お坊様について
以前よりお世話になっています。
ニックネームを変更しました。
家族が他界してから毎日お務め、花、茶水、お供えと自分なりに供養してきました。
これまで5人のお坊様とお世話になりました。(実際にお会いした)
それぞれ個人的な考えや思い、派の違いにより仕方がないことかも知れません、違うところが言動にあります。1人のお坊様は色々な勉強を幅広くされたのか、お話はとても立派なのですが、そのお言葉を自ら覆す行動をします。
細かい内容は言えませんが、色々と矛盾を感じ、お寺に伺いにくい状態になり、別のお坊様にも法事に来ていただけない状況です。
今年の法事は菩提寺の住職が他県から来ていただき、なんとか両親、先祖の供養ができました。
仏教とは、御坊さんとは、供養とは…何が本当なのか分からなくなり、段々と仏壇のお務め、供養もいい加減になりつつあります。
最近は若い方も気軽にお寺の門をくぐれルように、お寺カフェや座禅、説法、写経や癒しを求めてお寺巡り、朱印本など流行りつつあり、高野山1300年のPRもよく見かけます。お寺や神社巡りが趣味と言う若い方々もいます。
一方、無信仰だから、山や海に散骨する方、墓仕舞いして樹木葬等、普通に家代々のお墓に入る人も減っているとか。と言うことは檀家さんも減ると言うことですね。
大変失礼ですが、葬式坊主なる葬式業者数社と契約?して、葬式ばかりして儲けるお寺もあると聞きました。
5人のお坊様のうち4人にとって私は檀家でなく、業者の紹介やあるお寺の催しで出会っただけで、特に大きな収入源にもならず、どうでも良いのかも知れませんし、中には若いお坊様もいますが、頭でっかちの知識先行型なのかもしれません。
これも私の受け取り方一つなのかもしれません、お坊様に対するイメージが固まっていて、そのイメージと違うから違和感なのかもしれません。
当然、お坊様も人間、修行の身であり完全完璧でないことはわかります。ただ法事で頂いたお経は本当に、亡き家族のためになっているのか、六道の話を伺いましたが、畜生界、地獄に落ちていないか、毎日、お務めすることで両親、先祖のためになっているのか疑問が沸きます。
それまでは完全に仏教を信じ、お務め、供養が仏となった家族のためと信じきっていました。
今は半信半疑、これから供養を続けていく自信が無くなりました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
だからこそ本当のお坊さんを探すべきではないでしょうか。
あなたは本当に救いを求めているのでしょう。
あやふやな事では満足いかないのでしょうから。
あなた自身が本当に任せられる坊さんにお願いすればよいのです。
人生の師を探すことはおろそかにすべきことではありません。
「電話で一本!24時間!すぐ行きます!お経読んでお金もろて、ほなサイナラです!」みたいな僧侶では私も満足いたしません。お経が終わった途端に今読んだお経はどういうもんで、何によって成仏したか証明してみろ!と首根っこを掴んで問答するくらいの勢いがあってもいいんじゃないでしょうか。
今や新聞の通信教育で僧侶になれてしまう宗派もあるそうです。
いかがわしい僧侶や、いかがわしいお経は沢山ある。
私自身はそういう懐疑心をずっといだいてきました。だからこそ、本当に素晴らしい師僧、参学師に出会う事が出来ました。ぜひその疑問を持ち続けて、きちんとした仏教を広めておられる方を探してみてください。
僧侶の資質は、大きな問題です。
嫌な思いをされたのですね。
同じ僧侶として申し訳ありませんでした。
ごめんなさい。
まともな僧侶がいる一方、著しく堕落した僧侶がいることも事実です。
日本では、僧侶は大きく二つに分かれます。
出家しているか、していないかです。
浄土真宗系以外はみな出家をした行者です。
出家をされた僧侶というのは、即身成仏(生きているうちに仏になる)を目指す行者であり、行をしているのか、どこまでできているのか等、その僧侶自身がかなり重要となってきます。
その反対に浄土真宗系の僧侶は出家をしませんので、修行もしません。
そもそも即身成仏を目指していません。
他力(阿弥陀如来)のおはたらきによる、浄土での往生成仏を目的としています。
ですので、真宗系僧侶の仕事は修行ではなく、勉学であり、布教活動であります。
端的に言えば、僧侶の資質や人間性は檀家や信者の成仏になんら関係のない話になります。
阿弥陀如来の本願力によって、仏と成らせて頂くので、真宗僧侶はそのことをただただご法話するだけです。
往生成仏の因として僧侶の資質は関係ないので、安心して阿弥陀様に感謝できる宗派とも言えるのかもしれません。
その一方で、僧侶があぐらをかいているとも言えるのかもしれません。
僧侶の質が悪く、仏教に関心が持てないというのが多いのが事実だと思います。
