hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

生きていく意味

回答数回答 4
有り難し有り難し 162

13年前に夫と死別し子供はおりません。
資格職なので、死別後もなんとか仕事には困らずにきましたが
50歳になり、今後老いていくだけの自分の未来に
希望が持てないでいます。仕事ができてもあと10年。
その後、自分はどうなるんだろうと。
朝起きて仕事に行き、帰ってきて食事をして寝るの繰り返し。
もちろん、好きな事や楽しみもあり気分転換はしていますが
自分の存在意義や、生きる目的が持てないでいます。
ただなんとなく、漠然と漫然と生きている自分。
両親もすでに他界し、離れた場所に独身の弟が一人。
母親が60ちょっとで亡くなっており、自分もそのくらいで
死ぬのかなと思う時もあります。
新しい家庭が持てればよいのでしょうが、そうそううまく
いきません。
私が生まれた意味はあるのでしょうが、その意味が
なんだかわからなくなっています。
なぜ、私はこんな人生を生きることになったのでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

今を生きる

五十歳になって自分の人生を振り返る。
今後に対する不安を感じ、生きてきた意味を改めて考えると、よく意味がわからない。

そういうふうにお感じなのですね。

実は私も、同じような年齢で、境遇には違いがありますが、よく似たことを感じているように思います。

何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで 熱いこころ燃える
だから君は行くんだ微笑んで。

こんな歌詞をご存じでしょうか?
「アンパンマンのマーチ」の一節です。
子ども向けの歌ですが、そこには年齢を重ねた私たちにも通じるものがあるのではないでしょうか。

最初の2行
何の為に生まれて 何をして生きるのか/答えられないなんて そんなのは嫌だ!

これはまさしく私たちの思いではありませんか?

次の2行
今を生きることで 熱いこころ燃える/だから君は行くんだ微笑んで。
が解決策だといえるのでしょう。

私たちの今までの人生行路は決して無駄ではありません。
その行路で、人それぞれ、様々なご縁に出会って、多くのことを経験してきました。
これからの人生に、不安はつきまとっても、私たちがしてきたことに、無意味なものはありません。

それが「今を生きる」ことになるのでしょう。

私たちはいろいろな不安を感じさるを得ません。
しかし、「今を生きる」というところに焦点を置けば、思い煩うことは余計な心配とも思えるのではないでしょうか。

過去を悔やんでも過去は取り戻せませんが、今がこれからを決めていきます。

自分の心の焦点を、「今」に合わせてみませんか?

これは、私にも言い聞かせていることです。
ともに「今」を大切に生きていきたいと、そう感じている次第です。

{{count}}
有り難し
おきもち


真宗山元派上西山正善寺住職

もし、生きる意味があるならば、生きる意味がない

she 様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

もしも、「生きていく意味が(実体として)ある」のであれば、既に「何事も意味があり、それで決定されて運命・宿命づけられている」ということにもなりかねず、それでは、どのように生きようが、何をしようが、何をしても構わずに同じこととなり、結局は無意味に帰するということになってしまいかねません。

かといって、「何も意味は無い」とすれば、虚無・悲観主義に陥ってしまい、例えば「死んだら最終的に全て無になるので、何をどうしても結局は生きることに意味がない」と考えるのと同じとなり、弊害が出てきてしまいます。

また、「意味」というのは、相対的な概念判断・価値観に左右されて成り立っている非常に曖昧なものに過ぎないため、あまりとらわれすぎても仕方のないことではありますが、私たちは、常に何か意味や意義、目的を定めて意欲を持たなければ、なかなか前へと進めないのも確かな事実でございます。

さて、意味や意義、目的というものは、実体として「有る」、あるいは全く「無い」というものではなくて、様々な「縁」に依って成り立っているものでございます。もちろん、これからのshe様も、「縁」次第によっては、いくらでもいかようにも定めることができる次第でございます。

今は将来に対しての漠然とした孤独感、不安や心配、憂いによって、生まれてきた意味や生きていく意味が無いように思ってしまい、落ち込んでしまわれているようにお察し致します。何も伴侶、子ども、家族がいるから、それで満足できる意味や意義や目的が得られるとも限らないのですが、もちろん、これからの「縁」次第では、she様も伴侶や子ども(連れ子、養子や里子など)を得ることもありえますし、志次第では、仕事や取り組みの後継育成に生きがいを得ることや、更には、利他活動として、ボランティアや奉仕・慈善活動にやりがいを得ることなどもありえるでしょう。一つの仏教的な立場からのご提案と致しましては、例えば、他のお役に立てることで善徳を積まれることなどはどうでしょうか。

これまで様々に支えられて、助けられて、生かされて生きてこれたことへの感謝と報恩の善徳行を亡きご主人、亡き両親へのご供養、更にはshe様ご自身の後生のためのご供養としてもこの機会にご一考賜れましたら誠に幸いでございます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち


川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究 この度、仏...

she様。其れを見つける為に今生きているのですよ。

生きて行く意味・生きている意味。

其れを見つける為に今を生きているのです。
「毎日単純な生活の繰り返し…」でも、此れに気づくかそうで無いかには大きな違いが有るのです。
生きていること自体に大きな意味が有るのです。

小難しい理論は要りません。
生きている事の有り難さをよくよく考えてみて下さいな。

{{count}}
有り難し
おきもち


色々の悩み事がこの世には沢山有ります。 大学の卒論で密教天文暦法を研究致...

