hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
そらノート 亡くなった人やペットに思いを伝えよう hasunoha姉妹サイト登場

宗教とは

回答数回答 6
有り難し有り難し 229

宗教とは何ですか?

宗教とは何を目指しているのでしょうか?宗教の目的がよくわかりません。

祖父母の法事等で、宗教行事に触れる機会はあるのですが、この私の人生にどういう意味があるのかが、わかりません。

宗教の目的はなんでしょうか?

お坊様がたの信仰されている宗教について、その宗教とは何か?その宗教の目的とはなにか?

を教えていただけたら幸いです。

宜しくお願い致します。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

宗とする教え

宗教とは読んで字の如し、宗(むね)となる教え、宗とすべき教えです。
宗教の一つである仏教の目的は、心おだやかに過ごすことでしょう。

六道仙人さんは、お名前から、仏教に興味を持たれている方だとお見受けしました。
仏教の肝は、実践です。
・布施、何かを施す
・愛語、優しい言葉をかける
・利行、人のために行動する
・同事、相手の立場にたって考える
この四つの行に対し、矛盾を感じなければ、それは仏教の教えを宗とされている方とも言えます。

他人にやさしい言葉をかけたって意味がない、相手の立場より自分の立場という生活を送る人、他宗教を弾圧したり、爆弾テロを起こすようなことを宗とする教えもありますので。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、...

逆に、非宗教的、反宗教的という生き方を考えてみましょう。

世の中をごらんください。
いかに人間が反宗教的、非宗教的な生き方=欲・自己中な生き方をしているでしょうか。
その結果何が起こっているか。
宗教心、道徳心がなくなれば自己中、自我・エゴまるだし、自分の都合だけ良ければよいという非・宗教世界が生まれるのです。
身近な例では今の中国や韓国、日本だってそうでしょう。
中国では子供が車にはねられてもみて見ぬふり。
韓国では自分たちの勝利成功の為にはスポーツであっても手段を択ばない。
日本には宗教がかろうじて浸透しているように思われていますが、原発はたれ流し、ひた隠し。自殺者年間三万人、日々、目を覆いたくなるような犯罪。経済的に裕福であってもブータンほどの幸福度の高さがあるわけではなく、幸せな眼、顔をした人間は少ない。その事実に目を向けない。
これも自分たちだけは良い、自分たちは悪く思われないような、自分の都合さえよければよいという、まさに非・宗教的世界でしょう。先進国意識はあっても現実、今日も、暴力、強奪、性犯罪、親殺し子殺し、放火、虐待…。それが真の意味で先進国と言えるのか。精神的な豊かさが無いのは無宗教であるからで、人間のエゴ、自我を離れていないから。
そういう❝非・宗教心=我欲・エゴの心❞が平和や愛や慈悲とは真逆な世界を作り出しているのではないですか?
そういう意味で❝反宗教的❞であることの恐ろしさを意識してみてください。
みんなが謙譲、敬虔、寛容、愛、やさしさ、協調、調和がない。欲や怒りや恐れや苦しみに打ち克つことが無い。
私自身もそういう生き方をして矛盾を感じたからこそ宗教心の大切を痛感しました。
人間というもは宗教心が無ければ、首輪の無い犬とさほど変わらんところがあるのです。
あなた自身もいずれ様々な形の不安定を経験することがくると思います。
他人事でなく、じかに自分の身にピンチとして恐怖や苦しみを体験し、この世にいかに愛が足りなく、救われ、救いが不足しているかを感じられた時に宗教というものの必要性を感じ、自然に宗教を求めるようになると思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


私の個人的な意見ですが…。

私の個人的な意見で、同宗派であっても他のお坊さんとは同じでないかもしれません。
私はまだ未熟者ですし…。^^;
六道仙人さんの質問にそぐうかも少し疑問がありますが…。
そこらへんはご了承頂きたいと思います。
では、申させて頂きますね。^^

私は宗教は人の苦しみや生きる悩み、そして辛さを乗り越えるためにあると感じています。
それも人それぞれの立場によって環境によって、いろいろな苦しみや辛さがあります。
そんな全てを…たとえどんな人であっても乗り越える教えが宗教だと思っています。

宗教はあるだけでは意味がありません。信仰して初めて成り立つのです。
信じて仰ぐ…何を信じるのだと思いますか?
自分の外にある 自分とは別物の仏様を信じるのではありません。
仏様はあなたの心の中におられます。

