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人生に飽きました

回答数回答 5
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 はじめまして、30代半ばの男です。
現在、定職にも就き恋人も友達も普通におります(結婚は考えてません)
とりわけ恵まれない環境ではないとは思いますが、人生に飽きがきました。
 
 うまくいえませんが「絶望」ではなく「飽き」です。年齢的に人間としてもオスとしてもピークは過ぎて一番楽しい時期は過ぎてしまいました。
 残りの人生上手に生きて、上手に老後を過ごして、上手に死ぬしかないのでしょうか。

 自分なりの分析としては。
若いとき比較的恵まれていました、恋愛や遊びを人の何倍も楽しんだし、
「やりたいこと」はありますが「やりのこしたこと」はないです。
奥さんも子供もいないので自分が護るべきものもありませんし、今後死への足かせになる結婚を積極的にしたいとは思いません。

 今は両親が健在なので、しっかり最期まで介護をしようと気持ちがありますが2人を送り出した後、本当に生きる意味を失ってしまうのではないかと思います。

 一番いい時期を過ぎてしまったなら、数十年後に死ぬのも明日死ぬのもさほど変わりないように思えてなりません。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分のことしかやってなけりゃ飽きますわい

ちょいと甘辛く申し上げますが、おそらく自分のことしかやってこなかったのではないでしょうか。
何をなされるにしても自分を利益し満たそうとする為にやってこられたのではないでしょうか。
勿論ご自覚はあまりなかったであろうと思います。
自利、我利、利己。
人間、生命の欲求そのまま忠実に生きようとすると、知らず知らずのうちに、無自覚ながら虚しさが沸くのです。
あなたの虚しさはあなたが人間であることの証です。吾我的な生き方を止めよというSOS信号です。我欲にまみれた生き方はどうしても非宗教的、非人間的=動物的になる。だからより高く生きようとする宗教心が必要になる。
より良い人間性の希求です。天然の菩提心と言えましょう。お釈迦様もお若い頃はお坊ちゃん、王子サマだったから恵まれ過ぎていて自分で手に入れることが何もなく虚しかったのです。
人と関わっていくにしても、どこかしら何かを失うような恐れがあるのでしょう。
ご自身の理想が先に立ってしまっている。
事実の方から学ぶ姿勢ではなく、自分の理想とたがうことで冷めているだけ。
自分が虚しい、虚しいと言っておられる、その5センチ奥の深い所に、あなたが向き合っていない恐れや不安も不満足があるのではないですか?
他人に理解されなかった自分であったり、
どことなく他人と距離を置いて付き合っている自分、
親に抑圧されている自分、
何かに傷ついた自分…、何が当てはまるかはわかりませんがご自身が一番よく知っておられると思います。仏教の布教とか利他というのは絵空事でも理想でもありません。
生き方を深めていけば遅かれ早かれ自然にそうなるのです。
相手を喜ばせる生き方、相手に喜んでいただける生き方というものがあります。
おのれを利益するのではなく、他者を利益する生き方、他者の為にお役に立てるという生き方があります。あなたの再出発はこのご質問です。
あなたの質問に共感された方がこれを読まれ誰かの「有り難し」が加算されていくことと思います。
小さな一歩ではありますが、そこから大きな方向転換ができるはずです。
経験を活かして人のお役に立つ生き方をなさってください。
より良く生きる、より良い自分になる。
そのためにも菩提心、求道心を起こして本当に満足のいく人生を見出してみてください。

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なにかを減らして生きる

満たされているという思いは大切です。
しかしいつまでも満たされていたらどうなるか、
わたしみたいに肥満になってしまいます。。。。。。。。orz

わたしが最近努めているのは、「ひとつを減らしていきる」
ということ。
なにか自分にとって大事なことを抜く。
わたしはだいすきなおやつと、テレビ、ビデオなどをみない
という生活をしています。減らせるものはドンドン減らしています。
すると、たちまち不便になります。

実はしばらくネット環境も減らしておりました。
不便極まりなかったです!!

