hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

大人ってなんなのでしょうか?

回答数回答 4
有り難し有り難し 165

私はもうすぐ20歳になります。

しかし、それを受け入れることができません。20歳になるのがこわいのです。

実感は0歳が1歳になるのとなんら変わらないのかもしれません。毎年のように、家族や友人から「おめでとう」と言われ、ケーキを食べて、また1日が過ぎるのかもしれません。

しかし、私にとって20歳の区切りはとても意味のあるように思えてならないのです。

このことが頭を巡り始めた頃は、おそらく「責任や就職などの大人になったら乗り越えなければならない壁から“逃げたい”」という気持ちがあったのだと思います。
しかし、今はその気持ちよりも「大人になったら見えなくなるものに対する“恐怖”」が強いです。

私にとって大人は汚いもののシンボルであり、自分はこうなりたくないもののシンボルです。大人になったら見えなくなる何か大切なものがあるはずなのです。

なので私は「大人とは何か」という疑問に答えを出そうと考え始めました。
その答えが分かれば、大人を受け入れられる何かが手に入るかもしれない。そう思います。

しかし、一口に大人といっても様々です。未成年の子供を指して「あいつももう大人だなぁ」という親もあれば、いい年した部下に「子供じゃないんだから!」と怒鳴りつける上司もいます。

多分「大人」と「子供」の境界はとても曖昧なのかもしれません。

なので大人のお坊さんたちに何か「大人とは何か、どう定義するか」のヒントをいただきたいのです。
よろしくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

偏見の偶像です

大人ってなんなんでしょうね。
そこに、意味なんてないんだと思いますよ。

アインシュタインは
「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションのことを言う」

という名言を残しています。
そのとおりだと思います。これを大人にも言い換えられるかもしれませんね。

「大人とは20歳までに作り上げた偏見の偶像のことを言う」

狐の婿入りさんが、考えている大人は
狐の婿入りさんが勝手に創りだした大人像でしかないということです。

大人と子供の境界線なんてものは
偏見がつくりだした恣意的な線引でしかありません。

20歳になったから、急に世界が変わるわけでも
大人に変身するわけでもありません。
50歳になっても、大人ではない人もいます。

日々移り変わり、変化し続けるのが人間です。
それを考えると、年齢を境界線にするのはナンセンスだと思いませんか?

大人になることを考えるのではなく
今を一所懸命生きていれば、いつの間にか大人になっていると思います。

因みに、私の大人の定義は
「利他行為を喜んで出来る人」

それくらい器が大きい人を大人と呼びたいです。

{{count}}
有り難し
おきもち

天台宗 高龍山明王院普賢寺 住職。 一般大学、アメリカ留学、一般企業を経る 比叡山延暦寺にて修行。 生きている人のための仏教を支援する会社、結縁企画を創業。 好きな言葉「怨みを以って怨みに報ずれば怨み止まず、徳を以って怨みに報ずれば怨み、即ち尽く 伝教大師」 夢は「和の仏教を世界に発信する国際的な僧侶」

大人も子どもも『凡夫』だと、仏様は仰います。

凡夫とは、四諦の真理を悟らず、煩悩に束縛されて六道を輪廻するものを指す言葉です。
つまり、物事の正しいものの見方ができず、行を修すもできず、仏様の智慧にはほど遠い存在ということです。

例えば、子犬と成犬の違いは?と聞かれたら、おそらく「何歳か?」ということで分けるのだろうと思います。
大人の自覚がある犬を成犬と言うんだ!という人はいないでしょう。
それは、犬の知恵は人間から見たら、子犬も成犬もあまり変わらないからです。
1歳に満たない犬も、5歳以上の犬も、多少の違いがあっても所詮犬でありますから、そんな分け方をしないのです。

仏様から見られた私たちも同じことです。
私たちは、年齢を重ねると多少賢くなり、思慮分別ができるようになったように勘違いをしています。
しかし、それは仏様から見れば、みな大した違いのない無智な生き物であります。
にもかかわらず、「私は大人だ」「お前は子どもだ」と言って比べているのです。
とても浅ましいことであります。
当然、僧侶も全く同じことであります。

