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浄土真宗での、頑張る意味

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拙いタイトルですみません。最近、子供たちに教えるため、我が家が信仰している浄土真宗について調べています。知識がほぼないので、恥ずかしながら子供用の仏教、浄土真宗入門を読んでいます。
仏様がどんな命も救って下さり、行いによるプラスもマイナスもないと書かれていました。
でも、例えば子供から、プラスもマイナスもないなら、頑張らなくても良いの?と聞かれたらうまく答えられません。

阿弥陀様がどんな私達はも受け入れて下さるから、安心して色んなことに挑戦できる、とは知りました。でも、挑戦しなくても良い…?怠けても良い…?浄土真宗の中では、努力や頑張る気持ちをもつ事についてはどのように説いているのでしょうか。

2024年6月24日 15:01

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

阿弥陀さまの慈悲があるから頑張れる

ご相談ありがとうございます。お子さまに浄土真宗の教えを理解してもらおうとするお母さまの姿勢、とても素晴らしいことだと思います。そして、仏教や浄土真宗の教えを探求される過程で生じた疑問を通じて、一緒に学ぼうとするその姿勢も尊いものです。
仰っているように、浄土真宗の教えの根本には、阿弥陀如来が私たちすべての命を無条件に救ってくださるという考え方があります。どんな行いをしても、その行いによって救われるわけではなく、阿弥陀如来の大慈大悲の力によって私たちは救われるのです。
しかし、その教えが「努力をしなくても良い」「怠けても良い」と捉えられるのは確かに悩むところですね。この点について一緒に考えてみましょう。
浄土真宗では、努力や頑張ること自体を否定するわけではありません。むしろ、阿弥陀如来の救いの深さと無条件の愛を理解することで、私たちは自分の至らなさや不足を素直に見つめることができ、そのうえで一層積極的に生きることが求められます。
この教えの一つに「安心立命」という考え方があります。阿弥陀如来の無条件の救いを信じることで、心の平安を得ることができます。そしてその平安の中で、私たちは自分自身の人生や日々の営みに対して真摯に向き合っていくのです。つまり、私たちは何か特定の結果を得るために努力するのではなく、その努力そのものが意味を持つのです。
お子さまに具体的にどう伝えるかと言うと、「どんな挑戦でも、失敗しても大丈夫だよ。阿弥陀様が守ってくださっているから安心して挑戦してごらん。そしてそのこと自体がとても尊いのだよ。」と伝えると良いでしょう。
また、浄土真宗では「善行」という概念があります。善行とは何か特定の報いを望んで行う行為ではなく、無心で他者を思いやり、自分のできることを行うことです。ここには努力や頑張ることも含まれます。私たちは他者を思いやり、社会や人々のために自らの力を尽くすことができる。それ自体が尊いことなのです。
お子さまには、「誰かのために頑張ること、挑戦することはとても素晴らしいことだよ。それは阿弥陀様の慈悲に応えることでもあるんだ。」と伝えることで、努力や頑張る気持ちがどれほど重要であるかを理解してもらえるでしょう。
どうか安心して、お子さまと共に少しずつ教えを学んでいってください。その過程で生じる疑問や不安も含めて、それが尊い仏縁となります。合掌

2024年6月24日 18:00
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おきもち

仏教の目的は、抜苦与楽と成仏です。 生きている人の苦しみをどうしたら癒せ...
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阿弥陀仏の慈悲 親の慈愛