自分の輪郭は、自分で決める

sheさん、こんにちは。

“自分の存在意義や、生きる目的が持てないでいます。
ただなんとなく、漠然と漫然と生きている自分。”
sheさんの人生を数行にまとめていらっしゃいますが、その中身を見れば、ぼくには全く想像もつかない人生だったはずです。人生50年と言ったのは大昔の人ですが、私たちの人生は先へと進みます。

そして、いろんな時代があったはずです。記憶も無いとき、子どものとき、妻のとき、一人のとき。
それぞれにsheさんは、いろんな顔を持っていたとも言えます。

“私が生まれた意味はあるのでしょうが、その意味が
なんだかわからなくなっています。
なぜ、私はこんな人生を生きることになったのでしょうか。”
いろんな顔を持っている、というところに“私が生まれた意味”があると、ぼくは思います。
いろんな顔とは、自分の輪郭、自分の存在意義そのものです。
藤堂師が「今」についてお話しされていますが、近いことです。
どのようなことをするのか、どのように嬉しく思うのか、悲しく思うのか。過去をふりかえって一代記を書いたり、未来を思って新しいことにチャレンジしたり。「今」の行為のことです。何もしないことも行為です。
たとえば「幸せ」って自分で決めるものだと思いませんか。極論かもしれませんが、自分が幸せだと思ったら幸せで。不幸だと思ったなら不幸。
ただ、自分で腑に落ちない幸せや不幸は、本物ではないでしょう。

一人は寂しいです。人間とは社会的動物だなんてよく言ったものです。・・山の中で一人、無音に気付いたとき、僕は愕然として、こわくなって、はやく山を駆け下りた記憶があります。はやく一人でいることの恐怖から逃げ出したかったです。

どのような自分か、どのような人生かは、自分で決める。
“私が生まれた意味はある”とsheさんは分かってらっしゃるようです。ただ、どこか腑に落ちていないために“なんだかわからない”。
みんな漠然とした不安を、なにかでごまかして生きていると思います。仕事だったり、家事だったり、テレビだったり。でも、そこを見つめているsheさんは単純に凄いです。

30にもなっていない青二才の戯れ言ですが、sheさんが思うほどのこんな人生ではないのは確かだと私は思います。

{{count}}
有り難し
おきもち


「~です」とは、「~だと、ぼくは思うのです」ということです。 回答は、書...

「生きる意味」問答一覧

生きている意味がわからなくなりました。

結婚20年目、子供が四人います。 半年前に夫が不倫し、発覚。 女とは家族ぐるみで付き合いがあり、我が家に泊まったこともありましたし、女には婚約相手もいたので寝耳に水。 信じていた二人に裏切られたことがショックで息をするのも苦しく、夜も眠れない毎日でした。 女と連絡も絶ってくれて、 半年たち本当に少しづつですが日常を取り戻しつつある様にも感じていましたが、 夫に「何年も前から家族だと思えなかった。今もそうだ。」と言われました。 二十年間、色々ありましたが、夫のことは信頼していたし、愛していましたが、 夫の裏切りで、自己肯定感も夫への信頼もなくなってしまった今、 夫がその様に家族や夫婦を否定しているので離婚するしかないのでしょうか? 彼のことを愛して信じてきたこれまでの二十年間はなんだったでしょうか? 四人の子供を産み、育ててきた時間はなんだったんでしょう? 夫の不倫を知って以来、20年の全てを失った様な気がしています。 楽しいことも、嬉しいことも、やりたいことも何もなくなってしまいました。 仕事も手につかず、子供にも辛く当たるばかりの毎日。 生きているってなんなんでしょうか?