大人も子どもも境界線などありません。
しかし、あるのだということにして私たちは生活しているのです。
それは、法律の上で「成人」、「未成年」等で分けないと社会が成立しません。
あくまで人間社会を構成するための区分けです。

子どもも大人も何も変わらない凡夫でありますので、大人に過度な期待をするのはオススメできません。
世の中は分からないことだらけであります。
仏様はどうお考えになられるのかなぁ?と訪ねてまいることをオススメ致します。

{{count}}
有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

年齢的に大人になるだけでは仕方がないですよね

素晴らしい疑問です。人間、年齢だけ重ねれば大人かいナ?といえばそんな事はありませんね。
さらには、日本このご時世、年齢が髙ければ皆、大人ですか?立派ですか?と言えば、「うーむ」という方も多い時代。
我々僧侶の世界でも年齢さえ重ねればヤレ「ご老師」かい、といえば本当のところは違います。
いくら周りが老師、老師とヨイショしても人間性、中身に乏しい僧侶もいます。
僧侶の世界であっても出家して年だけ食ってりゃ立派カイナといえばそんな事はないものです。
まず、自分自身です。我欲や怒りを離れて、安楽の心を体得し、人をして、我見を無くさせ、智慧慈悲に溢れたる人間を育成できて初めて老師と言われます。
自分のことばかりではなく、周りの人との共存、環境との共存、親からの自立、社会性など、人格的に成熟してはじめて人は大人になるのでしょうね。
和尚の世界では❝大人❞としるしてダイニンと読みます。
お釈迦様の遺言のお経で「八大人覚」というものがあります。
立派な人間、大人(だいにん)が覚すべき8つの法です。
僧侶は、大人になるべく修行をします。
自分自身が、一人でも強く生きていける力とでも言いましょうか。
あらゆる苦しみに打ち克つ力とでも言いましょうか。
他者へ慈悲や智慧を廻らしめける力とでも言いましょうか。
自分だけの小さなものの見方、自分を中心としたものの見方である我見を離れて、小さな自己から大きな自己へ目覚めていく生き方は、年齢的に20歳でなくとも可能です。
反対に60、70歳のオトナでも、いくら年を重ねても、自己中心的な生き方しかできない吾我、自我、自利の人は、あさましい生き方と言えましょう。
世の中、特に日本は、今、100歩譲ってカッコよく言えば無宗教の時代です。
無宗教を悪く言えば、非宗教的生き方です。
非宗教的生き方とは何か。それは、つまり、たんなる自己中心的な生き方です。
自分の都合、自分の都合を最優先にかかげる人たちであふれつつあるのではないでしょうか。
そういう自己中心的な生き方であることは大人(オトナ)であるとは言えませんし、ましてやダイニン(ダイニン)からは程遠い生きたかであると思います。
ただ年齢的に大人になるばかりではなく、ダイニン(大人)になっていくべく、ともに精進してまいりましょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

節目

狐の婿入り様 こんにちは。
20歳の節目を前にいろいろ悩まれている気持ちを聴かせてくれてありがとうございます。

節目の時期はそこから先の不安が気になることもありますが、それまでの振り返りも必要かと思います。

今までの節目を考えるとどうだったでしょうか。
幼稚園保育園から小学生に成る。
小学生から中学生に成る。
中学から高校生に成る。
そこと比べたら、20歳に成ることによる変化の目安が浮かぶかもしれないです。

環境が変わることによって自分が変わったか、変わらないか。
あるいは、節目を迎えて自分を変えたことで環境が変わってきたか。

いづれにせよ、子どもと大人は全く別物でなく、子どものときの土台の上に大人が積み重なっている方が戸惑いが少ないかと思います。

いろいろ不安はあるかと思いますが、大人に成ることはゴールでなく、最終的には仏に成る世界にも興味を持ってくださればありがたいです。

{{count}}
有り難し
おきもち

hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