(仏様という言い方が不慣れであれば「宇宙の真実」「宇宙の叡智」と置き換えても結構です。…本当は宇宙と言う言い方も小さいのですが…)

そのことに気づかず、人々は あらゆる困難の原因や、または救いを 自分の外に求めますが…。
信仰して行くと、自分という存在がどういったものであるのかが少しずつ実感を伴って解って来るのです。

おそらく覚ると全ての悩みや疑問は一瞬で何であるかが解り消えるのだと思います。

私が信仰しているのは真言密教ですので、多くを語る事は善しとしません。
信仰し、実感して行く事で多くの疑問や苦しみが消えて行きます。
そして縁ある人々を漏らさず救うように働きかける事ができる宗派だと思っています。

法事をキッカケとしてそういった道に気がつくというのも素敵な事だと思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


仏道に入門して36年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さん...

宗教考

六道仙人様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「宗教とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のこと」とウィキペディアにございますが、仏教でも如来・仏陀という人智を超えたる存在を扱うものの、決して私たち凡夫では成れないもの、遠い存在ではなくて、確かなる仏道を成就することによって、迷い苦しみから離れて、如来・仏陀の悟りの境地へと到ることを目指すことになります。その仏道を歩むための教えが「仏教」ということになります。

宗教の目的は、おおよそ、幸せや安楽、安心を得るため、あるいは、より良い生き方、人生を歩むためにあるかとは存じます。仏教ももちろんそのようであって、究極的な幸せ、安心、安楽としての「悟り」を得るために、(現世、来世両方へ向けて)悪い行いを成さずに、より善い行いを調えることによって、より良い生き方、人生を歩めるようにしていくということにもなります。

特には善い結果へと向けては、善い因縁(原因・条件)が必要であるとして、仏道を歩むため、悟りを得るための善い因縁を仏教を確かに学び修して集積していくことが大切となります。その善い因縁は簡単には「智慧と方便(慈悲行・利他行・善徳行)」となります。

さて、問題は歴史上においても、また現在においてもそうですが、宗教が時に争いや憎悪の原因となり悲劇が起こってしまうことでございます・・

本来の宗教の目的は、上記でも述べさせて頂いておりますように、「幸せや安楽、安心を得るため、あるいは、より良い生き方、人生を歩むため」にあるものかと存じております。それが、不幸や迷い苦しみ、悲しみの原因となってしまっては誠に本末転倒となります。

何故本末転倒なことが起こってしまうのか・・それは、全ての人たち、仏教的には衆生たちが、幸せ、安心、安楽となることを目的とせずに、自分、あるいは自分たちの集団さえ良ければいいというような、自己中心、自己満足、独善的な考え方がどこかにあるために生じる問題であるのではないかと考えます。そうではなく、いかに皆が幸せに、安楽、安心に過ごせていけるかを第一として、どの宗教でも、どの仏教の宗旨宗派においても考えていくことがまず大切になるのではないかと存じております。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


人類の永遠の福祉への貢献。

六道仙人さん こんにちは。

◎宗教の目的
ご質問の回答ですが、私の所属する浄土真宗では伝統的な各派が所属する団体として真宗教団連合という組織があります。

そこの憲章に目的が書かれているので一節を紹介しておきますね。
「真宗教団連合は、(中略)、真に時代に即応する教化活動を展開することにより、社会の不安と混迷を救い、もって、世界平和の進展と人類永遠の福祉に貢献することを目的とする。」

◎宗教とは
宗教というコトバは江戸時代末期、英語のreligionというコトバの訳語として使われ始めたようです。
最近は学校の授業で宗教について考える時間もあるようです。
藤原和博さんという方が「よのなか科ワークシート」のなかで宗教についても触れています。

・宗教というコトバを聞いたときにもつイメージについて、良いものと悪いものを各自挙げてみる。
・人気テーパパークやブランドと宗教が共通する部分、違う部分を知る。
・人気タレントと宗教団体の教祖が共通する部分、違う部分を知る。
・ファンと信者の違いを知る。
・人間はどんな時に神や仏にすがりたくなるのだろうか。