私たち僧侶がそのことを自覚し、覆していかなくてはいけません。
ご指摘を紳士に受け止め、精進してまいります。
追記:真言宗が阿弥陀如来の浄土である極楽浄土への往生を説いているのかは疑問ですが、成仏した御先祖に対し手を合わせることを、仏徳讚嘆と言います。
仏様のお徳を讃え、感謝申し上げています。
これを追善供養ではなく讚嘆供養と言います。
追善とは、善を追加して成仏への応援をすることです。
『ちゃんと供養しないと云々』というのは、追善供養の事ですね。
第一にまごころの〈確認〉、第二に真剣な〈選択〉をお勧めします
まず、心よりお詫び申しあげます。
1 亡き方を供養し、慰霊しないではいられないまごころに気づく
人は太古の昔から、死と死人と御霊とを畏怖してきました。そもそも「畏」は霊的な力の前でかしこまる気持であり、「怖」は、怖い、と、おののく様子です。死も、逝く人も、そして、去ってしまった人も放置できないのは、私たちに霊性があるからです。一個の動物として見聞きできる範囲を超えた世界を感じとる能力を持っているからです。昨日生きたように今日を生き、明日もこれが続くと無意識に信じ、漫然と生きている自分をふり返り、もしも一瞬後に、あるいは明日、あるいは来月、自分が死ぬことをリアルに想像してみましょう。また、故人となった人々を想い、自分との関係をゆっくりと思い出してみましょう。きっと、目先のことごとに追われている時とは異なる心が動くはずです。いつの間にか合掌しているかも知れません。畏怖を伴う霊性のはたらき、一種の〈まごころ〉の活動は他人との関係によって揺るがず、お寺がどうこうとは別問題です。
2 葬送や慰霊や供養が人生において大切なものであると考えるならば、それを依頼し、学ぶ相手を自分で探す
私たちは病気になると、真剣に薬を求め、医者や病院を探します。病気は自分が処置できる能力の範囲を超えたできごとなので、信頼できるプロの力にすがらずにはいられません。ならば、〈死〉や〈死後〉について考え、何かを行おうとする時、信頼できる宗教者や寺院などを探すのが当然ではないでしょうか。自分で宗教のプロを探し、納得や安心を得るというプロセスなしに業者任せにするならば、宗教行為が商行為、あるいは商行為の延長として行わてもよいと認める〈消費者〉になることを意味します。葬祭業者様は商行為として正当な業務を行い、僧侶は宗教行為として異次元の法務を行い、両者が車の両輪としてそれぞれの持分を充分に発揮すればこそ、葬送がまっとうに行われます。そうした葬送を可能にさせるかどうかは、商業ベースに乗らず、別々なものを別々な視点から〈自分で選ぶ〉方々の姿勢にかかわるところ、大なるものがあります。賢い消費者になることが正直な店を存続させ、消費社会のペースに呑み込まれない生活を確立させるのと同じです。信念や方針が明確に掲げられている寺院を訪ね、住職と会い、重大事を〈託せる〉かどうか、ご自身の霊性で判断されるようお勧めします
質問者からのお礼
遠藤龍地さま
ご回答ありがとうございます。
お詫びまで…申し訳ありません。
1. 仰るとおりに、正直、毎日仏壇に手を合わせ亡き家族の事を思い出し、涙することもあります。どうか極楽浄土で幸せに過ごして下さいと冥福を祈り、誰があげてもお経はお経とこちらのお坊様に教えて頂き、毎日少しでも力になれるならと思いヘタクソながらも毎日お経もあげてきました。仏教のしきたりや常識もあまり知らないまま、お坊様に接する機会を頂いたので、非常識な事もしたかもしれません。しかし、お坊様は仏教を広め、仏教の教えを説き、檀家や信者の信仰の上にいる存在だと思います。決してお寺と別物とは思えないのです。毎年のお盆、あと数年で7回忌と法事は続き、お坊様に来ていただくこたとになりますし。
2.自分で信じられるお寺さまを探すと言うのも難しい話だと思います。自分でも書いた通り、随分と敷居を低くして出入りしやすくなってきたとは言え、何か催し事をされていたりするお寺でないと、一般の人にはまだまだ敷居は高く、町のお医者さんのように、この病院はでは治らないから違う病院へみたいに次々と渡り歩くことが可能かどうか。
葬儀についても、この頃は終活やエンディングノートの存在がピックアップされていますが、それも最近の事。どの葬儀屋さんが良いのか悪いのか、母が亡くなったときは、ある程度の猶予が会ったので、目星は付けていましたが、病院で夜に亡くなり朝までには出ていけと言われ、選択の余地もなくその業者に迎えにきてもらいました。
今更ケチを付けたくないですが、家族葬20数万円~となっていましたが、本当に20万円台でお葬式をしたら、どれだけ貧相なものになっていたか。10倍は掛かりました。本当なら騙されたと思うところですが、それでも悔いなく送ってやれたと思っています。
ただ、家族の死の悲しみの中にいる人間が果して、信頼できるお坊様を探すことができるのでしょうか?
