自殺するとき恐怖や迷いに負けない方法は?
半年後に自殺するつもりです。この考えを変えるつもりはありません。
「〇〇に相談してみて」というようなアドバイスも、あらゆるところで聞き飽きました。すでに医療にはかかっています。なのでそれはもとめていません。
自殺するとき、生への執着や恐怖に惑わされずきちんと終わらせるために、仏教の死生観を知りたい。
自殺を止めようとする考えについては求めていません。
お坊さんからの回答 9件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
半年間の過ごし方
お釈迦様は自殺について否定も肯定もしていません。
たぶん、当時のインドには人生に悩んで自殺するような人はほとんどいなかったのでしょう。
あなたが死後にどうなるかですが、お釈迦様の教えに従えば、あなたがこれまで人の幸せのために尽くす人生を送ってきたなら、天国にいけるでしょう。
逆に、人に迷惑ばかりをかける人生を送ってきたら、そうなりません。
残り半年間、小さなことでいいので、毎日善行を心掛けてみてください。
そうすれば、人にとって何が本当の幸せであるかにも、きっと気付くことでしょう。
朝、体の調子が悪くて、トイレで苦しんでいるとそこに世界地図が貼ってあっていつも自分のこの世界での小ささを感じます。俺一人が死んだところでこの世界ホント何でもねーやって思うんです。
死にたいとか、半年後に死のうとか言うのって、体の方じゃないんですよね。
人間のエゴはこの元々無我な働きをするきよらかな身心に巣食う、乗っ取り屋。なりすましみたいなはたらきをするクソショーモナイエゴってのが時々沸くんっスよね。
子供の頃はそんなことはなかった。
でも、嫌な事、ふざけんなよ!っておもうこと、冗談じゃねぇよって思うこと、やってらんねぇよって思うことが重なると、意識がエヴァ暴走。多分、それも自己防衛の心理の一つだと思います。自分を守ろうとする意識は誰にでもあります。
ところが、本当に人間世界のクソおぞましい、どうしようもない事に遭遇して、それを直視できないままアレルギー逃避反応みたいなものが内側から生ずると、鬱な心理でどんどんヤサグレていくんです。私はそういう時期がありましたが、ロックギターでその表現のしようのない心をGAIN高めで表現したら何か見えてきたものがあります。正直に生きればイイ。
一つ、人間は自分の生まれた狭い環境しか知らねぇということ。
一つ、きれいごと抜きに人間は発展途上で誰もが不完全。せいぜい現役生活5,60年。クソショーモナイエゴをずっと優先選択している人は神も仏も救いようがない。エゴイズムという宗教。
一つ、それでも地球は動いているみたいに、それでも世界は俺のエゴとはまるで無関係で無我なるさまをしていた。
一つ、その無我なさまとは体の活動の9割が無我だから、オレが死のうとか、オレがこうしてやろうとか、オレが思うにはこうだ、なんてものは一念だったということ。そのエゴ、ウソ、自分中心のクソ小さなショーモナイエゴの一念が自分を苦しめていたということ。そして、そのエゴの正体は、それもわが身可愛がりの心理の一種だったってことです。
そして、そのしょうもないエゴを滅する方法があった。坐禅=静慮。滅してみると俺という裁く者、判定員、カネもらって番組の台本通りのことを言わされているコメンテーター、ゲストみてぇな脳内のおしゃべりなアタシが脳内スタジオ内から排除される。
すると、世界はさっきまで思っていたあたしの勝手なダークなビジョンより輝かしいものとなったぜよ。ぜひお試しあれ。
仏教は、
釈迦から始まった教えではありますが、
その教えもまた、
受け継がれ、
解釈され、
時代や人によって変化し続けています。
つまり仏教そのものも、
“無常の中にある”
のですね。
だからこそ、
宗派が生まれ、
思想が枝分かれし、
今なお、様々な形で語られ続けている。
そう考えると、
釈迦が本当に悟った内容は、
実はとてもシンプルだったのではないか、
とも感じます。
人は、「生まれたから生きる。」
そして、
生きているから、
老い、
病み、
別れ、が生まれ。