でもおかげでじぶんにとってなにが大切なものなのかが
わかった気がしました。
それは、自分でしか見つけられないものです。
わたしの大切なものとあなたの大切なものは全然違うはずですから。
ちなみにお金とかではなかったです(よかった。坊さんとして、それでよかった)

御家族みなさまをお大事にされ、あなたの御人生が
ゆたかでありますように、願っております。
幸あれ。幸あれ。
合掌

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一番いい時期はいつでしょう?

ytさん、ご質問ありがとうございます。

「やりのこしたこと」はない、とおっしゃるのは、むしろ私にはうらやましく感じられます。

でも、「やりたいこと」はあるのですよね。

人間には、「飽きる」という気持ちが確かにあります。

生きていても代わり映えがしない、という思いなのでしょう。

古語では「飽く」とは、「充分に思う・満足する」という思いに使われる言葉です。

「充分」「満足」と思うことが常態になると、「飽きる」となったのでしょうね。

人間は、関係性の中で生きています。

今とは別の関係性があれば、また、飽きていない人生も見えてくるのではないでしょうか?

少し違う視点から、いろいろと見つめてみてください。

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真宗山元派上西山正善寺住職
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一番楽しい時期はどうやって知ったのですか?

一番楽しい時期はどうやって知ったのですか?
それはあなたの思い込みかもしれません。
死ぬ間際になって初めてわかるのではないでしょうか?
もし、奥さんやお子さんが出来て家族といるのが一番楽しい時期になるかもしれません。
この世の先は仏様しかわからないのです。

先のことや過去のことを考えるのではなく
今の自分をもう一度見つめてみてはいかがでしょうか?

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ぼくが生きる今日はもっと生きたかった誰かの明日かもしれない

yt様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

まず、実は仏教的には、生も死もございません。つまり、不生不死です。それは、般若心経にもございますように「不生不滅」のことになりますが、「不生不滅」に関しましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いておりますので、是非、ご参照下さい。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/不生不滅

そして、是非、般若心経の説く「不生不滅」、あるいは、龍樹大師が「中論」冒頭で説かれている「八不」(不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去)とは、一体どのような内容であるのか、是非、お考えを頂けましたらと存じております。

それと、「生きる意味」につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いておりますが、実は「生きる意味も無い」のでございます。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/生きる意味

ただ、ここで、誤解を招かないように補足致しますと、上記のことはカッコ書きが必要で、それぞれ、「(実体としての)生、死は無い」、「(実体としての)生きる意味は無い」ということで、「(縁起としての)生、死は有る」、「(縁起としての)生きる意味は有る」となります。

是非、この相違を考えることから仏教を学んで頂けましたら、飽きることなく死生観を探求できるのではないかとは存じております。

一日一日、同じ瞬間の二度とないこの無常なる世界、新しい毎日、瞬間をできるだけ精一杯に悔いなく過ごして参りたいものでございます。

かりゆし58「オワリはじまり」
http://www.youtube.com/watch?v=iOh6Sy7dXTo&list=RDiOh6Sy7dXTo#t=61

最後に、かりゆし58「さよなら」 の歌詞の一節も引用させて頂きます。

「ぼくが生きる今日はもっと生きたかった誰かの明日かもしれない」

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

 皆様、お忙しい中。貴重な意見やヒントを頂いて本当にありがとうございます。

ただ、私自身まだ答えはなかなか出ないような気がします。
 やはり根本にあるのは。本来の動物としての体力のピークが過ぎ、低下しそれに伴い気力も落ち着いてきました。ここから先は社会性・経験・知識などを上手く取り入れながら「出来る範囲で、それなりに、尻つぼみに、、」に生きていく時間が長くあるなぁという思いです。

 私は飢えも戦争も知りませんし、医術や栄養のおかげで本来の「動物人間」としての寿命をはるかに長く引き伸ばして生きていま。平均寿命が短かった頃はこんな悩みはなかったかもしれませんが私なりにとりあえず親を見送るまでになんとか答えを見つけようと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