時々、仏教の本(初心者向けのもの)を読みます。 その度に「自分の考えや価値観は全部間違ってたんだ」「今までやってきたことや、好きだと思っていたことも、全部捨てた方がいいものだったんだ」などと考え、気分が落ち込んでしまいます。 (深く読み込んでいるわけではないので、誤解している点も多々あるとは思います) そういった本の表紙にはよく「心がラクになる!」と書いてありますが、今のところ少しでもラクになれたと感じた試しがありません。(そもそも、本気でラクになりたいと思うほどの悩みが今は無いのかもしれません) 一週間ほど経つとそんなことも忘れ、のほほんと普段通り暮らし始めるのですが、また仏教の本を見かけては読み、落ち込み…の繰り返しにはまっています。 主旨のよく分からない文章で、また、具体的な相談ですらなく申し訳ありません。 今の気持ちを読んでいただけるだけでも有難いのですが、もし、「こんな風に考えると良いかもよ」というアドバイスなど頂けましたら幸いです。
具体的に涅槃に達した人はどんな雰囲気なのか知りたいです。 誰かいますでしょうか?
諸行無常、諸法無我、中道は空(あらゆるものには実体がない)と同じようなことを表してるとおもうのですが。 これらの適用範囲は現象世界、現実のみなのでしょうか? 如来もダルマ(真理)も心も、空だと言った説も見かけるのですがそれぞれの正しい適用範囲を教えて下さい。
初めて相談させていただきます。 私はいつも神仏にお願い事をするときには他力本願ではなく、 「自力でやるのでお力添え・見守っていて下さい。」と唱えます。 それで叶うこともありますが、他人のことを願うとあまり叶いません。 闘病中の知人に病気を縁が切れるようにお願い後にまもなく他界。 応援しているスポーツ選手の優勝を願って最下位に。などです。 「自分が応援しない方が、祈らない方が良いのではないだろうか」とさえ思います。 応援したい気持ちがあるのに、どのようにするのがいいのでしょう?
私はどこの宗派に属しているわけでもありませんが、色々な書物を読むことが好きで、高校大学がカトリック系列であったため、聖書やキリスト教関係のものも少し読みました。祖父母は浄土真宗なので、般若心経も小さい頃から暗記するくらい読んで唱えて、大学院では国文学としての密教も少し学びました。どの教えも尊く、かつ興味深いのですが、中でもキリスト教の教えに「思うだけでも罪である」というのがありました。ここでの「思う」は、悪いこと、憎しみを思うことを指します。 確かに、「思う」だけで心におさめられることもありますが、「思」へば、それを実行してやろう(例えば、機会があったら悪口を言ってやろうとか。)という気にもなります。仏教(宗派は忘れてしまいました)にも似たような教えがあって、「良いことも悪いことも、思えばエネルギーがそちらに動いて、そのとおりに物事が進むようになる」とも。 ですので、何かマイナスの考えが浮かぶと「あー、ダメダメ。そういうこと思うのやめよ」と、なるべく自分に言い聞かせますが、なかなか思考はコントロールできないですよね。やはり、悪く思ってしまうこともあります。お坊様方は、自身の心の在り方を、どのように受け止めていらっしゃるのか、修行などによって、我々凡人よりも少し克服できるものなのか、伺ってみたいと思いました。
仏教の話の中で虫一匹も殺さない聖人はいましたか? 教えて下さい。 私もそんな人を見習いたいです
私は統合失調症です。病院に通いながら耐えて生きています。 お仏壇によく手を合わせますが、意味などないのでしょうか。 また、私は、人が救われたいと手を合わせてる神様や仏様こそが病にし災難を起こしているのではないのかとも思っています。 皆様にとって神仏はどんな存在ですか? そして、感謝が大切と言いますが、統合失調症のような自我が保てなくなる病気、気が狂う病気、心を失ってしまう病気がくれる良い側面はどんなものだと考えられますか。 私には、「反対に考えてみれば」こんな側面で良いことでもあったという見方が、自分の病気についてできません。 よろしくお願いいたします。
こんにちは。よろしくお願いします。 無量寿経に「唯除五逆誹謗正法」とありますがこの「正法」とはなんですか? もし「正法」というものがあるなら先祖の供養をこの「正法」でしたいと思うのですが。
離婚した両親が亡くなったのですが、 家族として扱われなく良くわからなくいますが、喪中はいつまでですか、 今7ヶ月目ですが、その最中別居中の夫の祖母がなくなりました、まだ喪中でしょうか
弥勒菩薩様と御縁があってお祈りをしています。 その前から恵比寿様と大黒天様もお祈りしており、 丁度七福神繋がりで一緒にお祈りした方が良いのか、布袋尊とは別と考えて別々にお祈りした方が良いのか悩んでいます。 弥勒菩薩様としても、布袋尊としてもお祈りしたいのですが、名文を読むと弥勒菩薩 様の沢山の化身の内の一つが布袋尊なのかなと思えてきます。 弥勒菩薩=布袋尊は同一と見て、恵比寿様、大黒天様と一緒にお祈りしても問題無いでしょうか?
