長文で失礼致します。 急ぎの相談ではありませんので、お時間のある際にお話いただければ幸いです。 もう1点、伺いたいことがあるのですが、お坊さま方もお忙しいと思い、別の機会にさせていただきます。 父親のいなかった私たちを、親代わりになって育ててくれた祖父が先日他界しました。 母や叔父と叔母にとっては、優しくも厳しい一面もある父親だったそうですが、孫全員には優しく頼もしく接してくれて、「いい思い出」しか残っていません。 ここ数年は持病が悪化し、コロナ禍ということもあり、楽しみにしていた大勢で食事を楽しむ機会を設けれなかったことだけは心残りです。 入院先の配慮で、最後にお話をする機会があり、駆けつけた祖母・母と叔父・叔母、孫全員と話をすることができたのが幸いです。 「遅くまでいると迷惑がかかる」と祖父に促され、亡くなる前日の別れの際にかけられた言葉が印象的でした。 「じーちゃんが死んだ後、コロナが収まったらな、ばーちゃんに会いに行ってやってくれ」 最後まで祖母を思う優しさ、そして。 「ありがとう……また、会おう」 この言葉は、もしかすると生きて会えるのは最後とわかっていて、「来世」でまた会おうという意味だと私は受け取りました。 葬儀をお願いした元々ご縁のあるお寺のご住職も、「今の別れは、ゆくゆくは浄土で再会するまでの一時的なもの」とお説法をされていたので、受け取り方は違ってなかったのかなと思うのですが、いかがでしょうか?
三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫。三虫(さんちゅう)三彭(さんほう)伏尸(ふくし)尸虫(しちゅう)尸鬼(しき)尸彭(しほう)ともいう。 60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる。 日本では平安時代に貴族の間で始まり[1]、民間では江戸時代に入ってから地域で庚申講(こうしんこう)とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまった。 道教では人間に欲望を起こさせたり寿命を縮めさせるところから、仙人となる上で体内から排除すべき存在としてこれを挙げている ウィキペディアからコピーさせていただきました。 こちらの文章を読んだ上でご質問させていただきます。 質問ですが・・、本当に3匹の虫が体の中に入っているのでしょうか? とある小説でこのような事を知りました。 正直、今までこんな事知らなかったので、怖いです。 60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられと wikiに書かれていますが・・・、 寝ないで1日越した方がよいでしょうか?あまりいい気分がしないので教えていただけると嬉しいです・・。 お坊さんの方々もこの日は何か特別な事はやってらっしゃるのでしょうか?
こんにちは。お坊さんの妻帯について質問です。 よく日本のお坊さんの妻帯が「堕落」として批判されることが ありますが、妻帯は堕落と言えるほどの問題なのでしょうか? 日本仏教に限らず韓国やチベット、ネパールにもお坊さんの 妻帯を認める宗派はありますし、 タイでは「男性は一生に一度は出家する」という慣習に従って、 既婚者でも出家することが少なくないそうなので、 「妻帯」=「堕落」としてしまうのは早計ではないかと思います。
何点かお聞きしたいことがあります。 ①仏典にある通り、女性は仏にはなれないのか。(変成男子は除く) そうであれば何故なのか、そうでなければいけない理由は何か。 ②上記に関連して、比丘尼に対して具足戒や厳しい戒律を課したと聞いている。 ブッタはどのような考えでそれを課したのか。 ③デーバダッタの反逆は、当時のサンガが有力者等に色々と寄進・援助もあり、かなり豊かだったことにも起因していると聞いている。それに対して500人といわれるディーバダッタについていった人を諭した内容は、どういったものだったのか。(ブッタではなく長老2人) 以上、ご教示ください。 よろしくお願いいたします。
過去にとあるお寺でお坊様に悩みを相談したところ、心無い言葉を言われ深く傷ついた者です。 発言に傷ついたことを伝えると、それは煩悩のせいだぞ、自分が絶対正しいと思っているからそんなことを言うんだ、と責められてしまいました。 それは貴方もですよね?と返せば、僕は凡夫だからね仕方ないよと開き直られ・・・。 仕方なく相談料を払ってお寺を後にしました。 しかし、よく考えたら信仰している時点でその考えが正しいと思っているということですよね。 否定されればお坊様とて反論するでしょう。 それは煩悩とは違うのでしょうか? 自分が正しいという考えと何が違うのでしょうか? もしも気分を害されたらすみません。 お坊様がどのように考えておられるかとても気になりまして。 いろんなお坊様の意見が聞きたいです。
