hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

病気は私に何を伝えようとしているのか

回答数回答 2
有り難し有り難し 16

53才女です                       

   
                     

46才を過ぎた頃から原因不明の病気が続きます

                                    

疾患履歴
糖尿病、脂肪肝、うつ病、
パニック障害(精神障害2級)         

         

46才ごろ自宅で動けなくなり入院
地元の大きな病院の脳神経外科でいろんな検査をするが原因が分からず歩けないまま自宅に帰らせられる
車椅子生活になり車の運転も出来ず仕事をやめざるを得なくなる              

   

その後→薬剤過敏症アナフィラキシーで二度入院
一度目は呼吸困難で意識不明になりICU入院(もう少し遅かったら死ぬところだったと先生に言われる)
二度目は自宅で突然顔が腫れ上がり呼吸が苦しくなり救急車を呼ぶ→掛かり付けの病院に入院→また先生に死ぬところだったと言われる                          

       

特発性大腿骨頭壊死症 
難病指定、両足とも壊死
左足は2023年人工股関節置換術をうける  後遺症で大腿神経麻痺→両足とも立ったり歩いたりが困難になる→リハビリ中        

        

菌血症→2024年1月4日自宅で意識不明
救急搬送→40℃発熱インフルとコロナ陰性
特定個室入院(24時間観察)→翌日目を覚ます意識混濁、味覚障害、めまい、排尿困難、
左耳が聞こえなくなる
急性中耳炎で鼓膜切開
現在(2/5)も左は聞こえません          

 

次々と病がやってきて、死にかけることが度々あるのはなぜでしょうか?
なんとなく神様が私に何かを伝えようとしている気がしてなりません           

悔い改めるところがあるのか、何かやらなければならないことがあるのか、他の何かなのか、私には分かりません
どうか教えてください

2024年2月5日 2:57

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

病気の苦しみから解放されるための心理ハンドル

心の運転の大切さ
これは笑い話なのですが、数年前お寺の前でおじいちゃんが車で大雪で動けなくなってしまい。
👴「あわわ」
私「私が押しますから運転席に乗ってくださーい!」
私「せーの!」
👴「(アクセル)」🚙ぶるーん!
よかった!
車は無事に進みました。
(*´Д`)私「(いえいえ、名乗るほどのもでは…)」
🚙ぶろろ…
じいさん、振り返ることもなくハンドル操作に必死…
大雪はお礼もよかったねも言う間もない。爺さんも振り返ることもなく必死でハンドル操作。
「いえいえ、名乗るほどのものでは…」完
あとから笑えます

人生大事なのは車も心も運転の仕方。
私も今、糖尿と通風と胃痛とコロナ後の後遺症で免疫ガク落ち(ちゅ多様性)で病気するたびに中々治りません。ですが、こうして回答している時に私は病気であることを病気でありながらも「忘じている」のです=身心が何かをやっているとき自然にそのことに任せているときの問題を忘れるハタラキにお任せをしているのです。
ご病気、本当に大変でしょうね。代わってあげられなくてごめんなさい。
私も今歩くのも精一杯。共に頑張ろう。頑張るいいましても最高の頑張りは力を抜くこと。
私も足がいたい、目がかすむ、炎症か血管の収縮で太もも超痛い、トイレも近い、階段の上り下り苦痛。それでも布団に入っているとき「ここだ!」という安静ZONEがあるのです。そりゃ、痛いときは痛いですよ。それでも、ここなら痛いけどそんなに苦痛じゃない💕というベストポジションを探すの大事です。空間的にも心理的にも体勢的にも。
お互い病気を持つ者同士、なんとかその安全地帯をキープし続けましょう!
心の運転。ハンドルの操作、アクセルは踏み過ぎない事。イラつくとき、心がくじけそうなときにもブレーキを。ダメなときはカーオディオで大好きな曲をかけましょう。
私が救われた言葉
「病は病であっても、病を忘れているときがある。たとえそれが一瞬であっても、その一瞬だけでも病のことを忘れられているのであれば、それはその一瞬でも病からは解放されていたんだよ。」
静かに呼吸をして下さい。
そして、抗う心をモグラととらえてなでなでする。
痛いときは痛いでいい。
何かをしようとする心、能動的な心を今から鎮めます。
ギアはニュートラルで。
エンジンは空ぶかししません。体の血流にお任せをしてみましょう。お大事に。

2024年2月6日 23:00
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

どう受け止めるか

壮絶な病歴ですね。心よりお見舞い申し上げます。
一方で、私の母はあなたくらいの年齢で亡くなりましたので、あなたがまだ生きていてくれることを嬉しく感じます。
さて、たとえば浄土宗の法然上人は、念仏できるように生きなさいと言われました。
結婚した方が念仏しやすいなら結婚して念仏し、独身の方が念仏しやすいなら独身で念仏しなさい、など。
それを裏返して考えると、今ここで念仏ができていれば合格人生だ、とも考えられます。
病気になっても念仏できていれば合格人生だし、病気で一命を取り留めたら「ラッキーにも念仏する時間が与えられた」と受け止める。
また、「仏様のおかげで昨日死ぬはずだったのが生き延びさせていただけたのかもしれない」などと受け止める。
結局は、どう受け止めるかはご本人次第なのです。
ただし、欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩は悩み苦しみストレスの原因になるので、煩悩が和らぐようなポジティブな受け止め方をした方がストレスは減ります。
また、怒りや悲しみを刺激するような思考を何度も繰り返す思考の堂々巡りも無駄に疲れますので、10分考えても答えが出ないことは10時間考えても同じだ、脳の無駄遣いだ、と意識して、妄想雑念のループをストップするようにしましょう。

2024年2月5日 4:05
{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

回答していただきありがとうございます   
私が生きていたことを喜んでくださる方がいることに心から感謝です
仏様のおかげで昨日死ぬはずだったのが生き延びさせていただけたと思うとなんとラッキーなことだろうと思います          
念仏を唱える時間が与えられたのですね    
ありがたいことです             
これからは仏様がくださった時間を大切に生きていこうと思います            
ありがとうございました

丹下覚元先生、回答していただきありがとうございます                                  
                    
先生のお言葉にはっとしました
お礼を書いているとき私は病気のことを忘れていました
私は趣味が折り紙なのですが折り紙をしているときも一生懸命になって痛みや辛さを忘れていました
これは病気から解放されていたのですね    
なんと不思議なことでしょう         
気付きをいただきありがとうございます    
私は何度も死にかけては生きています
命を何度もいただいているような気持ちです
これからも命を大切にして、きょうの気付きも大切にしていきます            
本当にありがとうございます

               

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