きみどりさん

例えば、大谷翔平選手や池江璃花子選手を見て下さい。
度重なる怪我や、死につながる病に侵されても、常に前向きに一流のアスリートであり続けようとするのでしょう?
彼らの前向きに頑張る姿に、私たちは励まされています。
あのイチロー選手の3000本安打達成時の言葉に
「達成した瞬間にチームメートたちが喜んでくれて、ファンの人たちが喜んでくれた。
僕にとって三千という数字よりも僕が何がをすることで僕以外の人たちが喜んくれることが、今の僕にとって何より大事なことだということを再認識した瞬間でした。」
お子さま達が頑張る事で、周りの人や自分たちも励まされ頑張ることが出来る。そのことをお子さまに伝えてください。
よく、仏様・阿弥陀様のことをご法話で
「親さま」
と表現します。
親とは自分の事よりも子のしあわせを願うもの、その願いに応えて努力する子の姿で親の子への慈愛はますます深まるもの。
やがては、その子も親になり「親の慈愛」を理解し、子に限らず他の人も想いながら生きていける。
今生をおえて阿弥陀様に浄土へ導かれ、同じように慈悲の仏とさせて頂くことは、多くの人々の利益のために自分が働けるようになること、であると説かれています。
元日の能登地震などの災害で、寸断された水・電気・鉄道・道路など、日常当たり前に利用するモノは実は当たり前ではない。多くの人々の努力工夫の上にある「稀有な」当たり前です。
お子さまたちに、今の日常の有難さや、努力する事の損得以外の無償の価値について話してみて下さい。
親さま・阿弥陀様は常に見守り、慈悲の光で包み込んでくださいますよ。見えなくて感じなくても・・
親の慈愛とはこうゆうモノではないでしょうか?

合 掌

2024年6月24日 22:12
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おきもち

石川県金沢市内の城北地区鳴和町で浄土真宗本願寺派のお寺をお預かりしておりま...
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他力とは極楽に往生させる力

他力とは本来、念仏者を往生させてくれる阿弥陀の本願力を指す言葉です。
往生極楽に関しては、私達は頑張る必要はないのです。
しかし、それ以外の世俗の事柄や、極楽浄土でより早く成仏(悟る)することについては、努力精進の結果は無駄ではないのです。
また、阿弥陀仏はどんな悪い子供でも見捨てない親のように、煩悩だらけで愚かな悪人である私達を救ってくれますが、阿弥陀仏は私達の罪を見れば嘆き、私達の善行を見れば喜んでくれます。
あなたも、お子さんがどんなに怠けても親としての愛情は消えないでしょうけど、お子さんが努力して成功すれば嬉しいでしょう。
努力しなくても往生できるから大丈夫ですが、努力しても往生できるのだから、努力の結果という楽しい体験を味わってみるのも良いでしょうね。

2024年6月26日 0:03
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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

子供への言い方まで教えて下さりありがとうございます。見返りを求めず思いやったり努力する善行、素敵な言葉ですね。プラスやマイナスにならないけど頑張るのではなく、何も望まず頑張ることが尊いことなんですね。とても勉強になりました。

回答頂きありがとうございます。確かに、阿弥陀様は怠けている姿より努力する姿を嬉しく思うでしょうし、見せたいですね。救われるならいいや、という短絡的なものではなく、周りのため、阿弥陀様のために感謝の気持ちを持って頑張る事が大切だと説明したいと思います。

回答ありがとうございます。最後の言葉がとても心に刺さりました。精一杯努力したり、人に優しくしたり、そうした生き方の方が楽しいですよね。そう考えられるのは、阿弥陀様がお救い下さるからこそですね。浄土真宗について勉強を始めなかったら気付けなかったことばかりで、またお坊様方からご親切に回答下さり理解を深められて本当に良かったです。