やがて死んでいく。
それを、
良い悪いではなく、
“世界の流れ(理)”
として見つめたのかもしれません。
私たちは、「自分の人生」と思っていますが、
仏教では、
身体も、
感情も、
出会いも、
環境も、
すべて因縁によって生まれていると見る。
つまり、 “私という存在も、
世界の流れの一部”ととらえるわけです。
ですから、
「自分の力だけで生きている」
わけでも、
「自分の意志だけで死ぬ」
わけでもない。
世界の因果の中で生まれ、
世界の因果の中で死んでいく。
釈迦は、
その流れに逆らうのではなく、
“その流れを、そのまま見つめた”のかなと
感じています。
釈迦の悟りとは、
特別な力を得ることではなく、
「苦しみも、変化も、生死も、流れの中にある」
に気が付いただけなのかもしれません。
昨日の自分と今日の自分も、
完全に同じではない。
細胞も、
感情も、
考え方も、
常に変化している。
つまり人は、
“生きながら変わり、続け
生きながら少しずつ死んでいる”
ということです。
釈迦は、
信者が供養した食事を受け、
入滅へ向かった。
始まりも、
終わりも、
“誰かから与えられた食”
が起点となっているんです。
つまり釈迦は、
“因縁によって生かされ、因縁の中で死へ向かった”
とも読める。
仏教の死生観は、
“苦しみを生み出している『私』への執着”
を、静かに見つめ続ける道なのかもしれませんね。
これは、あくまでも私の考えであります。
阿秀さんの死生観や今までの人生はどのようなものでありましたか?
自分を一つの独立した存在と認識されたら間違いです。
貴方がとてもお辛い状況にあるのかもしれませんね。
我々は1人ひとり、べつべつな全く隔たった存在として感じておられるのでしたら、
少し違うのです。
魂は皆根っこで繋がっています。
全ての存在が繋がっています。
なので、もし自死されたら遺族の悲しみや苦しみがダイレクトにあなたを襲うと思われます。
そして、輪廻転生という言葉をご存知でしょうか?
あなたの人生で中途半端に解消できなかった因果を生まれ変わった来世でその分をさらに背負うことになります。
つまり、今より辛い環境に生まれてシンドイ人生を送ることになるやもしれません。
死後のいろいろな苦しみはご遺族が誠意を持って供養することで軽減されますが。
自死は自分だけを殺すだけではなく、遺族や周りの人の人生もめちゃくちゃにしてしまうことも認識されてくださいね。
hasnohaの自死された遺族の相談文が読めると思いますから、読んでみてください。
念仏すれば極楽浄土に往生できる
浄土宗では、南無阿弥陀仏と念仏を唱えて極楽浄土に往生したいと願う者には、その人の臨終時に阿弥陀仏が迎えに来てくれ、極楽浄土に往生させてもらえると説きます。
臨終に阿弥陀仏が来迎されることで、その人の心は三昧(精神統一状態)になり、断末摩の苦しみは無くなり、安らかな心で臨終を迎えられます。
極楽浄土は、悟りやすい環境が整っており、私達は必ず悟れる(成仏できる)のです。
そして、悟れば煩悩(悩み苦しみの原因)がなくなるので、苦悩から解放されるのです。
その他にも、阿弥陀様の誓いの力(本願力)によって、極楽浄土では様々な神通力を与えられたりしますが、省略します。
とにかく、
なむあみだぶなむあみだぶ
なむあみだぶなむあみだぶ
と、あなたのお好みのテンポて念仏すること。
今・ここの1回の念仏が臨終の最後の念仏になるかもしれないと思って念仏すること。
結果的に生きながらえて念仏の数がふえれば、念仏の功徳(修行効果)によって極楽浄土での悟りが早まるので、短命でも長生きでもどちらでも問題ないことを意識しましょう。
また、例えば、お金があってもなくても念仏すれば往生できる、病死でも自死でも念仏すれば往生できる等、
「AでもAじゃなくても念仏すれば往生できます(だから平気へっちゃら大丈夫)」
という人生観まで意識を拡げてみましょう。
合掌
なむあみだぶなむあみだぶ
なむあみだぶなむあみだぶ
なお、念仏は脳のリズム運動なので、ある程度の時間連続で唱えれば、セロトニン神経のはたらきを整え「うつ」予防に寄与する可能性もあると思います。
