hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

自殺した母のことについて

回答数回答 1
有り難し有り難し 11

私は幼い頃から母に厳しく育てられてきました。
物心ついた頃から習い事をいくつも掛け持ちさせられたり、母が入信していた新興宗教?のようなものを私にも押し付けてきたりしてとてもしんどかったです。
テストの点数が下がったり習い事をやめたいと言ったら怒鳴られ、母に逆らえなくなっていました。
高校受験の際に成績が伸び悩み、「志望校を偏差値が少し低い高校に変えたい」と伝えたら「甘えてる」「逃げてる」と言われ、結局志望校は変えずに受験しギリギリ合格はできましたが、学力的に授業についていけなくなり、高校を中退しました。
その後、母からは高卒認定試験や予備校の話や宗教の話ばかりされ、挙げ句の果てには「お前のことはもう信用してない」「(母が信じてた新興宗教の)祈りが足りてない」と罵倒され、そこで私も怒りが爆発しました。
怒りで頭が真っ白だったためよく覚えてないですが、相当口汚く母や新興宗教を罵っていたと思います。
その2日後に母は自殺しました。
当時は悲しみは全くなく、母から解放されて正直ホッとしていました。

それから数年経ち、ふと母のことが頭に浮かびました。
母は厳しい人でしたが、家事はしっかりこなしており、機嫌が良い日は遊びに連れて行ってくれました。母が信じていた宗教も金銭を搾取するような悪質な団体ではなかったです。
やり方は少し間違っていたかもしれないけど、母なりに私のことを思い厳しく育ててくれていたんだと今は感じていて、「あの時母に言い返してなければ死ぬことはなかったのではないか?」と後悔しています。
母は何を思いながら死んでいったのでしょうか?
私は最近ずっと仕事について悩んでいて、死にたくなることも多々あるのですが、もしかしたら母が私を呼んでいるのかもしれません。

2024年8月16日 21:30

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

不完全さで共感しあって、赦しあう。そして再出発の発菩提心。

植物の話で喩えますと、間違った育て方をすれば植物は枯れてしまいます。負担が大きかったり、不適切な処方をすることで枯れてしまう。
動物の話で喩えますと、間違った育て方をすると動物は人間を恐れるようになります。動物が安心して人間を好きになれるかかわり方は愛情にあふれた優しい接し方です。
人間はもっと複雑です。
言葉も用いる、捉え方がある、考え方がある。
親子間で親が子供に対して負担になる自分流の接し方を強いれば子は親を嫌いになります。
生命としては親のことを愛するようになっていても親が毒親だったり、親目線過ぎれば当然、親子間は関係が悪くなります。
人間は誰も完ぺきではありません。お母さんもきっと心が弱く、何かにすがっていたい気持ちもおありだったのでしょう。人は自分の中でこれが良いだろうという自分の人生の中で学んだ方法をこれがベストと考えるものですが、それだって完ぺきではありません。私の回答だってベストではありません。
母親、お母さんとしてはわが子、あなたのために自分流にはベストな方法をやっておられたのですが、哀しいことにそれはアナタとのかかわりにおいてはベストな方法ではなかったというだけでしょう。
あなた自身とお母さんとを今から救ってあげてほしいと思います。
それは人間の不完全さ、未熟さを許し、赦して、愛すること。
誰だって不完全なのです。お母さんとあなた自身を一度、人間世界のルールではなく、人間ルールを外した神仏の視点から、もう一度「ただのお母さんと子供」との関係に立ち返るべきです。
今でこそ、大人になって本当はあの時、どうするべきだったということはかつてよりは上手に表現ができるようになれているはずです。
まずはお母さんに、お詫びをすること、感謝をすること。
そして、不完全であったとしても、すべての人々が不完全である以上は、それでも不完全なりにあなたを育ててくださった恩ある方なのです。人間のその哀しいまでも完全ではないありさまで通じ合って、これからも内なるお母さんとお話をしていって、お互いに高めあっていこうと向上心・菩提心をおこしあってください。
親子間や家庭を壊す原因になっていたのがその宗教であるならそこも問題視して、そういう宗教に騙される人がいなくなるよう誰かに教えてあげてください。
お二方が救われる為、再出発されるために菩提心をおこされるように念じ、祈ります。

2024年8月17日 7:27
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元(たんげ かくげん)さん

お礼が遅くなってすみません。
母への恩を忘れずに、不完全であることも認めて前に進んでいこうと思います。
ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