老病死に対する自暴自棄
祖母の死から二年経ちます。
それまで親が相続の関係で揉めていたので怒りしかありませんでした。
遺言状を真ん中の叔母が書かせて全財産を真ん中の叔母に託すという趣旨を書いてたのが見つかって、叔母が牛耳ってたので目茶苦茶でした。
弁護士に父が相談して何とか取り分は取れたようです。
それが解決し半年たった今頃急に涙が出てきて、寂しい気持ちが拭えなくなり、何故か心が荒み自暴自棄になりそうです。
子供の頃はお世話になってた祖母なので、その優しい祖母の姿と、叔母に言いくるめられた祖母の寂しさのようなものと、叔母への怒りと恐怖と人間不信とぐるぐるしてしまって、ヤケクソになりそうです。
後、疎遠になった好きな人も難病の母の介護をずっとしていて、その人に対しても何だか嫌になってきました。というか、この祖母の死すら乗り越えられない私がその人とも今後関わる機会かあったとしても向き合える気がしません。このまま疎遠のまま逃げ出したい気持ちと、別にその人は悪くないのになという気持ちと半々です。
本当は母や上の叔母が一番ショックだろうに自分のことばかりで、そんな自分も嫌になります。
いとことも叔母の関係でギクシャクして、昔はとても仲良しだったので虚しいです。
ただ、今までその問題を仕事でがむしゃらに消してたのがプツッと糸が切れたように放心というか、悲しさ虚しさしんどさがどっと押し寄せてきます。一気に仕事どころじゃなくなってしまいました。
明日戦争で私が死ぬとか、明日私が病気で死ぬわけでもないのに何悶々としてるんだろう、という想いも消えないです。
他にも去年別の祖母を介護したあと入居して、それも今頃寂しさや虚しさに繋がっているかもしれません。
習慣のように仏壇でお礼をしてましたが、今思うと最近は理由がわからないまま強迫観念のような感じでやらないと気がすまない感じでした。
広い意味で老病死への向き合い方、乗り越え方を教えてください。
(両親は余りにも淡々とお金の手続きを済ませた、それ以上は話ししたくないという感じだったのでお坊さんに相談しました)。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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見出すべき活路 本当に私が進むべき心の方向性
人はどんな身心の病にあっても本当の病の箇所がわかると病から解放されるのです。この意味は後からわかるでしょう。病はおよそ病の箇所を見誤るものです。本当は「そこ」が病ではないということ。生老病死も同じ。
まず遺産相続とは家族みんなで「元々自分のお金ではないもの」という立ち位置から。でも、そこで身内がここぞとばかりにガツガツと自分のものにしてしまえー( `皿´)というエゴい心理が発動するならそれは犯罪にならない犯罪以上の人間悪。いつの世も映画『犬神家の一族』にも描かれるように💀あさましい遺産相続は表にあらわれなくても現実では各家庭で起こっている。だから法というものがある。
公的公平均等に振り分けられる制度が設けられた。お父さんも取り分が取れたということでそれはもう問題ないでしょう。それよりも大事なこと。「もともと誰のお金でもなかった」ということはお金だけじゃぁないということ。
祖母の死も、家族の心理の乱れもそれすらも元々あなたの沙汰ではないということ。どうにもならない他人の様相・さまを自分流・我流に眺めると狭い視点になる。そりゃぁ人間不信にも寂しい気持ちにも自暴自棄にもなるでしょう。
だからこそ生前死後問わず人は清らかな導き先「菩提心」が大事なのです。墓を建てる、供養塔を建てるとは人間が人間としての人間性を見失わず仏の指さす心豊かな方向へと進んでいくという誓願、菩提心を打ち立てることなのです。現代にはそれが大人にもない。周りがどうであれ、私は人としてあるべき心、向かうべき心、導き先を失わないぞ、という強い志。あなたのもやもやはも人間として向かうべき方向からズレそうになっているからこその!生命レベルでの義憤であると捉えるべきでしょう。この世に宗教仏教(心の法)があるのも、そもそも人間は人として道外れにならないための本当に進むべき心の角度、方向性がある。あるのにもつい人間界の人間ルールによって縛られ見失ってしまう。だから「こちらだよ」という道しるべとしての教えがあるのです。
生老病死に共通することは誰も「選べない」こと。
「私が・自分が・僕が」がない。
だから、だれも「望んでそうなった」ということではない。
縁によってたまたまそうあることでも、それではおかしいからこそ、軌道修正をして真実の病巣とでもいうべき箇所をみつめて、本当にあるべき姿を見出すことで救われるでしょう。
質問者からのお礼
早速ありがとうございます。
菩提心という言葉をもう一度調べて「悟りへの道へ本格的に向き合える時期なのかな」と覚悟のようなものが芽生えました。
今まで若干「悟りを目指すのは大きなことだから、こんな私がおこがましい」と思ってましたが、それも変な遠慮でしたね。
これを機会に目指してみます。
大人になると心が汚くなると感じてたのは、お金の考え方もズレがあったかもしれません。
病のことについてはまだ理解できてないですが、仏教聖典を枕元に置きながらなにか会った時に読み返そうと思います。
ありがとうございました。