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老病死に対する自暴自棄

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有り難し有り難し 6

祖母の死から二年経ちます。

それまで親が相続の関係で揉めていたので怒りしかありませんでした。
遺言状を真ん中の叔母が書かせて全財産を真ん中の叔母に託すという趣旨を書いてたのが見つかって、叔母が牛耳ってたので目茶苦茶でした。
弁護士に父が相談して何とか取り分は取れたようです。
それが解決し半年たった今頃急に涙が出てきて、寂しい気持ちが拭えなくなり、何故か心が荒み自暴自棄になりそうです。

子供の頃はお世話になってた祖母なので、その優しい祖母の姿と、叔母に言いくるめられた祖母の寂しさのようなものと、叔母への怒りと恐怖と人間不信とぐるぐるしてしまって、ヤケクソになりそうです。

後、疎遠になった好きな人も難病の母の介護をずっとしていて、その人に対しても何だか嫌になってきました。というか、この祖母の死すら乗り越えられない私がその人とも今後関わる機会かあったとしても向き合える気がしません。このまま疎遠のまま逃げ出したい気持ちと、別にその人は悪くないのになという気持ちと半々です。

本当は母や上の叔母が一番ショックだろうに自分のことばかりで、そんな自分も嫌になります。
いとことも叔母の関係でギクシャクして、昔はとても仲良しだったので虚しいです。
ただ、今までその問題を仕事でがむしゃらに消してたのがプツッと糸が切れたように放心というか、悲しさ虚しさしんどさがどっと押し寄せてきます。一気に仕事どころじゃなくなってしまいました。

明日戦争で私が死ぬとか、明日私が病気で死ぬわけでもないのに何悶々としてるんだろう、という想いも消えないです。

他にも去年別の祖母を介護したあと入居して、それも今頃寂しさや虚しさに繋がっているかもしれません。
習慣のように仏壇でお礼をしてましたが、今思うと最近は理由がわからないまま強迫観念のような感じでやらないと気がすまない感じでした。

広い意味で老病死への向き合い方、乗り越え方を教えてください。
(両親は余りにも淡々とお金の手続きを済ませた、それ以上は話ししたくないという感じだったのでお坊さんに相談しました)。

2023年12月10日 1:40

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

見出すべき活路 本当に私が進むべき心の方向性

人はどんな身心の病にあっても本当の病の箇所がわかると病から解放されるのです。この意味は後からわかるでしょう。病はおよそ病の箇所を見誤るものです。本当は「そこ」が病ではないということ。生老病死も同じ。
まず遺産相続とは家族みんなで「元々自分のお金ではないもの」という立ち位置から。でも、そこで身内がここぞとばかりにガツガツと自分のものにしてしまえー( `皿´)というエゴい心理が発動するならそれは犯罪にならない犯罪以上の人間悪。いつの世も映画『犬神家の一族』にも描かれるように💀あさましい遺産相続は表にあらわれなくても現実では各家庭で起こっている。だから法というものがある。
公的公平均等に振り分けられる制度が設けられた。お父さんも取り分が取れたということでそれはもう問題ないでしょう。それよりも大事なこと。「もともと誰のお金でもなかった」ということはお金だけじゃぁないということ。
祖母の死も、家族の心理の乱れもそれすらも元々あなたの沙汰ではないということ。どうにもならない他人の様相・さまを自分流・我流に眺めると狭い視点になる。そりゃぁ人間不信にも寂しい気持ちにも自暴自棄にもなるでしょう。
だからこそ生前死後問わず人は清らかな導き先「菩提心」が大事なのです。墓を建てる、供養塔を建てるとは人間が人間としての人間性を見失わず仏の指さす心豊かな方向へと進んでいくという誓願、菩提心を打ち立てることなのです。現代にはそれが大人にもない。周りがどうであれ、私は人としてあるべき心、向かうべき心、導き先を失わないぞ、という強い志。あなたのもやもやはも人間として向かうべき方向からズレそうになっているからこその!生命レベルでの義憤であると捉えるべきでしょう。この世に宗教仏教(心の法)があるのも、そもそも人間は人として道外れにならないための本当に進むべき心の角度、方向性がある。あるのにもつい人間界の人間ルールによって縛られ見失ってしまう。だから「こちらだよ」という道しるべとしての教えがあるのです。
生老病死に共通することは誰も「選べない」こと。
「私が・自分が・僕が」がない。
だから、だれも「望んでそうなった」ということではない。
縁によってたまたまそうあることでも、それではおかしいからこそ、軌道修正をして真実の病巣とでもいうべき箇所をみつめて、本当にあるべき姿を見出すことで救われるでしょう。

2023年12月10日 8:01
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速ありがとうございます。

菩提心という言葉をもう一度調べて「悟りへの道へ本格的に向き合える時期なのかな」と覚悟のようなものが芽生えました。
今まで若干「悟りを目指すのは大きなことだから、こんな私がおこがましい」と思ってましたが、それも変な遠慮でしたね。
これを機会に目指してみます。

大人になると心が汚くなると感じてたのは、お金の考え方もズレがあったかもしれません。
病のことについてはまだ理解できてないですが、仏教聖典を枕元に置きながらなにか会った時に読み返そうと思います。

ありがとうございました。

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