「浄土真宗」問答一覧

お仏壇の買替えとご本尊の引っ越しについて

お仏壇の買い替えとご本尊の引っ越しについて教えて下さい 私の実家に据え置きの浄土真宗の仏壇があります。 仏壇は高さが150cmくらい、幅が65cmくらいです。 位牌は繰り出し式のお位牌で祖父母、父が入っており最近母が亡くなりまして 母もその繰り出し式のお位牌に入っています。 実家は母が無くなり空き家になったため仏壇(お位牌・ご本尊・脇侍)を 実家から私の自宅に移そうと考えています。 私の自宅は狭いので、仏壇は上置きのものを新規に購入して、 実家からお位牌・ご本尊・脇侍を自宅へ持ってくることを考えています。 実家のご本尊・脇侍(どちらも軸のタイプです)の大きさを確認したところ、 ご本尊で高さ34cmくらい、幅が14cmくらい。 脇侍が二つとも高さ27cmくらい、幅が13cmくらいのものでした。 このご本尊と脇侍を実家から私の自宅へもってきて新しい上置き仏壇に収めるとなるとご本尊と脇侍がおおきいため収まらないことがわかりました。 そこで、私の自宅で新規に仏壇、ご本尊、脇侍をあたらしく購入して 準備するという方法を考えました。 その場合ですが、 (1)実家にある仏壇の魂抜きですが、繰り出し式のお位牌のみの魂抜きになりますか? (2)ご本尊、脇侍についても魂抜きをおこなうことになりますか? どのような対応になりますでしょうか? なお、実家の仏壇は位牌を私の自宅に移したのち、時期を見て処分する予定です。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 19
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私は人間には業を作らなければならない宿業という物があると思ってます。 定められた宿命の様な業バージョンの自分で作った造語です。 ※宿業という言葉はもう既に存在してる事は知ってます。 その宿業を持った人間と他者を繋ぎ止める縁、即ち業縁もあると考えています。 世の中、良いご縁ばかりがある訳じゃありません。 悪いご縁も勿論あるのです。 ただし、宿業と業縁の相互が見事にマッチした時、間違いを選択してしまうか否かはその人自身によって変わります。 強い人は打ち勝って状況を良くしようと邁進するでしょうが弱い人はここで堕落してしまいます。 分かりやすく言うと犯罪者になるという事です。 ありとあらゆる可能性を分析してそのレベルが低い人は人間社会における負け組になる傾向にある訳です。 生まれた環境が悪く、能力もさほど高くなく、宿業と業縁がマッチしてしまう人は犯罪に手を伸ばしてしまう人が多いと思います。 自分はそんな人達が本当に可哀想だと思います。 はっきり言うと世の中救いようのない人間は誰一人居ないと思います。 浄土真宗の本願誇りだってそうです。 悪い事をしまくっても救ってくれるという解釈違いを生んでしまう、その状況が悪い訳でその人自身が悪い訳ではないと思います。 人生において色々重要視するポイントはありますが縁(人と人との繋がり)は最重視しても良い位だと思います。 ここで冒頭に戻りますが宿業といっても人それぞれ大小異なると考えてます。 虫を殺してしまう宿業を持って産まれてきた人だったり人を殺めてしまう宿業を持って産まれてくる人だったり人それぞれですが必ずしも業を作る訳ではないと言えるのもまた事実です。 本質に近い宿命すら何の課題を持って産まれて来たのすら分からないまま達成する事なく亡くなる人や知らず知らずのうちに達成して成仏する人も居ると思いますし。 犯罪を助長したい訳じゃないです。 悪い事はきちんと償うべき。 私のこの文を読んで業縁で繋がった人が解釈を間違えて非行に走る前に念押しでもう一度言います。 犯罪はするべきではないです。 千字ギリギリまでダラダラ文字打ちしましたが何を言いたいのかというと業にも縁があって人を殺めてしまう人とそうでない人の違いはその縁があるかないかだけだから平和に過ごせてる人は犯罪を犯してしまった人を慈悲の心で助けるべきだと思う私の考えは誤ってますでしょうか?

