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「仏教全般」問答(Q&A)一覧

解脱

 解脱は最高の「涅槃」から最低の「浄土」までレベルがあるようですが、日本の仏教は、目指すレベルに従って多宗派に分かれたようですね。  最初日本に齎された仏教は解脱の実践方法だったようです。  仏教の基本は真理の「般若経」、真実の「般若心経」、そして論理の「阿含経」で構成されていると思いますが、「阿含経」は南伝だったので、日本ではなじみが薄かったのでしょう。  これらを基本とする根拠は 金剛般若経の次のような記述に依ります。  説法の本質 「それはなぜか。スプーティよ。如来は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」  ところで、「阿含経」には解脱の処方迄示されています。  有縁  (南伝 相応部経典 12.23. 縁)  前略  比丘たちよ、そのように、無明を条件として行がある。(中略)愛→取。取→生。生→苦。 (ここまでは十二支縁起と同じ)  (続けて)苦→信。信→悦。悦→喜。喜→軽安。軽安→楽。楽→三昧。三昧→如実知見。如実知見→厭離。厭離→離貪。離貪→解脱。解脱によって煩悩を滅尽したと知るのである。  後略  如実知見→厭離。厭離→離貪、の意識が芽生えれば、 離貪→解脱、に至ります。  厭離は徳川家康の旗印「厭離穢土 欣求浄土」の事ではないでしょうか?  この世が「穢土」であることの認識が重要です。  これによって衆生は「浄土」、菩薩は「涅槃」を求めることになると思います。

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仏教的に見た、善人と悪人・罪人

10代の頃から悩みの多い人生で、未熟なまま大人になりました。 家庭を持ち30代になっても周囲に対して愚かな言動をしてしまい、人を気付けたり迷惑を掛けたりしてトラブルになってしまった事が複数ありました。 反省と後悔で苦しみながらこちらにもお世話になっています。 様々な問題を抱えており、これから先の人生に希望をなかなか持てずにいます。 ハスノハでもいろいろな回答を読み、特定の宗派と言うよりは、お坊さんのお話で自分にしっくりきたものを取り入れさせてもらっています。 ある宗教評論家の方が出されている本で、とても気になる事が書いてありました。 それは、「この世の中には善人も悪人も必要」 そして「人間は皆それぞれに役割が決まっていて、それぞれ精一杯にその役を演じれば良い」 更には、「お浄土へ行った時、仏様に労われるのは悪人・罪人の方」との事。 極端な物言いを売りにしているので、この抜粋だけでは著者の本意が伝わらないかも知れないのは恐縮ですが、お坊さん方はこの考えについて、どのようにお感じになりますか。 (ちなみに、誤解を恐れずに言うと、私は少し救われた気持ちになりました。 だからと言って、罪を犯していいとか人を傷付けていいとは決して思いませんし、著者もそういう意味では言っておられないと思います。) お坊さん方の見解をお聞かせ頂ければ幸いです。

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与えることと奪うことについて

布施として、他者に施しを与えることは良いことだと解釈されると思いますが、この行為が、相手の自立性等を奪うという不偸盗に触れるのではないかという懸念があります。 私の妻は、精神疾患を患っております(私も患っております。)。 彼女は根幹に「他者は敵」というような意識があるようで、周りからの様々な刺激に反応してしまい、苦しんでいます。 私との関係においても、被害者・加害者の対立構造をつくり、批難をしてきます(確かに当を得た批難もありますが、多くは上記対立構造に落とし込んだうえでの批難であり、八つ当たりと思われるものも含まれます。) このような彼女に対し、私は、「支えてあげよう」と思い、「今は勉強を頑張っているから」「今は精神的に疲弊しているから」と、家事のほとんどを私が行ったり、八つ当たりと思われるものにも耐えてきました(昔の、男が「おい」と言えば妻がお茶を持ってくるようなイメージも。)。 しかし、思えば、責め立てられたくないから、争いたくないから施すという打診的な部分もありました。 彼女の病状は良くならず、私がすることについても当たり前といった態度になり、「感謝の気持ちをもったほうが生きやすくなる」と諭しても、「そうやって家事を逆手に取るなら、やるな」という態度です。 私も疲れ、疲れた気持ちや嫌な気持ちを非公開アプリに書き込んでいたところ、それを見ては、「裏でそういう気持ちになっているなら、相談も弱音も吐けない」とのことです。 思えば、交際時より、いつの間にか、そのようなご機嫌伺いをするようになっておりました。 いつかは分ってくれると思いながら、仏教の布施を笠に着て、彼女に接した結果、実は彼女の自立の機会を奪う、不偸盗をおかしていたのではないかと思うようになりました。 どう考えればよいのか、そして、どう接していけばよいのか、ご教示いただければ幸いです。

