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己の中道がわかりかねます。

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仕事や資格の試験で自分を追い込んだらしく、精神疾患を患ってしまいました。
何事も程々にと言いますが、程々にの程度がわかりかねます。自分で見極めることに難儀しております。
お釈迦様のように苦行をすれば中道は見えてくるのでしょうか?お坊様の観点からお返事頂ければ幸いに思います。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

中道

世の中では中道とは、両極端を避けた丁度良い所、程よい所であるとか、「いい加減」ではなく「ほど良い加減」である…と解釈されること(ひろさ〇や説)がほとんどですが、私はそれは俗説であり、まちがった解釈であると思っています。
何故なら苦行でも安楽でもないところ、悪くも良くも無い中間地点という意味が中道であるならば、どのみち両辺から脱却した状態ではないし、人間的な価値判断に染まった状態であるからです。
ちなみに、お釈迦様も苦行は否定しています。
苦行をおやめになってはじめて正覚を得ました。
ですからあなたは苦行をする必要はありません。
さらには、お釈迦様は6年間の修行をされたと言われていますが、その解釈も間違いです。
6年間、誤った修行をなされ、6年後にはじめて、正しい修行方法が分かった、というべきです。
身心にとって正しい、心の在り方を見出すこと。それが正しい修行というものです。
ですから、正しく正覚を得た正師の元で正しい自己省察をする事で、中道を会得することができます。
中道とは、観念を離れた様子です。
ヨイワルイ、好き嫌い、損得、得失、健康⇔病などの相対観念を離れた、外れた、超えた、心の在り方です。
丁度よくなったって、救われやしません。
観念そのもの、良し悪しの判断や分別そのものから離れない限り、人間は救われません。
それが中道です。
私は、個人的には坐禅をお勧めします。
自分の思いそのものを冷静に観察できるからです。
坐禅を通して、自分の思いの浮かび沈み、生滅そのものを見つめて、一切手つかずで過ごすことです。
思いは放っておけば、必ず尽きます。
多くの人は思いが尽きる前に、考え事を再開してしまうから、思いを起こす以前、起こった後の消息を得る事が出来ないのです。
禅ではそこに到って脱落身心、第一義と言います。そこが中道です。
思いを超えたところです。思いを超えれば、苦しみは無くなります。
苦しみというものがそもそも(痛覚を除いては)観念の生み出すものだからです。
考え方から離れた世界、といってもピンとこないかもしれませんが、考え方や思い、マインドを離れるからこそ苦しみから離れられます。ちゃんと人間は誰でも救われます。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

お返事いただきまして、ありがとうございます。
長い間お礼をできず、申し訳ございません。
その後、覚元様のアドバイスに従い、座禅や歩行により思いを尽きさせる事に挑戦させていただきました。
どうやら私の場合は球技運動をすると、思いが尽きるような気がします。
ただ、良いプレーをする。
みんなと楽しむ、その事だけを考えている時は一切の悩みから解放されている気がするのです。
大変貴重なアドバイスをありがとうございました。

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