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これからの生き方

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私は今まで、自分にとっては目一杯の夢を叶えて来ました。

その反動で病気になり、バイタリティが減ってしまったこともあると思いますが、これからは夢に向かって自分にムチを打ち続けるのではなく、出来るだけ毎日毎日を慈しんで生きて行きたいです。

私は40代ですが、この年代でそんなぬるいことをいっていましたら、老後、挑戦をしなかったことを後悔するでしょうか?

何かお言葉をいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

2024年4月19日 8:06

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人の人生は春夏秋冬。

コットンさん
お悩み拝見させていただきました。

これまでのご活躍も、拝見させていただきました。
中々人が出来ない経験をされて来たのですね。
素直に尊敬いたしますし、とてもかっこいいです!

そして、その反動で病気になり、バイタリティが減理、
これからは夢に向かって自分にムチを打ち続けるのではなく、
出来るだけ毎日毎日を慈しんで生きたいと思われてるのですね。

自分に鞭打って頑張り続けることだけが素敵な生き方なのでしょうか?
私はそうは思いません。

出来るだけ毎日毎日を慈しんで生きたいとのお気持ち、
とても素敵だと思いますよ。

もしかしたら、
「頑張っていない自分には価値がない」というような、
頑張ってないと○○という思い込みが、自分の中にあるのではないでしょうか?

ありきたりな言葉ですが、
人は、生きているだけで尊いのです。
頑張っていなくてもコットンさんにはそのままで価値があるのです。

それにね。

人間も自然の一部ですから、バイオリズムがあります。それが自然の摂理です。
登って、降りてを繰り返しているのです。

人の人生は春夏秋冬。

春のように新しいことにチャレンジする時期があり
夏のように最盛期を迎え輝かしい時期があり
秋のように少し落ち着いて日々を過ごす時期があり
冬のように冬眠しながらじっと春を待つ時期がある

どの時期も次を迎えるために必要な時期だし、
どの時期の自分も変わらず尊い存在なのです。

次の波が来た時に、
きっとまたチャレンジしたくなる時が来ますよ!
今はしっかり休んで、毎日を慈しんで英気を養ってください。

コットンさんの心が少しでも軽くなり温かい光に包まれるようお祈りしております。
南無阿弥陀仏。合掌。

2024年4月19日 9:19
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おきもち

個別相談可能
初めまして。プロフィールをご覧いただきありがとうございます。 ◆浄土真宗本願寺派僧侶 ◆真宗カウンセリング勉強中 ◆3歳の女の子のママ ◆メタバース寺院にてイベント開催 ◆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆ ✧小中いじめられる→尊敬する友人関係 ✧親との確執から家出 → 心地よい距離感へ ✧摂食障害で32kg → 理想体型でモデルに ✧自己肯定感が低く自分が嫌い→自分を愛し許せるように ✧本音がわからない → 自分を貫く生き方へ ✧借金まみれ → 起業しOLの給料の3倍 ✧20代で母が他界 → 義理家族と絆を深める ✧ダメ男製造機 → 理想的な神夫と結婚 ✧4度の復縁 → 魂のパートナーシップへ ✧重度の産後うつ → 2年で僧侶になる 他、ここには書けない事もいっぱいです(笑) ◆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆ 〈自己紹介〉 出産後、重度の産後うつを煩い4ヶ月入院生活を送りました。 その時の経験が大変苦しいものでして、 「仏教の中に救いの答えがあるのではないか?」 と考え学校に通い2年間勉強させていただきました。 その時のご縁をきっかけに、2023年お得度させていただく事になり、 生まれ変わった気持ちで僧侶としての人生を歩ませていただいております。 お寺とは関係のない一般の家庭で育ち、幼少期から複雑な環境で様々な経験をしてきました。 子供の頃から敏感な性格で人の気持ちが分かることが多く、その為多くの方の相談に乗ってきました。 それらの経験が、皆様のお話しを聞かせていただく時に何かお役に立てることもあるかもしれません。 まだまだ勉強中の身ではありますが、皆様と向き合わせていただくことで 私もお育てに合わせていただきたく思っております。 仏教の目的は「成仏(仏に成ること)」です。 仏になるということは「心理・真実に目覚めるた人になる」ことです。 私は、皆様一人一人が仏になる身だということを心から信頼しております。 また、仏教は「転迷開悟(迷いを転じて悟りを開く)」の教えです。 今どれだけ苦しみや迷いの中にいても、それらが悟りの種になり、 今後の人生をより良くするものになっていくのだと思います。 人生に無駄なことなど何一つありません。 1人でも多くの方が心が軽くなり愛の溢れた世界になるように微力ながら関わらせていただけると幸いです。 ✴︎ ✴︎ ✴︎ 仏教の教えや言葉などを元に、皆様の気づきや癒しになり 少しでも「優しい世界」が拡がり、「人生って面白い!」と思う人が増えるような そんな貢献ができるようにと祈りを込めて Instagramをスタートしました! 毎月1回メタバース寺院でご参加いただける イベントも開催しております。 次回は12月19日(木)21時〜です! 詳細等はInstagramでお知らせします。
オンライン個別相談 13:00〜17:00 21:00〜22:30の間でお願いします。 過去に私自身さまざまなな体験を乗り越えて来た経験や、ご相談にのって来た経験がありますので、それらの経験からお役に立てそうなことはお答えいたします。まずはお話しを真摯にお伺いしたいと思います。 少しでも皆さんの心が軽くなるように寄り添わせていただきます。 あなたの悩みや心配事を仏様にお預けくださいね。

