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虐待

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私はもうすぐ2才になる息子の母親です。
少し話を聞いてもらいたくて投稿します。

結論から言えば、子供の虐待のニュースを見るのが辛いです。
私が学生の頃「itと呼ばれた子」という虐待の子本を読みました。
そのときは可哀想やなって思うくらいでそこまで感情移入することもなかったし、虐待のニュースを見ても特に何も思うことはありませんでした。
親にも私が人に関心がなさすぎると言われたこともあり、きっと私自身冷めていたんだと思います。

それが子供が産まれてから一変し、虐待のニュースを見る度に胸が苦しくなり、気持ちも沈んでしまって、考えるだけでも辛くなりました。
特に息子と同じ年頃の子のニュースを見ると、どうしてもシンクロしてしまい、思わず泣いてしまうこともありました。
最近は虐待のニュースが流れるとチャンネルを変えるようにしていますが、やはり虐待があると知るだけでも辛い気持ちになります。

余談かもしれませんが、私は介護の仕事をしています。
高齢者施設での殺人事件があってから更に虐待に関して利用者家族の目が厳しくなったこともあり、職場でも虐待防止に力を入れていて研修もこまめにしています。
そのせいもあってか、息子がぐずったりイヤイヤをしたりで泣いていてどうしても手がつけられないときは少し離れて見守っているんですが、それさえも虐待ではないかと過敏になっている自分もいます。

こうやって思ってることを文章にすると客観的に自分を見れて冷静になれるというか、考えすぎなのだと自分を納得させられるんですが、その場に直面するとまだまだ過敏に反応してしまいます。

旦那に話をしましたがあまり理解を得られずでした。
産前ではなかった感情なので戸惑いもあります。
やっぱり私がおかしいんでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

距離を持つ やさしさを行ずる

自分のことにするべきことではないものもあるのです。
心はその事に近づきすぎると影響を強く受けます。
何でもかんでも完全シンクロし過ぎると堀北真希ちゃんになってしまい気絶してしまいます。
川の上からドンブラコドンブラコといろんなものが流れてきます。
あなたはそれを全部拾わなくていいのです。
スルーすべきものはスルーする。
それがあなたの心の精神衛生を保つためのありようです。
すべての人間は「ワタクシする」「わたくし視する」癖があります。
そのクセを取り除くことです。
何でもかんでも我が事にしないこと。何でもかんでもシンクロ、同情しなくていいのです。
虐待はあってはならないことです。
本当にかわいそうでなりません。
私にも子供がいますから、お気持ちは本当によくわかります。
ニュースの報道も品がないと感じています。
どんな風虐待したかにばかり時間をかけるより、今後どうすればそういうことがなくせるかの議論討論呼びかけにこそ時間をかけるべきです。
情報は、その情報を受けて、より良く昇華させ、転ずることです。
その情報を正しく見極めるためにも、まず、距離を持つ。その上で、私たちが直接的に出来ることがあれば働きかける。ニュースというものは氷山の一角です。どういう訳か他にもニュース沙汰にならない事件があるのに、情報が偏ります。私たちができることは、まず目の前の相手、隣の人へのやさしさ、愛です。やさしさの行いをを広めていじめられている人、イジメる人にも届けることを活動の一つと致しましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

今の貴女は仏の道を歩き出しているのです。

四馬(しめ)というお話で、「無常観」を四つに分けてそれぞれの人の心の仏を求める時を現しています。
第一の馬は、鞭(むち)の影を見ただけで、意を察して走りだす馬である。これは他村の知らない人が死んだのを見て、自分もいずれ必ず死を迎えなくてはいけないと思い、たちまち無常を観じて仏道を求める人のことである。

第二の馬は、鞭が毛に触れただけで走りだす馬である。これは自分の村の知人が死んだのを見て、死を実感し無常を観じて仏道を求める人のことである。

第三の馬は、鞭が皮や肉に当たって走りだす馬である。これは自分の親兄弟や妻子の死に出合って、死を実感し無常を観じて仏道を求める人のことである。

第四の馬は、鞭が骨に徹して走りだす馬である。これは自分自身の老病死の苦しみに出合って、死を実感し無常を観じて仏道を求める人のことである。

この四頭の馬に例えて無常観を説いてあり全ての人に当てはまります。

昔の貴女は第四の馬です。今の貴女は第一の馬です。

どれが正しいと言う事はありません。
心の向き方、人の事が分かる人、痛みが分かる人になれたのが今の貴女が第一の馬です。

人の心は真実に向かって行く事が仏の道を辿る事です。そこには善行が備わり徳を頂ます。

今の貴女は仏の道を歩き出しているのです。

逃げる事無く、自信を持って正面から捉えれば本当の自分が必ず見えてきます。

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質問者からのお礼

山口秀徹様
お返事ありがとうございます。
四馬…初めて聞きました。
が、とてもわかり易く、ほっとするというか、私の感情がおかしくなかったと安心しました。
自分を否定せず、ありのままでいようと思います。

丹下覚元様
お返事ありがとうございます。
おっしゃる通りで、なんでも自分のことのように受け止めていました。
それは自分でも意図していなくてもやもやしていました。
まずは身近な人たちに優しくできるような人になりたいです。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