往生を信じ切ることができそうにありません
ご覧いただきありがとうございます。
数日前から浄土の教えについて学び始めた者です。
先に質問を記載させていただきます。
1. 阿弥陀様や往生を疑う気持ちがわずかでも残っている場合、念仏しても往生できないのでしょうか?
2. 阿弥陀様や往生を疑う気持ちをなくしていくにはどういった心構えや方法があるのでしょうか?
3. もし、この疑う心について掘り下げた聖人の書物やお言葉等がありましたら、ご教示いただけないでしょうか?
以下、経緯等です。
今、法然上人の『選択本願念仏集』を読んでいる途中なのですが、往生するためには三心を具えなければならないと書かれていました。
この点について『一枚起請文』では次のように書かれているようで、疑念を持たずに信じることで自然に具わるとのことでした。
> ただし三心・四修と申もうすことの候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり。
ただ、正直に申し上げますと、本当に心の底から阿弥陀様と往生を一切の疑いなく信じることは、現時点ではできそうにないと思っています。
徹底できるのであれば、それはもはや凡夫ではなく聖人だと思ってしまいます。
初めて真剣に「南無阿弥陀仏」と口にした時は、ふと心が軽くなり涙が出てきたので、阿弥陀様は「いらっしゃるかもしれない」と思えました。
ただ、それも最初だけの出来事ですし、「かもしれない」という程度で留まっていますし、これを確信であると自分を騙すのも無意味だと思われます。
また、念仏も熱心に唱えられるわけでなく、気が向いた時に小声で口にするような怠け者です。
これまで色々な思想を試してみましたが、「本当に素晴らしい考えだけど自分には徹底して行うのは到底無理だ」と挫折し続け、紆余曲折で浄土の教えにたどり着き、希望を持って学び始めました。
ただ、そこでも自分には難しいという現実に直面してしまいました。
『徒然草』には「疑ひながらも、念仏すれば、往生すとも言はれけり」との文があるようですが、これも本当にそう法然上人がおっしゃられたのかは不明で、これまた自分には信じ切ることができません。
自分では何もできないにもかかわらず、かといって何も信じ切ることや頼り切ることができず、どんなことも徹底できない自分が浮き彫りになり、絶望しています。
どうか、ご助力いただけますと幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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今はそうでも大丈夫です。
こんにちは。「数日前から」ということですが、既にこのような心境・このような問いに辿り着かれたというのは、私から見ると素晴らしく短時間であると感じます。
私はお寺の生まれなので、それこそ小さい頃からお念仏には接してきましたが、私なりに「これは本当だな、大丈夫だな」と確信しているのは、多分ここ5年ほどであろうと思います。
最初は、「いわれるがまま」でした。素直なのですが、信じるも疑うもない。
次に、「本当にこれで大丈夫なの?俺ってそんな、”何かにすがらなければならない”存在なの?」という自己への疑問。
それを何度も繰り返しているウチに、今では「南無阿弥陀仏が身についてきたな」と感じますが、既に相当な年月が過ぎ去りました。
「信じる」とか「疑いなく」というのは、言葉にすれば一瞬ですが、それを裏付ける経験はそうとう膨大なのだろうと思います。だって自分の一生の問題なのですから。「南無阿弥陀仏を称える」という行為は同じでも、私たちの状況は一瞬たりとも同じではありません。あなたが既に「ありがたく涙がこぼれた」という経験をされたのは、「その時のあなたの状況」が南無阿弥陀仏を受け入れられる状況にあり、かつ自身に起きたことを素直に認められたからだと思います。
私自身の経験としては、「こんな時にも南無阿弥陀仏、あんな時にも南無阿弥陀仏が有効なのだ」ということを重ねてきて現在に至っております。強烈な状況もありましたし、ほんの軽い状況もありました。その「どれもが南無阿弥陀仏で対応できる」と感じる=信じることができるまでに、かなりの時間を費やしました。
あなたがこれから経験する様々な状況に、「南無阿弥陀仏」を使ってみて下さい。そのことであなたの心の平安が訪れる、前向きになれる、起きている事が分かる…それを積み重ねることで、信心は厚みを増していくと思いますよ。
繰り返しますが、南無阿弥陀仏を「使ってみる」こと。それが私のお勧めです。
一応念仏しておく
https://www.chion-in.or.jp/okotoba/s16/
の法然上人御法語で、妄念は心のお客さんで念仏が主人だということと、阿弥陀様は妄念が起こることを許してくださっているということが読み取れると思います。
このサイトでは妄念を「迷い」と現代語訳していますね。
迷いには疑いも含むと考え、疑いも妄念の一種だと考えてはどうでしょうか。
疑いのお客さんが過ぎ去ったら、南無阿弥陀仏の主人が顔を出す。
本当に全く信心が無いなら二度と南無阿弥陀仏は出ないのではないでしょうか。
疑いながらの口先だけの念仏でもよい、一応念仏しておくかでもよい、南無阿弥陀仏の主人が心にまだおられることを確認する念仏でも良いのではないでしょうか。
また、自らは煩悩まみれの凡夫であり、阿弥陀仏の本願に頼る以外には三悪趣行きを免れる術はないという、消去法的な選択(私なんかを救ってくれる教えは他にない)でも良いのではないでしょうか。
もちろん、どんな悪人でも往生できるからと言って罪を推奨するわけではありません。
できる範囲で善行を行っていれば、仮に往生できなくても悪い結果にはならないでしょう。
ですから、善人を目指しましょう。
善人でも悪人でも念仏すれば往生できます。
念仏往生できてもできなくても善人になれば良い結果になります。
一応念仏、一応善行、そんな凡夫でも阿弥陀仏はきっと救ってくださると思います。
全国の浄土宗と浄土真宗のお坊さんは、あなたの仲間です。
合掌 十念
質問者からのお礼
>> 願誉浄史 様
ご回答いただき誠にありがとうございます。
「世間の客と主のごとし」というのは腑に落ちました。まさしくその通りです。
私は凡夫ゆえに、今は過ぎ去ったように思えても、きっとまた疑いや迷いがやってくると思われますが、
念仏が主人であるということは忘れないように、自分のできる範囲で善きことをしていきます。
>> 佐藤良文 様
ご回答いただき誠にありがとうございます。
南無阿弥陀仏を使ってみるという発想は目から鱗でした。
ご回答いただいた後、改めて考えてみると、一生ものの念仏なのに、たった数日で何を絶望していたのかと思われます。
今後は南無阿弥陀仏の積み重ねを大事に過ごしていくようにします。