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これからの仕事が不安

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現在27歳、社会人5年目の男です。
自分の人生について、第三者視点でのアドバイスが欲しく、初めてご相談させていただきます。

大学を卒業してから4年半、地方企業で営業職として働いておりました。
かなりハードな環境でしたが、幸いな事にそれなりの結果は出すことができ、人間関係も恵まれて充実した日々でした。

ただ最終的には、お世話になっていた方の急な退職に伴い、私の仕事も配置転換があり、仕事量の増加やトラブルが多発し適応障害となってしまいました。

充実はしていたものの、長い目で考えるとこの環境では働くのが厳しいと感じ、転職活動を始めます。
昔から総務職や人事職などの内勤業務に興味があり、未経験ながら転職活動を行っていたところ、ご縁があり現職に入社いたしました。

希望に満ち溢れていた私ですが、先輩の厳しい指導についていけず、仕事も全く覚えられず、入社3ヶ月で適応障害となりました。
とりあえずは休職しましたが、復職して続けられる未来も見えず、今月末で退職いたします。

とりあえずは実家に帰ろうと引っ越しを進めておりますが、金銭的な理由ですぐに働きたいと思い、前職に出戻りの相談をしております。
これが案外いい反応で、一部の方からは是非戻ってきてほしい!と言われ嬉しくはなりました。

今後面接を行う予定ですが、冷静に考えて「一度体を壊した仕事でまた働けるだろうか。」「そもそも周りの方は受け入れてくれるのか?」と不安になってしまいます。
そこから考え込んでしまい、最近では「そもそも前にいた時に結果出せていたのはたまたまじゃないか。」「仕事についていけるのか」と不安になってしまいます。

「先の事考えても仕方ない、なんとかなるさ」と思える日もあるのですが、前述した不安もよぎり、メンタルが安定しない日々です。

一度決めた事なのに、こんなに心が揺らいでしまう自分が情けなく、恥ずかしいです。
2度目の適応障害になってから、自分の全てに自信がなくなり、上手くいっていた過去でさえ、嘘のように思えてしまいます。

家族や友人にも相談していますが、モヤモヤした気分が続き、第三者視点での意見もお伺いしたく、ハスノハに投稿させていただきました。

いい気持ちの持ちようや、アドバイスがあれば、是非いただきたいです。
よろしくお願いいたします。

2024年1月24日 14:25

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

躊躇を断つ

CHU!難しい字でゴメン♡ちゅーちょ。躊躇。ためらう。
適応障害なんて思わないほうがイイよ♡
単に自分の脳がフリーズしやすくなっちゃってるだけ。
🐑⚖
ためらい時間が長くなってるだけと思うぐらいでいい。
価値の高いほうを選ぼう、と脳に命令する癖をつけてごらん。
すぐ直っちゃうよ。
そりゃぁ嫌なことが続けばあの💀悲惨案件・不幸の再来を恐れて体が安全性を守ろうとして躊躇うなんて私のようなカバでもよくあること。🦛
脳は常に安全地帯を選択するものだと思いましょう。
だから、職場ダメージが大きくて休みたいと思うときはとことん休む。
休んでいるときに会社に行かなきゃ、あれしなきゃとか考えると脳は休息にならない。だから価値の高いことのためにやる。脳の休息のためにこそ考えないようにする。
職場に行ったらあれもこれもやらなきゃ、とは絶対に考えないこと。
二冊の本は同時に読めない。二ページは同時に読める人、いない。
いつもあなたの目は今の目の前だけ見てる。口うるさい上司がいて怒ってきても人生や存在を否定されたわけじゃない。
やるべきことは今の一事。今のアクション。今の1シート。今の一行。
たとえば、食べるということは何か。
その食べ物を胃の中に移せばいいだけ。
あれもこれも食べなきゃァではない。
今、身体が必要としているもんを胃に送ればいいだけ。
仕事とは何か。
ただ、手を動かせばいいだけ。
何か言われたら口を動かせばいいだけ。
しゃべんなくていいときは黙っていればいいだけ。
用が足りればいいだけ。事足りればいいだけ。
頭のトッピング、不要。
これはレッドゾーンだということは自分でもわかるから、そこはゲームをこなすように上手にかわせばいいだけ。
あなたの躊躇の心理は色々沢山あると誤解しているだけかもしれません。
では、こう考えよう。
今あなたは職場で沢山の仕事をこなさなければいけないと思っている。
でも…、
これを見てんじゃん、俺、と。
この謎の坊さんからの文章、読んどるゆとりあるやんけ、と。
そこです。
仕事なんてどんな仕事の達人だって、苦手な人だって、やるべき時にやるだけ。
手はどっちも一つしかない。
私だって境内に葉っぱ落ちてないのにホウキで掃くことはないです。ご飯食べてるときに歯を磨く必要はないです。
貴方の体はそこにある。いま、ここ、このことをやるだけでいい。原点回帰。

2024年1月24日 22:00
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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