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長生きしたくないと思うのはおかしいこと?

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今私は社会人4年目で今年で21になりました。

周りの友人が恋人結婚、キャリアアップなど色々なことを目指してく中自分だけが漠然と将来を想像できません。

結婚願望も無ければ子供が欲しい訳でもなく、かと言ってキャリアアップを目指してるわけでもありません。

先日学生時代の友人と集まった際に、結婚報告をしてくれた友人がいてとても嬉しかったのですがその友人から「無味(仮名)は恋人とか居ないの?結婚は?」と聞かれた際上記のような返答をしたら「え、変なの!」と言われました。

私としては毎日漠然と起きて働いて寝てを繰り返し特に将来これといった目標などもなく正直将来の事を聞かれる度「30歳くらいまでに死にたいなぁ」と思うことが多いです。

周りはこれからもっと楽しいことがあるよ!絶対!と言ってくれるのですがあまり想像できません。

相談とは違うかもしれませんが、中々身内には言いづらくこちらにて相談という形でお話させて頂きました。

2024年8月2日 2:55

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一大事因縁と究尽すべし

人生の大真実は「今」。
今と共にあゆみ、今と共に踊り、今と共に波を乗りこなすのです。🏄海でのサーフィンをしていなくても今という法の波、法の川を上手に乗りこなす、親しむということですわいの。※法…この世の人間の決めたことではない目前の現実=人のルールを超えた一大事実

今をみていない、今と本当に遭遇していない人、今のことに親しく触れていないと、人は過去と未来を問題にするよういなるだけだと知りましょう。
よってあなたの悩みは人生の本当に生きる意味を確かにする、明らかにするということではないでしょうか。
人はそこを明らかにしなければ、いわゆる誰かさんが敷いた理想的なレールに沿ってそれらしい人生を歩んで何となくまぁ満足という結果になります。
「そこそこしあわせ~(13:50~)」(https://www.youtube.com/watch?v=-zmtPP-yeA8&ab_channel=KotoProduction
時代は多様性多様性で生き方も多様性、個性、独自性ですから、あなたは周りに合わせずに自分流の独自の「アタシの人生これだわライフ」を全うされればよいのです。
過去と未来は思い。一念。みな今の一念でしょうに。人生今のこと以外はみんなマボロシです。1秒先だって予測不能で想定外なことばかり。だからこそ、五感を坐禅で研ぎ澄まして自分の五感センサーを最善最高最上クオリティに高めて、自分史上最高の身心コンディションをGETすれば、あなたは今考えているようなことから離れられて、そんなことを考えること自体勿体ないとおもうえる、実感できるようになるのです。
極端に思うかもしれませんが、頭で考えているその思いも今ならざることだったりするはずです。
人生の大真実とはなにか。
この生というものを明らかにすること。死も明らかにすること。そして何よりもこの自分自身を明らかにすることこそが人間の一番大事な事です。人生の中でウソ偽りない本当の大真実、確かな道理、ほんまもんの生き方に出会えれば、生き死にやら周りのチャラチャラしたものに振り回されることもありません。地に足がつくようになる。ふらふらせんようになれる。
人生の一番の迷い、謎とは何か。この世界に生まれてきたのに、この自分自身というものをきちんと勉強する機会や教えてくれる先生がほぼ皆無だということなのです。だからこそ仏道はあるのです。

2024年8月2日 6:23
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

素晴らしい才能

鎌倉時代の法然さんというお坊さんは、
「生きていれば念仏の功徳が積もるし、死ねば極楽浄土に往生できるのだから、生死(しょうじ)ともに思いわずらうことはない」と言われました。
南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)える修行をすることで、極楽浄土に行ったときに悟る(成仏)が早くなるので、日常生活で念仏できる人生も喜び。
一方で、今すぐ死ねば、すぐに極楽浄土に転生できるからそれも喜び。
生きのでるも死ぬのでも「どちらでも良い」という境地は、かなり楽ちんで身軽な心境なのです。
それはあなたの素晴らしい才能かもしれません。
浄土宗では、極楽浄土に往生することを心待ちにしていたお坊さん達もいましたので、あなたが特別おかしいとは思いません。

2024年8月2日 6:13
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