追記
無常・苦・無我を悟る方法としては、五戒を守り、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想を実践する必要があります。
基本的な仏教知識があるなら、あとは実践あるのみです。
実は、南無阿弥陀仏の念仏はサマタ瞑想の一種でもあります。
追記
悟ってエゴ(煩悩)が消えれば、死ぬのも怖くなくなるはずです。
また、阿弥陀様の力で臨終時に三昧(精神集中状態)になれば、やはり死ぬのも怖くなくなるはずです。
「執着や恐怖に惑わされない」は、現実には極めて困難なことです
余ほどの理由があって、半年後に自らを終わらせる決断をされたのですね。
仏教の死生観から「生への執着や恐怖に惑わされずきちんと終わらせる方法」を知りたいとのことですが、実は仏教の開祖であるお釈迦様は「死後の世界」について明確には説かれませんでした。ですので「死後はこうなる」と断言することはできませんし、僧侶である私自身も「死への恐怖」は持ち合わせております。
「執着や恐怖に惑わされない」ことも「きちんと終わらせる」ことも、現実には極めて困難なことです。なぜなら、仏教において「執着を手放す」という実践は、死によって為されるものではなく、「生きているからこそ」取り組める修行だからです。命を断つことで恐怖を乗り越えられるわけではありません。
あなたは「半年後」という期限を設けられました。その半年間をどうか、仏教を深く学び、執着や恐怖の正体と向き合う時間に充ててみませんか。生きながらにして死生観を思索し、「命の尊さ」について見つめ直すこの期間が、あなたにとって意味深いものとなることを願っております。
拝
縁起寺 釋聴法
迷いや執着を手放すこと
拝読させて頂きました。
あなたはもう半年後に自殺なさろうとお決めなさっておられるのですね。詳細なあなたのことはわからないですが、あなたがそのように思っておられることを心から尊重させて頂きます。お気持ち心よりお察しします。
仏教的な私達のあり様は「一切皆苦」です。
そして仏教的な真理は「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」です。
あなたがおっしゃっておられるように迷いや執着を手放すというか解放されるということです。
あなたがもしもそのように思っておられるのであれば、これからの半年間で「生きること」「死ぬこと」や仏教的な死生観を学んでみてはいかがでしょう。
聖道門と浄土門では大きく死生観も教えも変わります、そして生き方も大きく変わっています。
あなたが目指そうと思っている概念を様々なお釈迦様の生き方や経典や宗祖の考え方や生き方の中であなたなりの視点で学んでみてはいかがでしょう。
この半年間はあなたの人生にとってかけがえのない大切な時間となるでしょう。
あなたがこれからの未来に智慧を学んで迷いや執着を手放し、心豊かに覚りの道を歩んでいかれますように心より仏様にお祈りさせて頂きます。
ご質問ありがとうございます。
仏教の死生観といってもお釈迦様は対機説法でいろんな話をされましたし、その後に生まれた各宗派によってもいろんな教義や解釈がありますので、これと決まって断定できるものではないと思います。ですのでいくつか思い出した死生観に関連するお釈迦さまやお坊さんの言葉をお伝えさせてもらいます。
<お釈迦様の言葉より>
・「生きる」とは何らかの努力をすること。何も努力していないことを「死んでいる」という。
・あの世があるか無いか?私のもとで瞑想の修行をすればおのずと分かります。まだ来ない未来を妄想せず、すでに去った過去に囚われず、今に意識することが大切です。
・草木はいろんな形、いろんな高さ、いろんな花、いろんな環境があっても決して他の草木と自分を比べたりせず、ただ今この瞬間を懸命に生きている。人間もそうあるべきです。
・誰だって自分が一番大切。自分を大切にする方法は周りの人を大切にすること情けは人の為ならず。人にした善行は回りまわって自分に返ってきます。