いつもお世話になっております。こちらの先生方のお説法を拝読し、 なるほど、と思うことがたくさんあり、有難く勉強をしております。 私には、最近仲良くなった友人がおります。なんと不思議なご縁で、 学生時代は、私の不躾な振る舞いから、私を嫌っていたのですが、 近所に住んでいることが分かってから、道で会うたび 「ロータスさん!元気?」 などと、後ろから肩を叩かれるなどするようになり、仲よくしたい、 連絡先を交換しよう、ということになり、「実は…」と、私の障害を 打ち明ける、ということがありました。 「あなたに不快な思いをさせるのが、とても怖い。不快な事が あったら、教えてくれ」 と私が述べると、 「いいよ。でも、それは、ロータスさんじゃなく、障害のせいだと 思っておくよ」 と言ってくれました。 私が、お寺や神社に頻繁にお参りすることを、この友人は知って います。「今、〇〇寺にいるよ」とスーツに半袈裟を付けた自撮り 写真(もちろん、お堂の外で撮影)を送ったとき、 「襟のその綺麗な布は何?どうして、着けているの」 と返信が来、回答に困りました。その時は、仏具店のホームページに 書いてある事を引用し、答えました。 そこで、 「ロータスさんの信じている、仏教ではどんな事が説かれているの?」 と訊かれたとき、何と答えようかと考えました。 現時点では、神秘性を強調するなどしては、霊能者や新興宗教と 同一視されてしまう可能性を危惧し(ただでさえ、世間一般には 混同されている気がするので…)、 「物事には必ず、科学的(現実的)に、言葉で説明できる原因や、 法則性がある。何かが起きたら、神様仏様のお見守りの下、その原因や 法則性を明らかにして、苦しみを減らして、地に足をつけて生きよう、 っていう教えだよ。もちろん、色んな人や物、現象への感謝も忘れずに」 と、説明しようと思っています。 いかがでしょうか?私の見識は間違っておりますでしょうか? ご評価、お待ちしております。
今年で旦那が42歳になります。本厄です。旦那の親から先日、本厄の厄落としのためにと10万円送られてきました。厄払いや厄落としのために周りの人たちに丸いものを送るようにと。私は自分の厄年は、長男の出産のため、厄落としはしませんでしたし、お金をいただいものは、出産返しにかわりました。旦那は、私を信用してくれておらず、使い込んだと言います。私は、緊急をようさない限りは、お祝いのお金は使わないようにしています。この度の10万円も、私が使い込むと思われていてかなりショックです。旦那は私以外の家族には優しいです。子どものためにはまだ離婚はしていません。厄年ってそんなに根積めて考えるものですか?私が悪く言われないといけないのでしょうか?
よく様々な本やサイトで如来、菩薩、明王、天の順でランクがあり、それぞれの役割が紹介されています。 仏頂尊に興味があるのですが、仏頂尊はどこら辺のランクでどんな役割があるのでしょうか?
