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大人の愛着障害

回答数回答 1
有り難し有り難し 5

私は以前から親しくなった人に対してまたどうせ離れていくって思い、心を開いて付き合うことが難しいです。
どなたかの𝕝𝕟𝕤𝕥𝕒𝕘𝕣𝕒𝕞で大人の愛着障害の事が5項目に書かれてあり、全てに当てはまりました。
穏やかに生きていくにはどのような事をしていけばいいのでしょうか。

2023年7月18日 8:13

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

愛着意識を滅する方法は自我意識の立ち上がり以前の心に目覚める

人間には誰にでも自己愛、自己防衛、保身意識があり、それが過剰になるといわゆる愛着障害に分類されるような心理的アクションが現れるようになるのでしょう。
やったことなのにやってないと言ったり、他人に迷惑をかけてしまったりしてしまうことも、根本にあるのは自己愛であり自己保身です。
その原因は「本当に価値のあることを知らない」「真実の価値を見誤っている」ともいえるのではないでしょうか。
価値を見誤るとは、人間にとって本当に大切な価値観があるのにそちらを優先しないことです。極端なたとえでいえば、悪いことをする人たち、犯罪をしてしまうような人たちの心理というものも、人として本当に行うべきことでは「ない」ことを価値として見誤っている心理にあるわけです。

仏教とは反対に自分ラブ、自分がすべてというような自己中心的なエゴを離れるように説く教えともいえましょう。人は自分を愛することを捨てろと言われると自分が失われるかのように誤解しますが、そうではありません。それよりもより良い価値、より豊かな精神の実現の為にこそあえて捨てなさい、離れなさいというのです。
人は誰でも自分ラブがあるのですが、その自分ラブ意識をを離れることが仏道でもあります。
道元禅師は、仏道をならうことは自己をならうことであり、自己をならうことは自己を忘れることであると説いておられます。
「自己を忘れる」とは自己意識を忘じて、人間本来のはたらきに目覚めることです。
人間本来のはたらきとは、自分意識が立ち上がる以前のはらたきです。
そこには保身もなく、ウソもない、自利もなく他害意識もなければ、当然愛着意識すら存在しません。
簡単に言えば人の心は生活習慣があります。自分の生き方としてのモード、心理的設定がある。そして、その慣れ親しんだ心理的なスタンスを保持、維持しようとしているわけです。
ならばこそ、人間の持つ自己愛、自分ラブ、自己保身の意識をも上手に用いればよいのです。自分が自分史上もっともよいコンディションになるためには、優先意識、優先選択意識を変えればいいだけです。
自分がついつい自己愛的なスタンスが多い、濃厚であると当然、自己愛、愛着、保身マインドが強くなる。
自分がより豊かな心に目覚めたいと心底念ずることで心はより豊かな心を目指すようになります。坐禅を通して自己意識を一度滅することでより豊かな心が開かれるでしょう。

2023年7月18日 9:17
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
苦しい原因がわかったので
後はどのようにすれば穏やかになれるか考えてみます。

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