不条理について教えて下さい。
人は
「真面目に生きていれば」「頑張っていれば」「悪い事さえしなければ」
「人の為に」「困っている人の為に」
と考え実行し生活をしている人も大勢いると思います。
又はそういう考えを持たなくても
自然とそういった生き方になっている方も少なくないと思います。
そういう生き方に対しては成果が出て欲しい、
成果が出なくともよくない事は最小限であって欲しい又はあるべきと
そういう生き方ではない人達でさえも
そう思うものではないでしょうか?
しかしながら現実はそうではありません。
尊敬したくなるような方
普通の方
他人を蹴落としずる賢く生きる方
極悪非道な方
他様々な方
それらとは全く関係ないような事象が起き
そのまま終わりを迎える事が多いように思えます。
例えば、生まれてから悪い行いもなく
逆に一生懸命血の滲むような努力を続けていても成果が出ないばかりか
よくない事が多く、どうにもならなくなり力尽き
最後には苦しんで苦しんで人生を終える方も少なくないと思います。
それは本人も苦しいし周りにいる人も苦しい上に
本人が居なくなった後も周りの人は苦しみます。
これらを不条理とした場合、
子供にどう教えていったらいいのか難しいと思う事や
自分自身どういう考えを持ったらいいのか悩みます。
結局「努力をすれば」ではなく「成果の出る努力をしないと」になってしまうだけです。
これを前向きになれるような説明をするには
死後の世界・死後の魂・前世などを持って来ることが多いかと思うのですが
それを信じる又は受け入れる事が出来ない人も少なくないと思います。
私自身そうですが、かと言って宗教思想を否定する考えでもなく
普段は仏壇に手を合わせたりお墓参りをして
形だけではなく心から敬う気持ちも持ち合わせます。
ただ先の事を考えると人生の最後は「無」になってしまいます。
そういう人に人生の糧をのようなものを見出させてあげる考え方が思い浮かびません。
仏教(ほかの宗教もそうだと思うのですが)は基本的には
死後の世界・死後の魂・前世など有りきの思想だと思うのですが
それを無くして人に何かを見出させることは出来るものでしょうか?
それとも死後の世界などを信じる事が出来ない時点で宗教思想を否定することになり
そういう人との間には相容れないものなのでしょうか?
どうぞ宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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清らかな正しい心、追記
仏教、つまりお釈迦様の教えは現世を楽に生きる方法です。
そしてその方法は心の持ちようです。
お釈迦様の言葉(法句経)にもこのようにあります。
ものごとは心に支配され、心を主とし、心によって成り立つ。
もしも汚れた心で話したり行ったりするなら、苦しみがその人につきしたがう。
車をひく牛の足跡に車輪がついていくように。
ものごとは心に支配され、心を主とし、心によって成り立つ。
もしも清らかな心で話したり行ったりするなら、楽がその人につきしたがう。
影が体から離れないように。
清らかな心、正しい心を持つことが一番大切なのです。
頑張ったからとか、人の為にとか、不条理とか、真面目なのは損だとか、死後や前世とか、そういう事にこだわる必要はありません。
どのような状況でも、清らかな正しい心を保つことを優先してください。
それがお釈迦様の教えた仏教の始まりなのです。
追記
プロセスではありません。真逆です。
今が大切なのです。
人生は今この瞬間の積み重ねです。
ですから、今をしっかり努めるのです。
正しい心で努めるのです。
仕事、勉強、運動、あるいは家族との会話、テレビを見たり、本を読んだり、その時間をぼーっとでは無く、しっかり正しい心で考えて努めるのです。
そうすればその中に楽しみが生まれます。
今をしっかり楽しむのです。
今生きていることを喜ぶのです。
たとえ困難の中に居てもです。
もちろん長期的な人生計画も必要でしょう。
ですが、今を大切にすることも忘れないでください。
中村久子さんの言葉にもありますね。
「人間は肉体のみで生きるのでは無く、
心で生きるのだ。」
清く正しい心の大切さは、我々大人が子供に教えるべきことなのかもしれません。
死後はわからないからこそ信じる。そこに意味が生まれる。
ガニメデス様はじめまして。ご相談拝見しました。
私は仏教は死後の世界ありきの思想・教えだとは思いません。私たちがこの人生を今どう生きるか真実を求めるための教えだと考えています。