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家の宗派に捉われず、自分個人の考えに合う仏教宗派を求めてグルグルと何周も思考の旅だったり実際にあちこちに足を運ぶ物理的な旅だったりを繰り返してきました。 基本的には僕は称名念仏の徒ですが、それだけで本当にいいのだろうかという疑いのような気持ちがあって、でも禅や密教などできる気もしなくて、それらのスピリットを念仏の中に包含した総合仏教みたいなオールインワン念仏を説く宗派はないかなと思っていました。その候補として浄土宗西山派、時宗、天台真盛宗など考えました。 ただ、ふと思ったのです。仏教宗派はよく登山道に例えられますが、それを一人で網羅する必要はないんじゃないか。オールインワン念仏でなくても、自分の道が称名念仏であるなら他の道を通る時の景色は絶対に見なきゃいけないということはないんじゃないか。 伝教大師が好きなのですが、例え天台宗に入っても法華や禅や密教を自分でやるとは思えず、やっぱり天台宗内の念仏行者にしかならないと思います。じゃあ浄土宗(鎮西義・知恩院)でいいんじゃないのか。 ただ、浄土宗は生きている間の生き方への教えが弱いかなと思うのです。 「現世を過ぐべきようは、念仏の申されん方によりて過ぐべし」ぐらいしか無いように思いますが、平安鎌倉の時代は良くても現代人にはこれだけでは生き方指南としては弱過ぎはしないか。 この点が浄土宗の弱点だとずっと思っていましたが、そこで好意を持っている伝教大師の教えを援用するということを思い付きました。そう、あの有名な「一隅を照らす」。 仏道修行としては浄土宗の念仏しかしませんが、人間としての生き方としては「一隅を照らす」を座右の銘とする。浄土・天台の併修と言えるほど本格的なものではありませんが、この両宗派を菩提宗とした僕の尊敬する徳川家康公のお心にも叶うかと思うのです。 僕が見つけたこの仏道、お坊様方から見てどうでしょうか? なにぶん素人の横好きからの考えですので、未徹在な点があればご指摘ください。

有り難し有り難し 9
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現世利益とは

十年来の悩みを解決するためにあちこちの寺社を巡り、現世利益を説かない浄土真宗(現生十種の利益というのがあるのは知っていますがそういうのじゃなくてもっと即効性のある即物的な現世利益が欲しい)を辞めてまで理想の宗派を探している者です。 ただ、割と現世での救いに力を入れて説いていらっしゃるイメージがある日蓮宗のお坊さんに聞いても「現世利益とは久遠本仏を悟り安らかさを得ること」という答えだったので、ちょっと仏教における現世利益を根本から考え直さなければいけないのではないかと思ってしまった次第です。 歴史的に浄土系は来世にしか救いがないと批難してきたはずなのに日蓮系自慢の現世での救いも心の安らかさを得るだけなら浄土系と五十歩百歩ではないのか(阿弥陀念仏だって心の安らかさは得られますから)。 結局のところ仏教における現世利益ってどこの宗派も「直接的に奇跡が起きて悩みが解決するわけではないが、心の持ちようで悩みが軽く感じられるようになる」程度のものなのかと思えてきました。このあたりのお坊様方の現世利益の捉え方(具体性の程度)をお伺いしたいです。 仏教に願いを叶える現世利益は無いとまでは言い切れないでしょうが、自分の努力で一進一退を重ねても最後の決め手に欠けるという時にずっと傍観していた神仏が最後の一手だけ手を貸してくれるというようなものだと思った方がいいでしょうか?

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親より先に死んだら親不孝なのか

こんにちは 私は母親より先に死にたいです 母親が世界で一番大好きなので母親を失う悲しみを味わいたくないし、何より一人では生きていけないからです 病気で人とまともに話せないし、世の中のことを何も知らないからです 母親がいなくなってしまったら私は絶対に立ち直れません なので私は母親より先に死にます 自殺はするつもりなくて病気で死にたいです 母親にそれを話したら、「〇〇ちゃんは一人じゃ生きていけなさそうだからそれでいいよ」って言ってくれます 私を残して先に死ぬことが心配と言っていました でも一般的に親より先に死ぬのは最大の親不孝と言われています ネットでもしょっちゅう見かけます それに親より先に死んだら五逆で地獄に落ちるとか、三途の川に行くとか言われています それがとても心配です 私は一応浄土真宗を信仰していて、親にもお葬式は浄土真宗にしてって言っているのですが、地獄に落ちるのかがとても不安です ちゃんと極楽浄土に往生して阿弥陀さまに会えるように毎日、南無阿弥陀仏を唱えてるのですが、ネットとかで親不孝とか見ると不安になります 親より先に死んだら地獄に落ちますか? 親より先に死んだら阿弥陀さまの救いの対象から外れてしまいますか? どうか回答よろしくお願いします

有り難し有り難し 13
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