人の悩みって
悩みごとって常にありますよね。今も悩んでいたり、うまくいかないことに苛立ちを感じたり、ストレスで胃が痛くなったりすることもあります。
でもよく考えてみると、5年前に自分が悩んでいたことって今思うと大したことないというか、たとえば当時すごい合わない上司がいて、そんな上司を評価する会社が毎日嫌で仕方なかったけど、今思うとそんなの見返してやるか、会社辞めれば済むだけの話で胃が痛くなるほど何か悩むことだっけ?と思ったりします。
結局人の悩みってなんなのでしょうね?
それがわかれば今悩んでることも、大したことないように思える気がしますが、わからないから悩んでるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「自分にとって」というアプリを心から削除
悩みをなくす、ストレスをなくすにはまず、人間の思いの性質を知ることです。
念とは、〈今の心〉と記しますように、どんな思いも108の煩悩も、その時その場、その状況下だけ。
たった、今、そこでしか“鳴らない”ものなのです。
さっきまで考えておられた思いは、鐘の音のように、そこで鳴って、そこで尽きているはずです。今は頭の中で別の音を鳴らしておいででしょう。
もちろん、鐘を鳴らし直すように、さっきの嫌なことを思い返すことはできます。
思いは無限に、沸き起こるものです。様々な種類がありますが、あなた自身を苦しめる思いだけが、あなたにとって問題になっておられるのです。
その証拠に朝から晩まで何百、何千の思いの鐘が打ち鳴らされても全く問題になっておられなかった思いもおありだったはずでしょう。
良かったことは、順風な事ならば、さほど問題にならないものです。
貴師にとっての悩み、ストレスとは、とどのつまり、
悪かったこと、嫌なこと、思い通りにならなかったことなどで苦しまれたことをさしておられるのではないでしょうか。
人間は、出来事に対して、あるヒトこと、一つコトを忘れてしまうものです。
それは「自分にとって」「自分にとって都合が」ということです。
「良かった、うまく行った、あの人はいい人だ」というケースも自分にとって都合が良かった、という程度のものもあります。
悪かった、あいつは悪いやつだ、というのも自分にとって都合が、ということが忘れ去られていることなどよくあるものです。
この「自分にとって」という、アプリを愛用しているうちは、苦しみは当然オプションとして付随してくるものなのです。
この「自分にとって」という前提条件を外してものをみる、
この「自分にとって」というアプリを削除して人に接するスタンスを身につけてみてください。
悩みは半減はおろか、9割以上無くなりましょう。
そもそも、悩みというものは自分を中心にしたものの考え、自分を身びいきした、ものの見方より生まれるものだからなのです。
「自分にとって」というものの見方、
「自分にとって」というアプリは、定期的に削除しなければなりません。
何をするにしても、オールウェイズ Without 「自分にとって 」ヴィジョン、ですヨ。
ご精進くださいませ!
丹下覚元 九拝
悩みはなくすものでなく、整えるものです。
hiroさんこんにちは、日蓮宗の赤澤と申します。
確かに、悩みってなんなのでしょうね。昨日の私と今日の私が違うように、同じ悩みでも一日経つと中身が少しかわるような気がします。悩みもわたしたちの身体の中のことですから、呼吸をし、生きているのでしょう。
仏教では私達の心身を悩ます好ましくない心の現象を「煩悩」といいます。
人間は生きている限り、煩悩がなくなることはありません。無くせないものを無くそうとするのも、これもまた煩悩だからです。
煩悩は無くなるものではありませんが、教えを聞いて整理や整頓はできるものです。無限の煩悩がいっせいに起きるものではありません。煩悩が起きたら、そつ都度1つずつ煩悩を教えに従って調教していくところが大切です。煩悩を整える、悩みを整えるというふうにお考えになったらいかがでしょうか。
私は娘に「庭の草は取っても取っても生えてくる。庭をきれいにするには、目のついた草はすぐに除くこと。すると庭にはいつも草がない」と教えます。
心の草は抜いて捨てるのではなく、そのまま心田の肥料にしましょう。
草取りはくさとりであり、苦悟りです。苦を抜けば悟りが残るように、心の草を1本除くことが仏さまの教えです。
「煩悩」も「空」であり、「縁起」なるもの
hiro 様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。
悩み煩い、つまり、「煩悩」につきましては、下記の問いにおきまして少し扱わせて頂きました。
問い「世の中で一番醜い事は」
