修行に臨む心境について
日蓮宗の方のYoutube動画で、水行修行についてのものを拝見し、「世の中は楽しみ、苦しみの量が決まっていて(同じ)。修行者が苦しみを皆の身代わりに受ける」
その覚悟で臨んでいるという内容でした。
大変感銘を受けました。
自分もそうですが、とかく人は「どうして自分だけがこんな目に」的な考えで不平・不満を抱きがちですが、自ら進んで苦行に臨む姿に尊敬します。
どうすれば、こうした心境や境地に至れるのでしょうか?
最近仏教思想に興味を持ち、「少欲知足」など、色々な言葉を知るようになりました。ただ、どうしてもまだ頭だけ(知識のみ)で、実践にまで至っていません。
僧侶の方々も人間ですから、時には煩悩に苛まれることもあるかと思いますが、どう考え、日々の実践に移されているのでしょうか?
アドバイスいただけますと幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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仏様の教えを、ちょっと人より知っている、ただの人です。
いちごいちえさん、こんにちは。
ご質問を拝読致しました。
仰る通り、お坊さんも1人の人間なので、煩悩に苛まれる事があります。
個人差はありますが、私は煩悩に苛まれっぱなしです(笑)。
嬉しい事があれば舞い上がるし、嫌な事があれば当然落ち込むこともありますが、
ただ、そこで感情の起伏に影響を受ける事が人様より少ないかもしれない、と思うのは、仏様の、というか宗祖の智慧に触れているからだと思います。
仏教というのは、学んだら理解して終わりではなくて、学んだら、自分で行う事が大事です。
まず、やってみる事。
例えば、野外でライターなどがない時の火の付け方を、本や動画で学んで知っている、で終わらせないで、実際に火の付け方を自分で行なってみる、という感じですかね。
木と木を摩擦させれば、火がつくことを知り、実際にやってみたら、本や動画の通りに上手くつかなかったという結果を、どう捉えるか、の氣持ちのコントロールが上手く出来るようになっていると思います。
頭も柔らかくする事がとても大切だと感じることが、少しは出来ている気がします。
でも、この程度ですよ(笑)。私だけかもしれませんが。
卑下するわけではありませんが、人1人がやれる事って、とても小さいと思います。
でも、小さいからやっても無駄、と答えを出すのではなくて、自分の出来ることをコツコツと積み重ねることで、それが大きな結果になる事は、ご自身も、大なり小なり感じた事はあると思います。
私も日蓮宗に属しておりますので、冬の時期に水行も行ないます。
でも、これ、作法ややり方を別にしたら、誰でも出来る事です。
神道でも、禊として、自分の身を清めるために水を被ります。
お釈迦様は、難行苦行をしても悟れないと悟って、菩提樹の下で瞑想をして悟りを開かれた、と聞きました。
同じ宗派に属していても、修行の捉え方は全く同じではありませんが、私は自分の身を清めるのと同時に、終わった後のポカポカする感じや、爽快感があるので水を被ります。
つまり、やってみる事で、自分が楽しいから。
どんな出来事も、楽しいと感じられる自分になること。
こんな捉え方も出来る、仏様の智慧の奥深さに触れることが出来て、大変幸せなことだと思っています。
是非、宗派を問わず、共に学びを深めていきましょう。
質問者からのお礼
三浦錬浄様
回答頂きありがとうございます。
私も日蓮宗でして、今月初めには身延山に行きました。また来月には日蓮宗寺院のイベント(冬至水行祭)に参加いたします。
以前は修行=苦しいのイメージでしたが、最近徐々に変わってきている自分に気づきます。
昨夜と今朝、自宅の風呂場で見よう見真似ですがお水を頂いてみました。
冷たさに驚きましたが、できた爽快感やポカポカ感を確かに感じました。
今後も色々と実践・体験していきたいと思います。
出張で仙台方面に行くこともあり、機会がありましたら参拝させて頂きたいと存じます。
ありがとうございました。
合掌