自分があの世に行くまでには、お坊様、業者もきちんと選びエンディングノートを作って起きたいと思います。
ありがとうございました。
丹下覚元さま、ご回答ありがとうございます。
やはり探す努力が必要なのでしょうか?
私のお坊様のイメージは、現代風に開けた親しみやすさもこの時代には必要なのかも知れませんが、やはりきちんとお経を呼んで、仏教とはなんぞや供養とはなんぞやとお経とはと、亡くなったものへの思い、遺族の思いを受けとめ、これから供養をしながら生きていく人間にどういう気持ちで生きれば良いのか…
家に届くのは御摩供養の申込み、本山ツアーの申込み、増築に伴う寄付の御願い等々。お盆のお布施の金額を下げるとパタッとなくなりました。
今まで施餓鬼供養や御摩供養等々、申込みその都度、お札やお守り等々が届きました。
あるお寺に何度か伺った際に、なにかあるならお話聞きますよと言ってくださり、色々と問題を抱えていたので、お話をしたんですが、私も調子にのり不用意な発言をしたようで、その場で諌められました。が、次からは露骨にな態度でに。
諫められるのは私が考えもせず発言したことが悪いのですが、次からの扱いが。そんなに露骨な言動をされるほどの大変な罪を犯したとも思えず、私は何をしにお寺へいっているのか分からなくなりました。
お坊様も人間ですから、腹も立てば、虫の居どころも悪いときもあるでしょう。まあ、もう来てもらわなくていいということですね。
僧侶に対するイメージが高すぎるのでしょうか、どうしても聖職者のイメージがあり、あまり自分の感情を出すと言うイメージが強いのです。まあ、そういう時代ではないのかもしれませんね。法事に来てもらいお経を頂き、お布施を渡せば、サヨウナラ。それで良いのかも知れません。お坊様に何を必要以上なことを要求しているのかもしれませんね。
釈心誓さま、ご回答ありがとうございます。
そんな、お詫びまで…申し訳ありません。
失礼しました、何宗とも書かず。私の家は代々、真言宗です。真言宗の中でも何々派と別れていて、同じ真言宗なら違う派のお坊様にお経を頂いてもいいということでした。しかし、それぞれお経のあげ方も違い、シンバル的なものを鳴らすお坊様もいました。
あるお坊様はお経の意味を知って唱えることこそ意味がある、他のお坊様はたぶん一般の人には分からない、そのためにお坊様がいる。私たちは意味は分からなくても声に出して読むことで効果があると…ご先祖の仏さまに御願いをしてはいけない仏さまの修行をしているから。自分の家族、先祖だからこそ困ったことは、どうか助けてくださいと御願いしなさいという。
本当にバラバラでもうわかりません。
私も母が亡くなるまで、たまに手を合わせる程度のことしかしていませんでした。それまでは母が仏壇を守っていました。今度は私が仏壇を守る番になり、色々と勉強していくほど、何が本当で何が仏さまや遺族のためになるのか、真言宗では49日で仏さまの仲間入りをすると言われています。成仏して極楽浄土で幸せに過ごしているなら、位牌やお墓に手を合わせることなどいらないことではと思ったりします。