http://hasunoha.jp/questions/66
更にここにて補足をさせて頂きますと、「煩悩」はいつまでも「ある」と言えるものではなく、色々と変化していくもの、つまり、「煩悩」にも実体は無く、「空」であり、様々な条件や原因・因縁、つまり、「縁起」にて一応あると言えるものとなります。当然に無くすこともできるものとなります。
その原因としては、無明(根本的な無知)や悪業、悪業の習気(じっけ)などが考えられます。
もう少しその原因を詳しく述べさせて頂きますと、「真実執着・真実把握、迷乱知・顛倒知、染汚の無明、不染汚の無明、倶生の諦執」などと言ったものとなりますが、まとめて簡単には、モノ・コトの実体視による執着、我執(自我への執着)や法執(自我以外における全ての存在に対しての実体視執着)が原因として、様々な「煩悩」が生じて、その煩悩に縁っての行為(身・口・意による)が、心(相続上)に悪業として集積・熟成、相続されてゆき、後に悪い結果を生じさせてしまうこととなるわけであります。悪因苦果、因果応報というものであります。
「煩悩」は、実体としてあるものではなく、様々な「縁」によって、例えば、善徳の実践として、戒律を守って、道徳的・倫理的に品格を保って過ごすこと、その代表としては十善行(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)があります。あるいは、慈悲・利他行などの実践、また、瞑想や坐禅などの禅定の実践、更に、智慧の開発(かいほつ)などによって、煩悩を抑え込んで、また出てこなくすることやその原因を完全に断つことで煩悩を無くすことも可能になる次第でございます。
上記のことは、煩悩を対治して悟りを目指していくためには、つまり、仏教における戒・定・慧の三学を進めていく必要があるということと言えますでしょう。
赤澤貞槙様の「草取りは、苦悟り、苦を抜けば悟りが残る」のお言葉は、誠にわかりやすい表現でありますね。日々油断せずに根こそぎに苦の原因を抜き取って参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
“悩み”とは「個性」です
hiroさん、こんにちは。
たしかに悩みごとって常にありますよね。常時そのへんに、ころがっています。。
さて、“悩み”とは「個性」です、とタイトルにしましたが・・。
正確にいうと、悩みによって生じる気持ち・行動とか、悩みの生じる前後の状況。それら全てが、その人の「個性」と言っていいんじゃないかな、と思っています。
たとえば・・・
あんな上司を評価する会社。自分の方がもっと優秀だし!まー会社なんて辞めてしまえば済んでしまう問題だよね!でも辞めたら食っていけない、仕方ない、コンチキショー見返してやるぜ!なんで頑張ってる俺を誰もほめてくんないの?はーアホらしいこの世の中。
・・・などなど。
自分と関係ないところで起きている状況を「あなたの個性」と言われても、ピンとこないかもしれません。
でも、いまのあなたがいるのって、自分と関係ないところで起きている状況が影響していると思いませんか?
どんなことを考えているか、考えてしまうか、思ってしまうか、行動や思考ににじみでるもの・・だけが個性なら、自分でどうにでもなるかもしれません。
でも、自分だけではどうにもならないこと。それが、いわゆる“悩み”であり、「あなたの個性」だと考えてみたら・・・?
そう簡単には悩みを解決できないということ、お分かりいただけるのではないでしょうか。
ただ・・・、いやーな“個性”は避けておきたいところですよね。そんなときは、赤澤貞槙様の「草取りは、苦悟り、苦を抜けば悟りが残る」のお言葉の出番です。
でも、苦もあなたの“個性”だと思います。
(あ、ちなみに苦労と苦は違います。買ってでも苦労はするべきだとは、ぼくは思いません。)
悩むことは大切
hiro様へ
人の悩みとは本来そういうものであると思います。
しかしその悩むという行為がものすごく大切なことなのです。
そして、その悩むという行為の中で
ようやく自分で出した答えをぜひとも大切にしていただきたいと思います。
それが次へのステップへつながっていきます。
おそらくその後、また違う悩みが出てきます。
そして、考え、自分で答えを出し、進んでいく。
人はその繰り返しで自然と成長していくのではないでしょうか。
合掌
質問者からのお礼
みなさま、いろいろなご回答アドバイスありがとうございます。悩みは個性、簡単に消えないもの。自分にとっての都合を中心にみるといやな部分ばかりが目に映る。すべて思い当るところはあります。
アプリを削除して草取りして精進していきたいと思います。