宗教を拠り所にしていいかわからない
現在、病名は診断されていないのですが心療内科に通い、薬を処方されています。
時々急に不安が襲ってきてどうしようもなくなることがあります。
そんな時、神様などを信じている人たちは祈る対象があっていいなと思ってしまいます。
私自身、浄土真宗の幼稚園に通ったりキリスト系の高校に進学していたりと宗教は割と身近にあり、神様や仏様はほんとにいるのかなあと考えることもあります。
でも一方で、宗教というと新興宗教の勧誘とか事件を起こしたりとか人間を悪い方向に持っていってしまうのではないかと心配になります。
個人的には神様や仏様など心の拠り所がほしいなと思っています。
ちなみに母方の家系は浄土真宗だと聞きました。
こういうことをお坊さんたちはどうお考えなのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『確かに預かりましたよ』。
はじめまして。浩文(こうぶん)と申します。
『時々急に不安が襲ってきてどうしようもなくなることがあります。』
『神様などを信じている人たちは祈る対象があっていいなと思ってしまいます。』
生活の中で様々な不安を感じるとき、
不安には大きく分けて2種類あるのではないかと思います。
ひとつは
これから経済的にやっていけるか不安、とか
自分の能力(スキル)が足りているか不安、とか
あの人とうまくやっていけるか(人間関係)で不安、とか
「〇〇のことで不安」という、
何について不安なのかが明確になっている場合。
ふたつめには
「なんだかよく分からないけど不安」という、
漠然としている場合。
ひとつめの方は、色々策を練ることはできるでしょうが
ふたつめに関しては、
いくら経済的、能力的、人間関係的に恵まれていても
そうそう解決できるものではありません。
なぜなら何について不安なのかが明確でないからです。
私は心の拠り所をいうとき、
この2種類の不安のうち、ふたつめの
『漠然とした不安』をお持ちの方には
宗教を拠り所にすることを否定しません。
ただし、条件付きです。
ひとつは、その宗教の文句を言わないこと。
その宗教の、信じる神さまや教義、属する人間の悪口を言わないことです。
もうひとつは、いつでもその宗教を抜けられること。
その宗教が、よい宗教かどうかは
適度な距離感を保てているかどうかだと思います。
教義の優劣や、教団の規模、影響力がよい宗教の条件になるとは限りません。
この条件をのめるかぎり
漠然とした不安を抱えている人には
宗教を拠り所にしてよい、と私は考えています。
なにが不安なのか明確なら努力のしようがあるというものです。
しかし漠然とした不安を、同じようにがむしゃらに解決しようとすると
余計混乱し、人生を壊してしまうことになりかねません。
一種、その意味で、宗教を拠り所にする、というのは
漠然とした不安そのものを
『預けておく』行為だとお考え下さい。
かみさまや、ほとけさまが
『あなたのその不安、確かに預かりましたよ。』と
おっしゃってくださっているのです。
大丈夫だと思ったら返してもらうのです。
そんなやりとりを、行為を通して
保証してくれているのが
宗教かなと私は考えています。
ご参考いただければ幸いです。
南無釈迦牟尼仏 合掌
梅干しを思い出すだけで唾液が出る
悩み苦しみストレスの原因は、欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩です。
なので、煩悩を一時停止させられれば悩み苦しみストレスも一時停止できるし、苦・無常・無我等の真理を悟れば煩悩が消えて悩み苦しみも消えます。
それを踏まえて、宗教的な行為や思考に意識を向けているときは、煩悩が一時停止する可能性があり、悩み苦しみも一時停止できます。
また、私達は梅干しやレモンを思い出すだけで唾液が出たりします。
心が肉体まで変化させる。
宗教的な行為や思考が梅干しだとしたら、目の前に梅干しがなくても在るとイメージするだけで唾液を出せるように、神様仏様をイメージすることで肉体や煩悩に影響を与えられると思われます。
また、宗教によって自己肯定感を上げたりする(プライドの煩悩を良い意味で刺激する)こともあります。
「基本的人権」という概念を初めて知った昔の人々の感動にも共通するかもしれません。
質問者からのお礼
「預けておく」
なるほど、そのような考え方があったのかと目が覚めました。
ありがとうございます。
私の「不安」はやはり2つ目におっしゃっていたほうなのかなと感じます。
宗教と適度な距離をとりつつ、自分なりに模索していこうと思います。