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この世は修行?

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はじめまして、よろしくお願いします。

折り返しの年齢になり、今までの人生を振り返ってみますと割と波乱万丈の人生だったかな?と思います。

そこで、お聞きしたいのですが。
私たちは生まれてくる場所や環境などを全部自分で決めて生まれてくるという考えは
本当なのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

行いは選べる

はじめまして。
真宗大谷派の釋理薫と申します。

仏教では、この世に「生」を受けることは非常に稀なことで尊いことだけれども、生まれる場所や環境は選べないと教えられています。

有名な『法句経(ダンマパダ)』に
「螺髪を結んでいる(バラモンの格好をしている)からバラモンなのではない。
氏姓によってバラモンなのでもない。
生れによってバラモンなのでもない。
真理と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。」

とあります。

バラモンとは聖者のことです。
生まれや背負ったものはひとりひとり千差万別ですが、その行いによってその人の人生が決まるというのが仏教だと教わってきました。

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真宗大谷派(東本願寺)僧侶 東京品川 日夜山正徳寺 住職 主な活動 ・正徳寺声明会(しょうみょうかい:お経の練習と法話)月一回開催 ・こども囲碁道場 月一回開催 講師:日本棋院 王唯任五段 ・こども すみえ おえかき道場 隔月開催 講師:墨絵画家 本多豊國 ・「対話する夜」 月一回 都内のいろいろなお寺で平日夜にお坊さんを交えて対話する会 この他に、寺社フェス「向源」のお手伝いなど

全てが自分を向上させるに丁度イイ

たとえば来世や次なる世があると願うと人間どうなりますでしょうか?
おそらく恵まれない人生ならば「次こそは…」と今、現在、現世ではなく、心の中で描かれた別のモノを生きようとするなど、現世がおろそかになると思います。
その事をいさめるために、今の目の前に本腰据えて生きるためにも、与えられた人生を全うすべし、という含みを込めて言われてきたのが、そういう説であろうと思います。
他をうらやんだって、しょうがない。
今の自分の真実を観ずして、どこに生きるべき道がありましょう。
大切なのは、自分がどんな苦境、不運にあっても、そこから幸せな方向、前に進んでいく事が大切です。波乱万丈であられたにせよ、それはそれであなたの恵まれた人生です。
私が最近感じている事は、不運、不幸、苦境というのは、最初から不運、不幸、苦境という訳ではありません。それらは人間的な「総合的最終判断」であって、どんな苦しい中にあっても、楽しい瞬間もありますでしょう?あなたも波乱万丈だった分、他人からの非難もあったかもしれません。それでも楽しいこともあったはずです。それでもまだ、人生は続いていきます。
ほかならぬ自分の人生を自分が生きる。
決められた人生などはありません。
自分がさらに道を切り開くことができます。この生にありながら生き方だけは選択できるのが人生です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

釋理薫さま
ご回答ありがとうございます。
私なりに何度もご回答を読み返してみたいと思います。

まず、生まれてきた事に感謝したいと思います。

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