日々刻々の授かりの功徳に気づく生き方

常人ではとても成し遂げることのできない世界の最高峰を乗り越えてこられた以上、強い自信と信念、どんな困難も乗り越え、成就する力をお持ちのはずでしょう。
禅の公案に「九十九の曲がりくねった道をまっすぐに歩いてみよ」という心を豊かに導くための工夫課題があります。
人生の紆余曲折や順境逆境、孤独や悲しみ…絶望という困難。その曲がりくねった道をどう進み、乗り越えるか。
私は嫌われ坊主でして、ずけずけものを言うもんですから人から好かれません。
ですが、観音の優しい笑顔も不動明王の憤怒の相も導き先は同じ菩提、悟り、正覚、涅槃。聡明で安穏なる精神。まっすぐです。
孤独や自分の力でやりたいことがやれない歯がゆさがあるときは、頭の中は今のことではない迷い道に向かっているものですよ。山道ではどうですか。登山の入り口から一歩一歩。どこも踏みしめている「そこ」が今。その時。生きている命のその時の登頂地点とも言えませんか。

たてぬまと 引かぬ弓にているときは 当たらざれども外れざりけり

弓は弓を射る以上は当たるということがベストでしょうが、仏道、弓道の極意とはそれだけではない。弓を持たざる時の自己、ひいている時の踏みしめの地、放った時のそこ。当たる当たらないも超えた生き様はみなすべてが自己で道です。
今これを読みながらもあなたは呼吸をしておられます。生きておられる。本当は見逃してしまっているだけで、実はそこには今日しか見れない景色や音や言葉や、香りや味や、温度や、感覚や、気づき、発見があった。そういうものに溢れている。溢れていながらも、人は山頂や咲く花、中心に当てるという自分の描く理想のベストビジョンばかりを追い求めるところがある。そうして、今の呼吸のあり難さが見失われ、脚下、目の前の世界がなにやらグレーにも見える。
成功しなくちゃいかんのか。
孤独というものは真の静寂ではないのですよ。
人が坐禅をするのはなぜか。
孤独や沈黙のその先にある人の介入、自己批判をも超えた本当の静寂、大寂静という涅槃の山の頂きをめざすのであります。
そこを大雄峰、須弥山、涅槃城、大法楼閣ともいう。
自分の負の思いも苦しみも妄想も煩悩も寄せ付けぬ大寂静の山、頂点のあることを今ここで知った以上、あなたは目指さないわけがありません。
九十九の曲がりくねった道をまっすぐに進み、随所に坐して天の授かりを見出してください。

2024年4月19日 9:40
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

石森奏光さま

ご丁寧でとても深いお返事を頂き、心より感謝いたします。おっしゃる通り、私は頑張っていなければ自分には価値がないというような考え方がありました。頑張らなくてもそのままで良いとおっしゃって頂き、非常に心が救われました。ありがとうございます。そうですね。人生は本当に春夏秋冬ですね。どの季節も意味深いですね。私はいま冬なのかも知れません。アドバイスを頂いたように、また動き始めるまで、英気を養うときかも知れません。私の気持ちに寄り添ったお返事を頂き、心より感謝いたします。本当にありがとうございました。

丹下覚元さま

非常に深いお返事を頂き、心より感謝いたします。とても心に染み入りました。『九十九の曲がりくねった道をまっすぐに歩いてみよ』そして『孤独や沈黙のその先にある人の介入、自己批判をも超えた本当の静寂、大寂静という涅槃の山の頂きをめざす』非常に興味深いです。私が時々立ち止まりながらも曲がりくねった真っ直ぐに生き、いつか大寂静に辿り着けるように歩いて行く。そのような生き方は、何とも興味深いです。果たして私がどこまで行けるか分かりませんが、そこを目指して日々進んで行きます。初めて知ったお話でしたので、これからさらに時間をかけて咀嚼し、自分の中に取り込みたいと思います。アドバイス頂き、本当にありがとうございました。心より感謝いたします。

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