無償の愛とは…?見返りを求めてしまう私
タイトルの通りです。
紆余曲折あり、お付き合いこそしていませんが、(多分)心で通じ合った男性とお別れをしました。私は恋心を抱いていましたが、結果的に、彼がそれを便利に使ってしまったという感じです。
長い付き合いでしたので、途中彼が会社を興しました。
パートナーは私以外考えられなかったとのことです。
お互い得意分野が全く違いましたので、私のできることを精一杯、時間も生活も時にはお金も使って会社のため、彼の為の尽くしてきました。
ですが、彼は給料以外は、物や感謝の気持ちなど、私にかけることはありませんでした。
最初こそ色々手をかけてくれましたが、一緒にいるのが当たり前で飽きてしまったのかも。
改善をお願いすることもありましたが、彼も「女は面倒くさい」とうんざりしているようでした。
益々状況は悪くなり、私は仕事を放りだす形で彼とのお別れをしました。
朝から深夜まで働き、彼も嫌味や愚痴をぶつけてくるようになり、私も心身共に壊れてしまったのです。
空っぽになり今、少し落ち着いていますが、私が彼からの見返りを求めず純粋に仕事と彼との時間を有意義に楽しめてたら、すべてハッピーなのに、と後悔しています。
ですが、私は彼からの感謝の気持ちや、何かお礼というか形が欲しかったとずっと思ってしまいます。本当に卑しいです。
私は、彼の母になりたかった、と思っています。
何でもしてあげて見返りなんか求めず、疎ましく思われようとも、母が死を迎えるという時には、大好きなお母さん、と涙を流してもらえる…
こんなに羨ましい存在は他にはありません。
大好きな人なのに、こうしてほしかった、という欲求が止まりません。
会えるだけでいい、一緒にいるだけでいい、と思っていた時期もありました。
しかし今、私から彼を拒絶してしまっています。
また一緒に働きたい、なんてもう言えませんし、仮にそうなっても私が擦り減っていきます。
本当に、私は彼のお母さんになりたいです。
無償の愛をいうのは仏教の世界ではどういうものになりますか?
母親の愛…というような概念も、仏教のお話の中にあったりするのでしょうか。
愛にも色々な形があるとは思いますが、激しい恋愛の愛より、穏やかな、空気のような愛を生み出すような存在でいたいと思っています。そういったお話などあれば、聞かせていただきたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
独りよがりの愛では✖︎
仏教ではそもそも愛ということはあまり言いません。慈愛というのが一番近いと思います。
慈しむ心。
これは、確かに見返りを期待しないということですが、大切なことはお互いにそういう気持ちがあって成立することだと思います。
片方だけが愛だと思い込んで尽くすというのは、結局今回のように貧しい心を育てるという、独りよがりの心です。自分さえ良ければ相手の心は成長しなくても良いというのは違うと思います。
親子であったら尚更子供の成長を願うでしょ。
健全な関係というのは互いに高め合える関係であること、信頼と尊敬でお互い成り立っていることです。自然と感謝もし合えるかんけいはすてきですよね。そういう関係が築けるお相手を見つけられたら良いですね。
慈しみのことば
ポコ 様
『スッタニパータ』という経文から慈しみのお釈迦様のお言葉を下記に掲載しますので、よく味わって読んでくださいね。
きっとこれからのあなたに役に立つでしょう。
「いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、ことごとく、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようとするものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」
「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。」
「あたかも、母が己が独り子を命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの心を起こすべし。また、全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし。上に、下に。また横に、障害なく、怨みなく、敵意なき慈しみを行うべし。立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。」
現代社会は忙しい、経済活動も、お釈迦様の時代とは比べ物にならず、激しい。
生活がめまぐるしい。当然、心も動きが激しい。無償の愛なんてどこにあるのか?という感じかもしれません。
こんなときこそ、立ち止まって上記の文章を何度でも味わってください。
合掌礼