さて、現代科学で死後の世界の有無を証明できるでしょうか。人間も結局元子の集まりで、死ねば火葬されて立ち上る煙(二酸化炭素)と骨(炭素?)となり終わりでしょうか。
それも結局は死んでみないとわからない、つまり誰にも証明できないのではないでしょうか。
しかし、一部の経典に説かれるような輪廻や死後の生の内容がにわかに信じがたいのも事実だと思います。
結局私たちにできることは信仰という道なのだと思います。わからないことをどう信じるかで今どう生きるかに反映されていくのです。
この世の不条理も事実です。努力が報われないのも、正直者がバカを見ることも往々にして有り得ることでしょう。
しかし仏の智慧の目から見れば、努力の成果が出るとかそんなことが救いなのではないでしょう。
それは私たち凡夫の無明(真実が明らかでない)の目で見た救いです。
人生でどんなことが起きても、事実を事実として受け止め、「私はこれでよかったのだ」と「私にはこの道を除いて他になかったのだ」と主体的責任の元に生きていくことができるのが救いなのではないでしょうか。
「私が私で良かった」と満足するということです。
死んだら終わりだから意味がないのではなく、この世は不条理だから苦しみしかないのでもありません。
私たちは幸せになるために生まれてきたのです。それは裕福だとか名誉があるとかそんな幸福ではありません。どんな人生でも「私が私でよかった」と自体満足できることが幸せであり救いなのです。
そしてそんな私たちの人生は、消滅してもなおその光を何光年も届け続ける夜空に輝く星のように、また残された者たちに影響を与えていくのです。ガニメデス様の変わりは誰一人としていません。ガニメデス様だけが自らの人生の光を後世に残していくことができるのです。
その際、死後の世界の有無などもう問われません。死してもなお、この世界に自らの存在が、そしてその歩みが刻まれてゆくのです。
そんな私たちの人生に意味がないなどといえるでしょうか。
そして時には人生に意味がないとくじけそうになる私たちに、そうではないと働きかけてくれる教えにもまた大きな意味があるのだと思います。
何でもありの世の中に「三時業」あり!
不条理から思う事、非論理的,矛盾的、筋道が通らない事、道理に合わない事、などが上げられる。
それでは逆の論理的、整合的、筋道を通す、道理となれば。
人は善も悪も関係なく皆平等に受けるものがある。生まれて死ぬまで苦しみを知らない人はいない、毎日が終わる度少しづつ老いて行く、死ぬまで病気、怪我は必ずする、何時か何処かで必ず死ぬ。
自分の生きる事に求めたり期待したりしたら、裏切が必ず付いて来ます。
真面目にしていれば!・・・・・していれば!の次の言葉の中の心には、期待、朗報、名誉、等を求めてしまう心が生まれます。
いずれも理不尽な行動と考えになります。
来世に付いて確信はできません、信じる以外にないい世界だからですが、この来世に纏わるのが「三時業」です。
第一の「順現報受」<じゅんげんほうじゅ>様々な悪業はこの世で受ける事。第二の「順次生受」<じゅんじしょうじゅ>このの世では何の報いを受けず、一度死んだ後に次の生で受ける事。第三の「順後次受」<じゅんごじじゅ>二度も三度も死を繰り返しその後、報いを受ける事。
三時業を信じないかもしれませんが、化学が進めば進む程論理観が無く成り世の中が住にくくなっている事に付て誰もが思いを抱いて欲しいものです。
上手く説明できませんでしたがこの世は何でもありの世の中です。だからリセットしなければ人間はどこまで転がり行くか分からない、よって真実の見方をしなければならない時が必ず訪れる。そんな時ご縁があるなら二千五百年前よりのお釈迦様の教えを乞い実践する事こそ仏道なのです。
質問者からのお礼
山口秀徹 様
ありがとうございます。
現在子供が大学1年と中が2年の2人とも女の子がおり、
それぞれ既に不条理に涙することがあるようで、
人生において不条理は大前提という認識のもと
この先の人生を生きる糧を見出し
現在の苦悩を少しでもお和らげられる考え方を
子供たちに伝えたくご相談した次第です。
本来なら山口秀徹 様の仰るようにお釈迦様の教えを良く知れば
「三時業」も受け入れる事が出来るのかもしれません。
しかしながら苦しんでいる者にしてみますと
現世はどの段階か知り得ない為、来世を見る事は難しく
何より「三時業」をそのまま受け取りますと
苦しい事ばかりだった者にして見れば
これからの現世の人生に失望してしまいかねないという
解釈になってしまいそうです。
やはり現実は人生を試練や修行というような考えとして受け入れるしかない
というお教えなのでしょうか?