お読みいただき、ありがとうございます。 人間誰しも大なり小なり、後悔はあるかと思います。私もいろいろ後悔があり、何年も、下手したら10年、20年前のことでもあの時アレがなかったら…、あの人がいなければ…、もっとあの時にあぁしておけば今頃は…、と未だによくクヨクヨと後悔する時があります。そしてそれをなんとか取り返す術はないかとどうしようもないことを考えてしまう時があります。 ただ、なぜか今日ふと突然「違う…『あの時アレがなければ、こうしていれば』とか『もっと今頃はこうなっていたはず』というのは自分はもっとこうであるはずなのに、という歪んだプライド、驕りの妄想でしかない。確かに「俺のせいではない」「なんで俺だけ」と言いたくなる出来事もあったかもしれない。でもその出来事に対する反応も含め、他の人なら違う行動が取れたかもしれない。結局は自分の器が自分があると信じて疑わなかったよりもずっと小さかった、ただそれだけのこと。」という考えがスッと頭に入ってきました。 そう考えると諦め(仏教的には明らめというのかもしれません)の気持ちというか、もうそんなに頑張らなくてもいい、人から見たら惨めな失敗の人生かもしれないけど、足るを知るで手に入ったものに感謝して、満足して、楽しく暮らしていけばいい、と思う一方で、やはり自分を、自分の可能性を信じることをやめた悔しさ、寂しさを感じるというか、そのような気持ちで生きていくと、いつか人生の終わりを迎える時に「なぜ俺は自分を信じて、少しでも挽回出来るようにと頑張らなかったんだろう」と自分の人生の時間の使い方を悔やむような気持ちを持ってしまいそうな気もしています。 そこでお聞きしたいのですが、仏教的な視点からいうと、いい諦めと悪い諦めってあるのでしょうか?違いはどのように考えたらいいのでしょうか?これが絶対正解、というのはないと思いますが、仏教ではこんな話がある、といったものでも、お聞かせいただけると幸いです。
いつもお世話になってます。 今回、ボクが聞きたいことはタイトル通り「厄払いの効果と悪いことの断ち切り方」です。 詳細は以前ご質問させて頂きました。 今月の29日で事が起きてから1年が経とうとしています。 1.ボクがしてきた悪いこと(違法行為)を完全に消すことはできませんが、厄払いをしたらどのような効果が出るのか気になったので質問をさせて頂きました。 2.悪いこと(違法行為)の断ち切り方を教えて下さい。 今現在、定期的(月に1、2回)カウンセリングに通ってます。 いつの日にか家族みんなで笑って過ごせる日が来ることを祈っているのですが、麻薬のフラッシュバックみたいな反応が出てしまうのではないかと心配な自分がいます。 そうならない為にも断ち切り方をご伝授願います。 長々と申し訳ございません。 お時間がある時で構いません。ご返信まってます。
いつもお世話になっています。 最近は、神棚とお仏壇に手を合わせることが増え、心が落ち着いて過ごせることが増えました。 とてもありがたいと思っています。 そんな中で、キリスト教のマリア様の像に心惹かれて、授かりたいという気持ちがあります。 ですが、仏教に帰依させていただきたいと思っているので、そんな私がマリア様の像を持つことは、仏様に対してもキリスト教の神様に対しても礼を欠くのではないかと思っています。 私は、マリア様の像を持ってもいいのでしょうか?持つべきではありませんでしょうか? 御回答どうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。 いつも坊様の説法を拝読し勉強になっていますが、学んだことを理解し知識として頭に蓄えてるだけであって、私自身が何も変わっていない。所謂、行動が伴っていない状況です。 私の解釈ですが、知識=頭の理解 智慧=心の理解 心=価値観、判断基準だと捉えています。(間違っていたら指摘してください) 私の事例ですが、知識は豊富になればなるほど、俺は賢くなったと勘違いして(仏教的に理解していない)他者を見下したり批判し攻撃をする道具に成り下がってしまいます。それによって人間関係が悪くなったりもしました。 その貴重な知識を自分自身に向けて体験的に理解をすることで智慧に変換できると思うのです。実践することは、とても難しいことですが。その正しい智慧によって価値観や判断基準が変わり行動することによって人生が良くなると思うのですが、その知識から智慧に変換する方法が分からないのです。解りずらい文章で、すいません。坊様はどのように実践されてますか?
仏教の世界観について調べていてWikipediaの三界のページを読んだのですが、そこに書いてあった游空天(游虚空天)の日月星宿天というのが気になって調べてみたのですが、情報が見つからず質問しました。 ちなみにWikipediaの出典には『正法念処経(中国語版)』卷第二十二、『三界安立圖』、『阿毘達磨大毘婆沙論』ほか。と書いてありました。 これらの解説本などご存知でしたら教えていただけると有り難いです。