大乗仏教の救いとは回答受付中
大乗仏教の救いについて教えてください。
大乗仏教では出家者ではなくとも、救われるとの教えだと学びました。
では大乗仏教の救いとはなんでしょうか。
出家をしないで煩悩が消せるとは思えません。
人間はいつも何か欲しいと思ったり、仕事に不満を感じていたり、何かしらの煩悩を持っていますよね。
煩悩を持ったままでも悟れるのでしょうか。
大乗仏教の悟りとは煩悩がなくなることではないのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
大乗、にもいろいろあります。
こんばんは。まずは仏教に関心を持たれたこと自体、ありがたいご縁であると思います。いろんなお坊さんがここにはいらっしゃいますが、「出家でなくとも=煩悩があっても」何とかこの世を、少しでも気安く生きていく考え方、そして実践が大乗仏教であると、私は認識しています。
それは畢竟(つまるところ)、「自身がどのようなナラティブを持って生きるか」であると、今の私は考えております。
ナラティブというのは、ナレーションと同じようなことで、自分の人生物語を、どのようなナレーション、台本を持って語るかということです。日々起きる様々なことの、どこを注視して一貫性ある物語として紡ぐか。ニュースの映像はそのままでも、ナレーションは編集され語られます。その「要するに私の人生は」を、どのようなものにするかを探すために、先人の教えを学び、良さそうなものを自ら試し、与えられた教えを肉付けしていく。ナラティブと実生活は、お互いを引っ張り共に豊かになっていくものです。
つまり、「煩悩がある」かと自体はまずそのままに、どのようなナラティブを採用するかによってそれらの意味づけを行う。そのナラティブに乗ることで、自らの行動をチューンアップしてゆく。行動変容が起きることが、「救い」に繋がっていくのだろうと思っています。
意味づけするというのは、「仕事が大変」というのを①上司が意地悪で、わたしは恵まれてない、と物語化するのか、②今の私の欠点を教えてくれることだと思って、一旦素直に聞いてみる、といったことです。
坊さんの持っている代表的なナラティブは、「この世を終えたら極楽へ行く」といったものですが、そのナラティブを一旦仮置きして人生を眺めると、どうも物事を納得できる。そのゴールにつながる事を行うと、気持ちが楽になる。そのサイクルでますますナラティブへの信頼が高まる。それが先ほどの「肉付け」です。
ということで、私の思う「大乗の救い」とは、歴史的に実績のあるナラティブと共に生きるということです。
静かにこの自己と内なる想いとの関係性を見つめ本質を見極める。
出家をしなくても維摩居士のように十大弟子をも論破するぐらいの境涯には至れるものです。
大切なのは出家という形をとることより、出家という状況を作ることではないでしょうか。現代の僧侶たちが出家という形をとったとしても批判される僧侶たちは出家の状況・状態になければ、それは出家・出離とは言えませんよね。
それはキリスト教でも言われていることです。
形の上で信者になるということよりも、生き方が正しくなっていかなければ形式だけです。
日本でも結婚式のお誓いだけはキリスト教式で行うと言っても、それまでは信仰も何もないわけですし、その後も別にキリスト教の勉強をするわけでもありません。
大乗仏教、小乗仏教というくくりも、どこの誰を読んで大乗といい小乗というのでしょう。大切なのは大乗小乗という区分けや格差もない❝清浄❞仏教とでも言っておきましょうか。きちんと救われる内容をもった教えである正伝の仏法であるかどうかの追求が大事だと思います。
煩悩とは、現代的に申し上げるならば、自分も苦しめ他人も苦しめるような心理です。エゴや自分中心なものの見方も煩悩と言えましょう。読んで字のごとく、わずらい、悩みというネガティブな心理も煩悩と言えましょう。
煩悩というものは108あるとか数として数えるというよりも、心理というものはどんな心理も一念、一念心なのですから、その時その時に現れる思いというものがまったく人畜無害な思いであれば煩悩とは言えないわけでしょう。
我々の心の中で生じるあらゆる思いというものをよくよく観察いたしますと、その思いというものの発生時点においてはこれが煩悩であるとか雑念であるというラベルはついていません。
まず、ぽんと現れる。
純粋な心理作用です。
仮に寝ている時に見ている夢であっても、それを裁く人がいません。
よって、煩悩を心底滅しようと思うのであれば、坐禅をして心を見つめて、自我、エゴ、わたくし意識の立ち上がる前のトコロに処して、内なる思いそのものをよく見極めて、自心に影響させないようにさせるということが最も近道と言えましょう。
これはあくまでも喩えですが、人間をスマホにたとえるならば、我々には「自分」という無自覚アプリがいつの間にか起動してしまっているのです。そして、その自分の都合をベースに生きている。坐禅、禅定はその「自分」意識以前の本来の自己を見つめる道です。