など、似た領域との比較など宗教儀礼以外の切り口で宗教についての考えを整理してもらえるとありがたいと思います。

植物の例でいいますと、おいしい実を食べたいことを最優先させると、自分の生活には葉や根の存在が無意味だと思えてしまいます。ただ、葉を取ってしまうと光合成ができなくなり、根を取ってしまうと土の養分ももらえず、貴を支えることもできなくなってしまいます。

自分の知識や感情ベースで無意味に思えるものがあっても、気にしないでいるか、排除したい気持ちになるかは人それぞれだと思います。
最近は根や派を必要としないクローン技術も進んでいるようで、宗教儀礼に意味を見いだせなく、目的を持たなければ役立たずの印象を持つ方も少なくないと感じております。

宗教屋が行う仏事儀礼が無意味の様に思えるのは僧侶の至らなさもあるので反省すべきところとも思っております。

長々と書いて失礼しました。
まだ20代ということでこれから先も宗教的な営みとかかわる機会があるかもしれませんが、疑問が晴れる何かの参考になれば幸いです。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


世の中なんか上手くいかない 他の人は幸せそうに見えるのが余計に辛い。...

浄土真宗は阿弥陀様の救いを聞かせていただく宗教です。

浄土真宗は阿弥陀様のお救いを聞かせていただく宗教です。

その目的は、いのち尽きた時、極楽浄土に仏として生まれること。また仏として六道に還って他のいのちを救う身にならせていただくことです。

これら全て100%阿弥陀様の本願力によってなせることであり、私はただこの本願のいわれを聞かせていただくだけです。

私のいのちの行き先は極楽浄土であり、仏になることが今確定しているこの人生は、ただお念仏申し報恩感謝の生活をさせていただくだけです。
何があってもゆるがないいのちの行き先を頂きます。

私にとって浄土真宗という宗教は、この穢土で煩悩を抱えながらも、絶対的な安心を頂けるものです。

是非、他の僧侶方も各々お答え頂きたいと願っております。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

「宗教について」問答一覧

宗教や宗派ってそんなに重要ですか?

宗派のラベリングに重要性が見いだせず、むしろ弊害を感じることが多いです。 (800文字と長めです。) 以前とある牧師さんに教わりました。「キリスト教は浄土宗とソックリだ。日本向けのローカライズのために、あえて仏教に化けて広めた可能性を疑う研究者すらいる(笑)」 真偽はさておき、個人的には同感です。核心部たる念仏などは酷似しており、言葉が違うだけで内容はほぼ一致かと(素人目には)感じています。となると、キリスト教と浄土宗の本質的な違いは何でしょうか?人智を超えた神仏を※※教だけが独占できると見なす構造にも疑問があります。 ここからが本題です。その違い(ラベリング)は、諸々の軋轢を覚悟してまで保つべき、重要な違いなのでしょうか? 些細な見解の差で派閥や宗派が分かれていき、しまいには宗教戦争が起こるのだとしたら、単なるセクショナリズムと何か違うのでしょうか?5%の違いのせいで協力できず、残り95%の共通点を捨てているように見えます。ましてや同じ宗派や寺院の所属でも、個人ごとに意見はバラバラだというのに。宗派の上納金制度?などを聞いても、宗派はいわゆるビジネス上の"のれん"に過ぎないのでは?との現実的な疑問も浮かびます。 問いの対象は浄土宗だけではなく、宗教と道徳の境界線についてです。話がそれますが、中東問題などを理解する上でも避けて通れないテーマです。奇譚のないご意見を頂けると嬉しいです。 問を整理します。 「学べば学ぶ程に、宗教や宗派のラベリングに重要性が見いだせません。むしろなぜ拘るのかわかりません。私に欠けている視点を、どうかお聞かせください」 以下は補足です。 私はキング牧師やガンジーを尊敬しています。彼らは別々の信仰を持ちつつも、※※教徒のためではなく、社会全体の差別撤廃のために活動しました。それでいて、全ては信仰に基づくと明言しています。このスタイルに敬意を持つ反面、宗教宗派のラベリングに違和感を持つということは、何かを見落としているのでしょうか? 宗教とか宗派に拘りがなく、人に言われるまで気づきもしないのはダメなのでしょうか?