有り難し有り難し 8
回答数回答 1

自分の生きる意味が分からなくなりました。

お忙しい中、失礼いたします。 初めて相談させていただきます。 不躾ではありますが、早速本題に入らせていただきたく存じます。 私は幼い頃より厳しく躾けられ、失敗などはありながらも少しは成長して生きてきたと自負しております。 大きな企業ではないですが管理職をしながら夢(芸術関係の仕事です。)に向かって歩んできました。 しかし先日、その夢のせいで家族に迷惑をかけていると打ち明けられました。 いい年なんだから、夢を諦めるべきと言われました。 私としては、その夢のために今まで頑張ってきたのでひどく衝撃を受けました。 私の夢に付き合わせてはいけないと恋人も作らずに生きてきました。 多くはありませんがファンがつき始めたのでこれからだという時でしたし、タイミングよく母の知り合いが今より給与の良い会社への転職を薦めてきたこともあり家族内でも私への風当たりが強まっているのを感じます。 ずっと思い続けてきた夢を諦めた方が家族にとって良い事なのは分かっています。 ですが、夢に全てをかけてきた私は生きる意味というものに苦悩しています。 最近は夜も眠れないほどに悩んでいます。 「周りから見れば年甲斐もない夢」など捨てるべきなのでしょうか? 乱雑な文章で大変申し訳ありません。 御僧侶のお考えをご教授いただければ幸いです。

有り難し有り難し 8
回答数回答 1

生きることに価値はあるのか

はじめまして。突然の独白失礼致します。 私は、常に悩みの中に居ます。 自分には生きている意味や価値があるのか?と言う問いはよく耳にしますが、私は生きていることそれ自体に意味や価値があるのか、と言う問いをずっと胸に抱えております。 意味も価値も所詮は人間の決めた尺度であり、それは誰かから与えられるものでは無く、自らの生の意味や価値は自らが決めるしかない、と思う一方で 人間を全体として見れば、やはり人が生きることに何らの意味や価値も無い様に思えてしまうのです。 個人は、死と言う終着点があるからこそ、種を紡いだり、意志を遺したり、自らの存在を個として終わらせず、何かを遺そうとするのだと思います。 果たして人間全体を個として見た時、その終着点が何処にあるのか、それが分からない為、煩悶してしまうのです。 もしかすると、100年後には全てが無くなっているかもしれません。それは1000年先のことかもしれないし、明日のことかもしれません。 いずれにせよ、始まりのあるものには、終わりが来る訳ですから、全体その時我々人間が紡ごうとしていたものは、どうなってしまうのでしょうか。 何かを遺そうとしても、それを受ける人間が居なくなってしまうなら、果たしてその行為に意味はあるのでしょうか? 私は、価値の源泉は希求にあると考えます。 価値があると信ずるからこそ、そこに価値が生まれるのだと。 だからこそ、私は自らが信じられると思ったものを必死に追い続けて来ました。 しかし、上記した様な考えが頭をもたげると、どうしてもそれが揺らいでしまう瞬間があるのです。 これは、私の心が弱いからなのでしょうか? 私がいつか答えに出逢えるとするならば、それは私の都合の良い解釈なのか、或いは本当の答えが未だ見ぬ何処かにあるのか。 私には、もう何も分かりません。 信ずる道を行かれるお坊様に、どうしてもお聞きしたくて、此処に書かせて頂いた次第でございます。 末筆ではございますが、長く読み辛い文章になってしまったことをお詫び申し上げます。 また、最後までお読み頂いたことに感謝致します。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

「生きる意味」は意味があるのか

「生きる意味を探そう」などといった啓発がよくなされていますが、そうやって見つけた生きる目的には何の意味があるのでしょうか。 いずれ無くなるであろう地球(現世)で、どうやっても百余年で死んでしまう私たちが、「生きる意味」をもって行動したとしても大局的には意味のないことだと思ってしまいます。 小さい頃、自分は歴史に名を残す偉業を成し遂げたいと思っていました。しかし年を重ねるにつれ、そんな社会貢献ができたとして何になるのかを強く考えるようになりました。偉大な結果を残したとしても、自分が死んだらその後の世界を見ることはできない(自分の功績の影響は認知できない)し、世界が終われば無に帰します。「生きる意味」と思っていたものの意味がなくなるように感じてしまいます。 これは「そんな偉業は成し遂げられない」という諦観がそうさせている面もあるとは思いますが、「自分が起こした行動が現在、そして死後の未来に影響を与えたとして、だから何になるのか」を強く考えていることに変わりはないです。 こう考えることで、生きる意味も、それを探すことも無意味に思えてしまっています。 生きる上で苦痛が耐えないこともこの考えを助長しています。なぜ人は苦しみがある中でも生き、この社会で何かを残そうとし、命のバトンを繋いでいくのでしょうか。また、何かを残そうというモチベーションもなく日々を生きている人々は、どんな「生きる意味」をもって生きているのでしょうか。 私自身は、生きる上で生じる苦痛を上回る「生きる意味」を未だ見つけられていませんし、「生きる意味」を見つけるために努力することも億劫で、苦しいのでしたくなくなっています。こんな思いを抱きながら生きるより、すっと消えてしまえた方が楽なのではないか、という考えすら頭に浮かび、数か月離れないので、ここに思いの丈を書かせていただきました。 とりとめのない話になってしまいましたが、よければこのことに関する仏教に基づいたお話をお聞かせください。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 68
回答数回答 4

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る