hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

人の好かれない原因

回答数回答 2
有り難し有り難し 37

私は男女年齢を問わず人から好かれないのです。とりあえず話し掛けると話はしてもらえます。

同じママ友からは話し掛けないと話し掛けてもらえません。
男性には苦手意識も強いせいか私から話し掛ける事は少なく相手から話し掛けてももらえません。もちろん話し掛けてもらったら笑顔で不快に思われないようにまた話したいと思ってもらえるように頑張って話します。

みんなに好かれるとは思いません。そんな難しい事は望んでいません。
でも誰でもひとりやふたりには好かれてると思うんです。
私の交友関係を思い起こしても男友達はゼロ女友達も一人しかいません。

かろうじて結婚した元主人ですら離婚後一度も連絡無く子供達もお父さんに会えてない状況です。そんな私ですから彼もいないし出会い系で知り合った人も何人かいますがみんな一度会って友達にもなれず終わりです。今は無駄というか諦めというかまた同じ事だろうと思ってしまい出会い系もやっていないし出会いを求めていません。彼は出来ない一生ひとりだとそこは諦めました。

でも分からないのです。
小さい頃から人見知りで相手が同級生であろうと大人であろうと顔色を窺ってしまいます。それでも顔色を窺っても嫌われないように好かれるようにと笑顔で接するように相手が嫌がる事を言ったりしないようにマナーや言動に気を使ってきました。でも小学生・中学生の頃はいじめられてきました。
確かに太っているので容姿はよくありません。でも原因は太っているだけではないと思うのです。世の中に太っていても友達がいて彼がいる人はたくさんいます。

顔つきなんでしょうか。私から何か嫌なオーラが出ているんでしょうか。
なにが原因なんでしょうか。ひとりぼっちであることがとてもつらいです。
困った事があっても悩みがあっても相談する人頼る人がいない現実が本当につらいんです。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どんな友こそが本当に友か

お釈迦様は「私は万人の友である」と言われました。
悟りを得るという事はそういう様子が手に入るのです。。
坐禅などの仏道修行を通して、おのれを滅していくことで、自他の隔てが無くなりますから当然敵対心や隔てが無くなる。だから天然自然に相手と仲良くできるものです。
あなたにはそうなってほしいと思います。
また仏教では勝友といいまして、悟り、涅槃を求める仲間こそが勝友です。
利害も損得も優劣も勝ち負けもない。そういう達磨フレンド、法友、勝れる友を持つこってす。
お寺に坐禅会にでも来てください。
ウチでなくても他のお寺のイベントに参加してみてください。
仏教を通じたお友達、テラトモができるでしょう。
お寺の集い修行を通して誰とでもへだてなく接してみましょう。
本来誰とでも話せるようにできているのです。子供がそうでしょう。そういう生まれながらの隔ての無い誰もが持ち合わせている本来の心を仏心というのでしょう。私心や我心ではありません。
つまり、自分の理想や願望、おのれ意識が強くある人ほど友達はできにくいものです。
別にいなくたっていいのです。
「世の中に交わらぬとにはあらねども一人あそびぞわれはまされり」良寛
いわゆる友達とは理解者、共感者、同じ道を志すもの、同じ趣味を持つ人、価値観が同じ人…
そういう人だけが友達ではありません。
四六時中触れているものが私たちの友であり、支えてくれている存在です。
本当に本当の友達とは「私」「自分」を離れた人間が、私を離れた活動の中で、こちらもワタクシという心が無くなっていく。そんな人でしょう。
ナントなーく思い当たるところがあったオテラまでお越しやす。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

素晴らしい出会いと豊かな人生を

拝見させて頂きました。あなたのさみしいお気持ちを受け取らせて頂きました。信頼できる人や素直にお互いを分かち合うことができる友人がいないことはさみしくつらいことですよね。あなたはそのさみしさから開放されたいと願っておいでなのかと思いました。
ご質問の中で私から嫌なオーラが出ているのか?と書かれておりました。私はあなたのお姿を拝見したことがありませんので正直わかりません。ただやはり周りの方々へ素直なお気持ちでお向き合いなさることを控えておられるのかとは感じました。周りの方々が興味を持って親しみを感じて近づくにはやはり素直な開放的な明るい方の方が近づきやすいですよね。逆に暗く閉鎖的な方には近づきずらい印象を受けますよね。あなた自身はいかがでしょうか?じっくりとご自身を見つめなおして頂いてみても良いのではないでしょうか。そしてご自身で自分の望む自分自身を好きになれる自分をイメージなさってみて頂きたいと思います。またご自分に素直なお気持ちで向き合い素直な表情になって頂きたいと思います。
参考になるかわかりませんが、全国には様々な仏像があります。その姿はあまたの人々が理想とする姿として作られております。よく見ると素直な円満な表情の仏様のお姿です。それは人々が求めるありのままの姿です。あなたにも内面から素直て円満なお心をお持ち頂き、そしてありのままの表情が表れて周りの方々へと伝わりあなたに友好的なお気持ちを抱きそして様々な方々とのご縁が結ばれて頂きたいと思います。なかなか難しいかもしれませんが決して無理なくあなたのお気持ちに素直になさって頂きご自分を好きになって頂きたいと思います。あなたやあなたのお子様達にもこれから素直な出会いが訪れて大切な方々とのつながりの中で心から豊かな人生となられます様にと仏様やあなたのご先祖様にお祈りさせて頂きます。素晴らしい出会いと豊かな人生を。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

質問者からのお礼

御回答有難うございます。
幼い頃からのくせを治すには年齢を重ね過ぎました。
素直な気持ちは裏切られたりいじめられたりで失ってしまいました。
以前10年以上親交のあった社長から自分の会社に来て仕事をしてほしいと頼まれ務めていた会社を退職し働きました。DV.離婚・・といろいろありその会社も退職し引越しをしなければならなくなりました。退職する12月30日帰る前挨拶した際「この世の中お前を信用する人間なんかいない。誰がお前なんか信用するもんか」と言われました。忘れられません。順調に働いていた会社を退職し一生懸命働いて言われた最後の言葉です。

考えてみれば自分から相談しておいて御坊様の言葉を素直に受け止めれない時点で私には相談する資格は無いのかもしれません。でも、今の私は気持ちの余裕がありません。

明日の朝目が覚めなければいい、今日が寿命ならどんなにいいだろうそんな事しか考え思うことができません。自ら命を絶つことがどんなに愚かな事か分かっています。子供達の事がまだ頭の片隅にある間は愚行に及ぶことはないと思ってます。何もかももういいと思った時、何もかもの中に子供達が含まれた時が自分自身で決めた寿命と思います。

有難うございました。

煩悩スッキリコラムまとめ