとのお言葉も頂戴しましたし、現実的でないと思います。
それを踏まえると、『怖いと思っても、「でも〇〇だから大丈夫」と思って自分で恐怖を消せる』という状態が理想です。
その状態になるには、〇〇に入る何かに対しての納得感が必要であり、今まではそれを模索していました。
でも、確かにこの数年では納得が得られていません。この「納得しないと動けない」の癖を諦められると良いと思います。白黒思考というか、不安や恐怖を中途半端にしてるとぶり返してしまうので、はやく解決したいという思いが強くなってしまいます。「納得しなくてもとりあえずやってみる」は出来るのですが、長く続かないというか、信じていられる時間が短いというか…。ぶり返しが起こると、やっぱり短絡的に納得を求めてしまいますが、もっと思考から離れて、身体で感じ取る練習をした方が良いのかも、と思いました。
『ある感情が少し減ったと感じたら、また次の感情を減るまで吐き出して、ある程度減るまで続ける。こうしてやがてもしかしたら例えば脇に置くということが可能になってくるかもしれません。』とのこと、やってみようと思います。ただ、もはや一人でパニックにならずこの作業をすることがかなり困難であるのも事実です。カウンセリング等は高額ですし、時間面でも通うのは現実的でないので、なんとかパニックになりづらい環境を作ってから取り組みたいと思います。
長くなり申し訳ございません。この度は暖かく、また具体的な行動指標を示してくださり、本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します。