・現世で良いことをすれば現世も来世も楽になる。現世で悪いことをすれば現世も来世も苦になる。
・百万人の敵に勝つことが勝利ではない。自分一人に勝つことが勝利である。
<お坊さんの言葉より>
・仏教は楽に死ぬための教えではなく、楽に生きるための教え。
・人間はみな108の煩悩に病んだ病人である。そしてお釈迦様はその医者である。
・死にたいという欲も人間が誰でも持っている煩悩のひとつ。死にたいという煩悩だけ抑えることはできない。他の煩悩も同時並行して抑えないといけない。
・煩悩の中で一番の煩悩は「無明」です。無明とは今目の前の物事を妄想や思い出に影響されて正しく見ることができないことです。
・ストレスのない生き方をするためには今自分がやっていることに集中することが大切。スマホ見ながらテレビ見たり、スマホ見ながらご飯食べたり、音楽聞きながら本を読んだり、音楽聞きながら散歩したりするのは良くない。テレビを見るときはテレビに集中して思いっきり楽しむ、食事の時は味を思いっきり楽しむ、「ながら」を止めて集中することが自分の心身に優しくストレスを溜めない。
・自分が死ぬことを妄想するより、人助けしていることを妄想する方がいい。
以上
他にも無数にあるので気が向いたら仏教関連の本を読んでみてくださいね。
自殺という行動も、生への執着や恐怖に惑わされた結果と考えます
仏教の考え方では、すべての事物・現象は、因縁によって生じます。
ひとりの個人の中で見た場合、その根本原因は無知や迷い(無明と呼ばれます)であり、それが身体機能を通じて段階的に具象化して行きます(十二支縁起として知られます)。その過程で個人の中には渇愛と執着が生じ、その時点時点での生命の有り様(業)が生じます。
完全な仏の智慧を得て悟りを開いた場合(無明を解決した場合)を除き、どのような意志も行動も、この渇愛と執着から生じると考えられます。この根本原因である無明を解決しない限り、たとえ今生の生命が尽きても業は残り、次の生命に相続されます。野球のリーグ戦の2回戦に続いて3回戦が始まるようなものです。
このように考えると、自殺という行動も当然、渇愛と執着から生じるのであり、いってみれば、「生への執着や恐怖に惑わされ」た結果に他なりません。今生の生命を終息させることが何かの解決や完成であるという、間違った考え方(無明)に囚われていると考えます。実際には、1回戦、2回戦に続いて、リーグ戦はまだまだこれからということです。
日本曹洞宗の開祖である道元禅師は「生とは何か、死とは何かを明らかにすることは、仏弟子として一番大切な取り組むべき課題だ。生死を仏の智慧によって観察し仏の智慧によって生きるならば、生死についての自分勝手な妄想はなくなるだろう。ただ生死を全うすることが仏の智慧の完成への道程だと心得て、生死だからといってむやみに嫌うことはなく、仏の智慧の完成への道程だからといって(今生でなんとしても決着してやろうと)むやみに願うのでもない。このように考える時、はじめて生死への妄執を離れることができる。ただ、今生の生命を一番大切な取り組むべき課題として極め尽くすのだ」と教えられています。
質問者からのお礼
法然・親鸞による浄土宗・浄土真宗の考え方(他力本願・『歎異抄』・悪人正機程度ですが)については人並みの知識があるので、もっと根源的に仏教が生と死そのものを見つめているのかという「死生観」の深淵を知りたかったです。特に生死の境界と因縁や「自分」という存在と「無我」についてなど。
お返事いただいたにも関わらず大変申し訳ないのですが、上記が素直な気持ちです。
正直まったくわからなかったけど、エゴを消せば死にたいと思わなくなると言っておられるんですよね。そうすれば世界はもっとシンプルで生きやすい場所に変わると。
私が自殺を引き留めるような内容は求めていないと書いたのは、どこで誰に相談しても「一人で悩まないで」「相談窓口や医療機関がある」と引き留める返答しか返ってこなかったから。それに絶望したからです。
これ以上はなにもいうことはありません



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