有り難し有り難し 51
回答数回答 5

お先真っ暗

色々な人に助けられて何とか生きています。婦人科系の病気は中々手強いです。 私は一応キリスト教の信者なんです。もう20年以上も教会には行っていません。キリスト教では自殺は絶対に認めません。私が薬を買っただの飲むだなとここで言っていますが、どうしても理解出来ないんです。理由や原因が何であれ心身共に弱っていて命を絶ってしまった人の霊魂を受け入れないなんておかしいって神父様に言った事があります。頑張った、ギリギリまで頑張ったけど駄目だった人を、神から与えられた命を勝手に消したのは許されないなんて慈悲の神様がする事なんですか?って。結局水と油で教会には行かなくなりました。聖書をこの時くまなく読みましたが、自ら命を絶つ事は許されないと弟子が言っていて、イエズス・キリストは言っていないなと。こんな私がおかしいですが、自ら命をを絶った人の霊感が天国で安らかに過ごせます様にと祈っています。それは間違っていると神父さまが言ったので、もう教会には行かない事にしました。お坊様はどう思われますか?やれ薬をかったとか飲むとか言った私が聞くのは変かもしれませんが。 政府は決して認めようとはしませんが、CORONAの第1波が治らない内に明らかに第2波が日本を襲っていると思っています。益々主人は日本には来れないだろうと、もう一生会えないかもしれないとさえ感じています。婦人科系の病気はさっぱりです。治りません。通院に疲れています。でも、何とか生きています。息も絶え絶えです。

有り難し有り難し 28
回答数回答 2

宗教とは

祖父の葬儀の時に「死後の世界はこうなっています」と何層かになっている図の説明を受けました。 仏教に限らず死後の世界、天国地獄も含めて「あることは知っているでしょ」からはじまることが多く、「なんでだれも見たことないのにあるということになっているのか」が解りません。 さらに私の認識では例えば仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた、というイメージなのです。そう考えないと宗派毎の教典の違いや祭事の違いなど差が出てくることが理解できません。 宗教が絶対のもので揺るぎがないものであれば解釈が変わったり宗派が分かれたりするものではない。会派が別れたり解釈が変わるのは不完全な創作物である証かと思います。広めるために土着信仰と結びつくなどその尤もたるところです。 かなり偏った意見になっているのですが「こういうことになっている」だけで「なぜそういうことになっているのか」「それが間違いない検証は取れているのか」を説明しているものがあれば教えていただきたいと思います。 化学実験でいえば「再現性」、こうすればこうなる、というものです。それがなければ「どうなるか解らないのに信仰するの?」となってしまいます。 また、どうしても論理的に根拠がしっかりしているものでないと認められない性格なのですが、「いやいや宗教というのはそういうものじゃないんだよ」というのがあれば教えていただけないでしょうか。

有り難し有り難し 33
回答数回答 4

宗教、神道、スピリチュアル

今の世の中は情報で溢れています。 スマホって簡単にいろいろ調べることができて、情報で溢れかえっています。 心がツライときや精神的にしんどいときに、 精神的に弱く強くなりたいなぁ 傷つきやすい性格を変えたいなぁと思い、 検索魔になって検索すると、 あれやこれやいろいろ出てきて、 何が良くて何が悪いわけではないと理解していますが、情報が多すぎて、よくわからなくなってきます。 何がホントなのか?何を信じていいのか? きっと私意外にも藁をもすがる思いで、いろいろ検索する人もいると思います。 (確固たる宗教など崇拝してる方は、このような迷いはないかと思いますが…) 信じたいことだけ信じてればいいのでしょうか? 仏教的な目線は下記のことはどのように思われますか? 全ての出来事は引き寄せ? 出会う人や出来事は偶然?必然? 自分に起こる出来事は必ず必要? 乗り越えられない試練はない? 健康に問題があるときは暗示? 仏様にお願い?神様にお願い? 宇宙に任せる? 自分の胸にすーっと収まった言葉こそがご縁があり、その時に、ん?なんか腑に落ちないなって思う言葉は受け入れなければいいのでしょうか? そのような言葉でも後から受け入れるようになるかもしれませんが… 私自身、家に仏壇もあり仏教ですが、正直、意識するときはお墓まいりや法事の時だけです。ですが、今度はお墓があるお寺に仏教講座があるので、参加しようと思っています。 自分勝手な考え、散文、お許し下さい。 お手数お掛けします。よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 26
回答数回答 2

信仰ってなんだろう

私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。

有り難し有り難し 28
回答数回答 3

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る