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仏教を学びたいです。教えてください

長文になりますが、見て頂けますと幸いです。 私の曽祖父は神戸市須磨区にあります須磨寺というところで副住職をしていたと伝えききました。年齢的に戦前であったと思われますが、寺務所では確認できませんでしたので、定かではありません。その曽祖父が何らかの理由で須磨寺を離れ、神戸市長田区の善心寺というお寺へ移りました。その後曽祖父の娘婿さんが跡を継ぎ、現在は別の方が住職をされております。 この度祖母の四十九日法要を善心寺で行うこととなりましたので、縁は続いておるみたいです。 私の先祖代々のお墓は曽祖父が須磨寺へ建立しております。四十九日法要のあと、納骨は善心寺の方が須磨寺まで来てくださり行います。 私は今まで宗教に無関心でしたが、祖母が亡くなったことをきっかけに、祖母への感謝、後悔などの想いと真言宗の僧侶であった曽祖父の存在で仏教に関心を持ちました。 仏教をしっかり学び、ご先祖様への供養をしたく、また自分の生き方のヒントとしたく思っております。 私が曽祖父のことをもっと知りたいと思ったきっかけはもうひとつあり、私はご先祖様が守ってきてくださった苗字を受け継ぐ長男です。曽祖父には13人子供がおりその中で男が4人で13人兄妹の末っ子が私の祖父です。そして父、私となりますが、祖父の兄妹のお子様方は女性のみで苗字を守れる血筋が私の所だけとなっております。私は2人子供がおりまして2人とも男の子なので、ここからまた苗字を守れる子孫が繁栄してくれると願っております。 こういう経緯で偶然とは思えずご先祖様方の意志や願いなどを託されていると思うようになりました。 ⁡ 長くなり申し訳ございませんが何点かお聞きしたくよろしくお願いいたします。 ・私が真言宗の仏教を学ぶに当たり、善心寺のご住職へ師僧となって頂きたいと思うのですが、仕事をしながら仏教を学ぶために師僧となって頂けませんか?とお聞きすることは失礼に当たりますか? ・仕事をしながら得度し仏弟子として学んで行くことは可能ですか? ・私の菩提寺はお墓のある須磨寺だと思いますが、これから関係を深めるべきは善心寺でしょうか? ⁡ 私は父に血筋のことや宗派の話などあまり詳しく聞いてきませんでした。この度のご縁で私のルーツを知り自分の子たちへ受け継いでほしいと思っております。 長くなり申し訳ございませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

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歎異抄を読んで、自信をなくしてしまった

数年前に大好きだった祖母が亡くなりました。今、祖母の信仰していた浄土真宗について学んでいます。 (本当はお寺をお尋ねし、お坊様のもとで学ぶのが良いと聞きましたが、コロナ禍で、幼い子供もおりますので、You Tubeやhasunohaでお坊様のお言葉から学ばせていただいております。いつもありがとうございます) 先日、買い物帰りに倒れた自転車を見かけました。 通り過ぎようとしましたが、ふと恐れ多くも「阿弥陀如来様なら直すかな〜」と思い、結局その自転車を直して帰りました。 帰り道はそれなりに良い気分で、仏教を学んで私も良い人間になれたのかなと思いました。 でも、ふと、これはたまたま心に余裕があって直せただけじゃん。私が良い人間になったとかそんなこと思うのおこがましいな……と思い、 「たまたま私が人に親切にできるときには、それは私の人間性が良くなったからではなく阿弥陀如来様のはたらきがあったからだ」「でも、いい人になれなくても救っていただけるんだ」と気づきました。 その時、浄土真宗や阿弥陀如来様の教え・ありがたみが、とても腑に落ちたような気がしたのです。    そしてこれからは、念仏を唱えて、お釈迦様の教えをなるべく(全部は守れない凡夫なりに)守ることが、阿弥陀如来さまの御恩に報いることだ!とも思いました。生きる指針が見つかったような気がしました。 しかし、先日歎異抄を読み、自分の腑に落ちた答えが合っているのか、自信がなくなってしまいました。 考え直すと、自分の行いが御恩に報いることになるなんて自惚れです。 そして、私は正直あまり頭が良くないので、夫から「念仏に出会わず虐待されて死んじゃった子供は救われないの?」「どんな悪人でも、信じてなくても唱えればいいの?」とか聞かれたり、仏教の本を読んでて?と思うことも、「難しいことは考えても私には分からない。私は念仏を唱えればいい!」としていたのですが、これも自分の都合のいいように解釈し、助けてもらおうとしてるんじゃないかとモヤモヤしています。 浄土真宗門徒として、どんなふうに生きていけばよいのか、混乱してきました。お坊様からアドバイスがほしいです。また、こんなふうに仏教学べばよいというアドバイスもあれば嬉しいです。よろしくお願いいたします。

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厄年について仏教はどう考えますか?

以前の2回の相談では大変お世話になりました。あれから絵については難しいことはせず、3分間スケッチを続け、仕事も復帰して数ヶ月になります。お答えくださった お坊様方、ありがとうございました。 さて今回は厄年について質問があります。 付き合っている彼が今年大厄を迎えるので心配になり、神社かお寺に厄祓いに行こうと提案したところ、生来面倒くさがりで宗教を信じない彼は、迷信のためにわざわざお詣りに行くのは嫌だと拒否され、その日はケンカになってしまいました。私が本気で心配したのには、母から大厄の歳には必ず悪いことが起きる、特に身内に不幸があるという言い伝えのようなものをずっと聞かされてきたからです。実際父も大厄には遠方に転勤になり、祖父が亡くなりましたし、私も大厄には最愛のペットを亡くし、その後の厄年には(歳がバレますね(笑) 体調を崩し休職しました。 彼が厄祓いを拒否していることを当の母にポロリと話したところ、母は今度は家によって慣習が違うかもと言い出しました。 遠縁のおばさんの一家では、厄年の歳には神社に寄進し、友人親類には贈り物をし、周りの人にはとにかく親切にする、つまり施しをして厄を祓う習慣があるそうです。 少し調べた限りでは厄年に対する考えや行いは地域によって様々あるようです。厄というものはどちらかというと神道の分野ですが、仏教では厄というものをどのように見做しているのでしょうか?そして私は厄年にどう恐れずに向き合っていけば良いのでしょうか?仏教からの見解をどうかお聞かせください。

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