生きていく意味
13年前に夫と死別し子供はおりません。
資格職なので、死別後もなんとか仕事には困らずにきましたが
50歳になり、今後老いていくだけの自分の未来に
希望が持てないでいます。仕事ができてもあと10年。
その後、自分はどうなるんだろうと。
朝起きて仕事に行き、帰ってきて食事をして寝るの繰り返し。
もちろん、好きな事や楽しみもあり気分転換はしていますが
自分の存在意義や、生きる目的が持てないでいます。
ただなんとなく、漠然と漫然と生きている自分。
両親もすでに他界し、離れた場所に独身の弟が一人。
母親が60ちょっとで亡くなっており、自分もそのくらいで
死ぬのかなと思う時もあります。
新しい家庭が持てればよいのでしょうが、そうそううまく
いきません。
私が生まれた意味はあるのでしょうが、その意味が
なんだかわからなくなっています。
なぜ、私はこんな人生を生きることになったのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
今を生きる
五十歳になって自分の人生を振り返る。
今後に対する不安を感じ、生きてきた意味を改めて考えると、よく意味がわからない。
そういうふうにお感じなのですね。
実は私も、同じような年齢で、境遇には違いがありますが、よく似たことを感じているように思います。
何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで 熱いこころ燃える
だから君は行くんだ微笑んで。
こんな歌詞をご存じでしょうか?
「アンパンマンのマーチ」の一節です。
子ども向けの歌ですが、そこには年齢を重ねた私たちにも通じるものがあるのではないでしょうか。
最初の2行
何の為に生まれて 何をして生きるのか/答えられないなんて そんなのは嫌だ!
これはまさしく私たちの思いではありませんか?
次の2行
今を生きることで 熱いこころ燃える/だから君は行くんだ微笑んで。
が解決策だといえるのでしょう。
私たちの今までの人生行路は決して無駄ではありません。
その行路で、人それぞれ、様々なご縁に出会って、多くのことを経験してきました。
これからの人生に、不安はつきまとっても、私たちがしてきたことに、無意味なものはありません。
それが「今を生きる」ことになるのでしょう。
私たちはいろいろな不安を感じさるを得ません。
しかし、「今を生きる」というところに焦点を置けば、思い煩うことは余計な心配とも思えるのではないでしょうか。
過去を悔やんでも過去は取り戻せませんが、今がこれからを決めていきます。
自分の心の焦点を、「今」に合わせてみませんか?
これは、私にも言い聞かせていることです。
ともに「今」を大切に生きていきたいと、そう感じている次第です。
もし、生きる意味があるならば、生きる意味がない
she 様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。
もしも、「生きていく意味が(実体として)ある」のであれば、既に「何事も意味があり、それで決定されて運命・宿命づけられている」ということにもなりかねず、それでは、どのように生きようが、何をしようが、何をしても構わずに同じこととなり、結局は無意味に帰するということになってしまいかねません。
かといって、「何も意味は無い」とすれば、虚無・悲観主義に陥ってしまい、例えば「死んだら最終的に全て無になるので、何をどうしても結局は生きることに意味がない」と考えるのと同じとなり、弊害が出てきてしまいます。
また、「意味」というのは、相対的な概念判断・価値観に左右されて成り立っている非常に曖昧なものに過ぎないため、あまりとらわれすぎても仕方のないことではありますが、私たちは、常に何か意味や意義、目的を定めて意欲を持たなければ、なかなか前へと進めないのも確かな事実でございます。
さて、意味や意義、目的というものは、実体として「有る」、あるいは全く「無い」というものではなくて、様々な「縁」に依って成り立っているものでございます。もちろん、これからのshe様も、「縁」次第によっては、いくらでもいかようにも定めることができる次第でございます。
今は将来に対しての漠然とした孤独感、不安や心配、憂いによって、生まれてきた意味や生きていく意味が無いように思ってしまい、落ち込んでしまわれているようにお察し致します。何も伴侶、子ども、家族がいるから、それで満足できる意味や意義や目的が得られるとも限らないのですが、もちろん、これからの「縁」次第では、she様も伴侶や子ども(連れ子、養子や里子など)を得ることもありえますし、志次第では、仕事や取り組みの後継育成に生きがいを得ることや、更には、利他活動として、ボランティアや奉仕・慈善活動にやりがいを得ることなどもありえるでしょう。一つの仏教的な立場からのご提案と致しましては、例えば、他のお役に立てることで善徳を積まれることなどはどうでしょうか。
これまで様々に支えられて、助けられて、生かされて生きてこれたことへの感謝と報恩の善徳行を亡きご主人、亡き両親へのご供養、更にはshe様ご自身の後生のためのご供養としてもこの機会にご一考賜れましたら誠に幸いでございます。
川口英俊 合掌
she様。其れを見つける為に今生きているのですよ。
生きて行く意味・生きている意味。
其れを見つける為に今を生きているのです。
「毎日単純な生活の繰り返し…」でも、此れに気づくかそうで無いかには大きな違いが有るのです。
生きていること自体に大きな意味が有るのです。
小難しい理論は要りません。
生きている事の有り難さをよくよく考えてみて下さいな。
自分の輪郭は、自分で決める
sheさん、こんにちは。
“自分の存在意義や、生きる目的が持てないでいます。
ただなんとなく、漠然と漫然と生きている自分。”
sheさんの人生を数行にまとめていらっしゃいますが、その中身を見れば、ぼくには全く想像もつかない人生だったはずです。人生50年と言ったのは大昔の人ですが、私たちの人生は先へと進みます。
そして、いろんな時代があったはずです。記憶も無いとき、子どものとき、妻のとき、一人のとき。
それぞれにsheさんは、いろんな顔を持っていたとも言えます。
“私が生まれた意味はあるのでしょうが、その意味が
なんだかわからなくなっています。
なぜ、私はこんな人生を生きることになったのでしょうか。”
いろんな顔を持っている、というところに“私が生まれた意味”があると、ぼくは思います。
いろんな顔とは、自分の輪郭、自分の存在意義そのものです。
藤堂師が「今」についてお話しされていますが、近いことです。
どのようなことをするのか、どのように嬉しく思うのか、悲しく思うのか。過去をふりかえって一代記を書いたり、未来を思って新しいことにチャレンジしたり。「今」の行為のことです。何もしないことも行為です。
たとえば「幸せ」って自分で決めるものだと思いませんか。極論かもしれませんが、自分が幸せだと思ったら幸せで。不幸だと思ったなら不幸。
ただ、自分で腑に落ちない幸せや不幸は、本物ではないでしょう。
一人は寂しいです。人間とは社会的動物だなんてよく言ったものです。・・山の中で一人、無音に気付いたとき、僕は愕然として、こわくなって、はやく山を駆け下りた記憶があります。はやく一人でいることの恐怖から逃げ出したかったです。
どのような自分か、どのような人生かは、自分で決める。
“私が生まれた意味はある”とsheさんは分かってらっしゃるようです。ただ、どこか腑に落ちていないために“なんだかわからない”。
みんな漠然とした不安を、なにかでごまかして生きていると思います。仕事だったり、家事だったり、テレビだったり。でも、そこを見つめているsheさんは単純に凄いです。
30にもなっていない青二才の戯れ言ですが、sheさんが思うほどのこんな人生ではないのは確かだと私は思います。