吉武文法 様
ありがとうございます。
>私たちは幸せになるために生まれてきたのです。
そう思いますしそう思い続けたいと思います。
>「私が私でよかった」と自体満足できることが幸せであり救いなのです。
実は私自身、今現在それとは真逆の気持ちしか持てないでおります。
結婚しなければ妻は気苦労をしないですんだかもしれない、
子供を作らなければ子供がこのような世界に苦しむこともなかっただろう
経済苦や無知無力は家の内外の生活全てに波及しその世間の判断など結果がそれぞれに襲い掛かってきます。
それぞれ皆、生活であったり学校生活であったり、「避けては通れない様々な柵」で成り立っている訳ですが
立ち上がろうとしても立ち上がる前に次の山が落ちてきて押しつぶされる
そんな不条理の中でそう思えるようになるまでにはやはり様々な欲を捨てなければならないように思います。
本来普通の生活と思える事も欲となり向上心さえも欲となってしまうように思えてしまいます。
又は欲を捨てるとは少し違う諦めや妥協にも思えてしまいます。
そういう風にしかとらえられない屈折してしまった私は相当重症ですね。
しかしながら子供たちには未来に希望を持ち続けて貰いたいし今はつらくとも
いつかは必ずあれで良かったんだと思える日が訪れるように
生きる糧を見つけられるように教えてあげたいと思います。
こんなダメな私だからこそ言える事もあるでしょうから
ありがとうございました。
聖章 様
ありがとうございます。
聖章様の仰る事、他にも回答を下さった吉武文法 様や山口秀徹 様の仰る事
もちろんわかりますし、以前の私でしたら素直に受け入れる事が出来たと思います。
今の私には肯定する事すらなかなか難しく感じてしまいます。
私の今まで起きた事をお話しするとかなり長くなってしまいますので割愛せざるを得ないのですが
>どのような状況でも、清らかな正しい心を保つことを優先してください。
これを私なりに解釈させて頂きますと
人生の全てはプロセスである為、結果に対する負の感情は持つべきではないという事でしょうか?
現代社会では小さいころから定年退職するまで下手をすると年老いて死ぬまで
無数の結果を要求され続け終わります。
自分が結果を出そうとせずとも結果が出てしまいます。
そしてそれに対する結果が戻ってきます。
こうした結果は条件付きで求められたり結果の良し悪しまで求められることも少なくありません。
不条理やその他、損得の思いは自分が拘らずともその拘りを求められしてまう世の中でさえあります。
このような中でそういった心を保つ事は欲望を満たすことより難しく感じてしまいます。
これを書いていてふっと思いだした方の名前があります。
中村久子さんです。
随分前にテレビでその生涯を紹介する番組を見た覚えがありますが
こんな考え方が出来て人生を送れる人がこの世に存在する(した)のか?
とまだわ若い頃ですが信じられない思いをしながら涙が出た事を覚えております。
それこそ神仏のように思えました。
私は欲を持ち過ぎたようです。しかし中々捨てれない情けない私です。
しかしながら、それでも子供たちには生きる糧を残してあげたいと思います。
ありがとうございました。
聖章 様
ありがとうございます。
上手く言えないのですが、なんだか自分に足りないものが少しわかったような気がしました。
自分で言うのもなんですが、失業後私は寝る間も惜しんでズーッとやってまいりました。
普通の人が寝ている時も、遊んでいる時も、ご飯を食べている時も全て時間を削って生活が成り立つためにやってまいりました。睡眠時間が2・3時間が当たり前という時期も10年近くありました。
やり方が悪かった事や能力が低すぎた事もあってか、そこそこ生活できた程度の数年がピークでそれ以降はどんどん悪くなる一方。
いつの間にかマイナス思考、今では年齢的にも現状希望を持つ事自体無理がある思考になってしまっております。
それでも、子供達には出来るだけプラス思考になるように接してはいたつもりでしたが、知らず知らずのうちに私のマイナス思考が悪影響を与えてしまっていたように思います。
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今をしっかり楽しむのです。
今生きていることを喜ぶのです。
たとえ困難の中に居てもです。
もちろん長期的な人生計画も必要でしょう。
ですが、今を大切にすることも忘れないでください。
清く正しい心の大切さは、我々大人が子供に教えるべきことなのかもしれません。
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毎年初詣に行っているお寺さんのご住職(数年前に老衰でお亡くなりになりましたが)を
思い出しました。
毎年、初詣のご祈祷でそのご住職のお言葉を聞く事が楽しみであり1年の始まりでした。
曹洞宗のお寺さんのご住職で有名な方と存じ上げております。
ご住職が変わってからも毎年初詣のお参りをさせて頂いております。
ありがたいお言葉、ありがとうございました。