三毒 欲深さと折り合えるきっかけ
貪・瞋・癡を知り自分の愚かさを感じます。
例えばハスノハでもっと多くの回答を得たい、有り難しの多い質問にしてみたい。とか。
良く思われたい、こうありたいと欲深く、その基準に人と自分を当てはめる
その「こうあるべき」から外れる人、事、自分に怒りが湧く自分がいます。
他者のあるべきへの期待が強く、怒りが起きやすく、愚かな考えが根本にあります。
理解し一歩進んだのですが、まだまだ修行?がいりそうです。愚かだ、よろしくないなと思いつつも自分のこれまでの習慣だからです。
たくさんの他の質問を見て、我を減らしていく段階はある程度分かりました。
宜しければ、回答者の方々が、三毒をコントロールしていくきっかけや、体験談をお聞かせいただければと思います。
無理してでも一歩先んじようとする。 失敗にとらわれそれが忘れられない. より良くしようと力尽きる。他人にも自分にも理想が高い。 よく不安にかられています。うまく休めない.
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
<三途の川>の教え。
三途の川は皆さんご存知でしょう。しかし本当に川があるのではありません、例え話で仏に成るための教えなのです。貪(とん)、瞋(じん)、痴(ち)の三毒といいまして貪とはむさぼり、瞋とは怒り、痴とは愚痴で、この三つの毒のことを いうのです。そしてこの毒におぼれている以上、仏さまになれないとの教えです。そこでむさぼり、怒り、愚痴の川を渡るには六文銭が必要だというのです。六 文銭とは、仏教の教えの中の六波羅蜜(ろくはらみつ)のたとえで、六波羅蜜とは、迷いのこちら岸(此岸(しがん))から悟りのあちら岸(彼岸)へ渡るとい うことで、具体的には悟りを得るための六つの修行をいうのです。
一は布施、施しをする、二は持戒、戒律を守る、三は忍辱(にんにく)、苦しみに耐える、四は精進、何事も怠らずに励む、五は禅定、心静かに乱さない、六は智慧(ちえ)真実の教えに目覚める・・・という六つの修行です。
この六つの修行を六文銭にたとえました。ですから三毒という三途の川を六文銭という六つの修行によって渡ってしまうということ、それを成し遂げるのが彼岸の意味です。
この世の煩悩だらけの中で全てを成し遂げる事の難しさは日々思い知らされ毎日が修行、死ぬまで修行。「未在」己、未だ悟りに至らず!まだまだ修行です。驕る事無かれ!高ぶる事無かれ!
質問者からのお礼
山口秀徹さま
有り難い教えをいただきました。なんと言えばいいかわかりませんが、すっとお言葉が胸に入っていくような感じがしました。ありがとうございます。
山口秀徹さま
有り難い教えをいただきました。なんと言えばいいかわかりませんが、すっとお言葉が胸に入っていくような感じがしました。ありがとうございます。