お坊さんたちに4つ質問がございます。 どんなに難しい回答となってしまっても構いませんので(仏教を勉強して頑張って理解します)、何卒よろしくお願いします。 ① 人はなぜ、自分自身によって「よいもの・正しいもの」と判断したものを否定されると、自分という存在が否定されたのだと思ってしまうのでしょうか。 ② 人はなぜ、自分という存在が否定されたと思うと、反射的に絶望した感覚へと陥ってしまうのでしょうか。 ③ 人はなぜ、この「絶望した感覚」によって自ずと苦しんでしまうのでしょうか。 ④ 「諸法無我」という教えが仏教にはありますが、上記の一連の流れをリアルタイムで実際に感じている「その“感覚”」及び「主体」も「諸法無我」なのでしょうか。もしそうであるならば、どうすれば「その“感覚”及び主体は諸法無我である」と実感できるのでしょうか。
こんにちは。日本仏教と権力についての質問です。 時々「日本仏教は政治権力に迎合していたため堕落してしまった。」 というコメントを見かけるのですが、 日本仏教は本当に権力に迎合していたのでしょうか? また、仏教では権力や権力者は「悪」なのでしょうか? 私には権力が嫌いな特定の思想を持った人達が 大げさに言っているだけのような気がします。
五体投地のやり方が知りたくて調べたのですが、チベットの話ばかりでてきてしまいました。 日本仏教の各宗派にも五体投地はあると思いますので、やり方を教えていただきたいです。 どのような作法で行えばいいのでしょうか。細かいやり方が知りたいです。 また、どのような場面で行うものですか。お寺に参拝したときに御本尊に向かって行なってもいいのでしょうか。 やる回数は一般的に何回くらいか、五体投地をする前後にはどんな作法があるか(読経など)、宗派ごとのやり方の違いなど、詳細に教えていただけるとうれしいです。
初めてご相談させていただきます。 私は最近縁があり、お寺の側に家を持ちました。ちなみに真宗大谷派のお寺です。 元々私は神社が好きで、仏教はあまり好きではなかったのですが、折角隣になったのだからお寺や仏教を好きになりたいと思い、仏教について勉強などを始めてみました。神仏習合についても勉強しました。 しかし、仏教の教えはとても素晴らしいと思うのに、「でも日本固有の神道と違って仏教は異国から来た宗教」「仏様は死んだら救ってくれるけど生きている人間にはは何もしてくれないんじゃないか」などと考えてしまいます。 家を買う際、「神社とお寺は違う」と分かっていたはずなのにそこをなぁなぁにしてしまった自分にも腹が立ちます。 こんなことを仏教徒の皆様に聞くのは失礼だと思うのですが、どうすれば仏教を好きになれるか、アドバイスをいただけましたらありがたいです。 まとまらない文章で申し訳ありません。
こんにちは。 以前こちらでお世話になった者です。その節は相談にのっていただき、ありがとうございました。 先日母の四十九日法要を終えたのですが、そこで二つの疑問が浮かびました。 ①成仏とは何か ②お経の内容(現代語訳)は何か 法要で「お経は生きている人に向けてのもの」と伺い、以上のような疑問が湧いた次第です。 お経は亡くなった人が成仏できるように唱えるものだと思っていたので、大変驚きました。 疑問を調べてみたところ、「仏教は今を生きるための知恵」とありました。 亡くなった人は、遺族が"今"を生きることで成仏するのでしょうか。 また、「生きるための知恵=お経」なのでしょうか。母を亡くした寂しさと悲しみを乗り越え、前向きに生きていくために"生きるための知恵"を具体的に知りたいです。 無学で恥ずかしい限りなのですが、二つの疑問について教えていただけると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。 ※ちなみに宗派は日蓮宗です。葬儀や法要では南無妙法蓮華経を唱えました。
何度か利用させていただいております。 精神的に不安定でとても辛い時も、わけのわからない内容で恥ずかしいのですが、心のこもった回答をいただきました。 職場で仲間外れにする嫌な人が一部いたり、以前の仕事から外れてしまったり、悔しさの中で自分なりに一生懸命やって、仏様は見ていて下さっているとか気持ちの持ち方の回答をいただいて救われました。 最近は仏教やお寺に興味がわいてきて、 本当はお寺を訪ねたいのですが、最近はなかなか外出もままならず… せめて内容を知りたいと思い、何か仏教入門書のようなお薦めの本があれば、教えていただけますか? あまり難しくなくて読みやすいものがいいのですが… 仏教の教えや生きていく上でのヒントなどわかれば…と思っています。 よろしくお願いいたします。
今回は非常に個人的な悩みとなります。 私は最近、仏教について調べたり、考えたりして、一種の信仰心を持つようになりました。(他人には一切信仰を公言してません)他人が悲惨な目にあったニュースを見聞きしたり、電車の人身事故があった時などは、心の中で南無阿弥陀と唱えるようにしてます。(宗派とかはよくわからないので、とにかく心で唱えるようにしてます)ただ、この教えはどの宗派かはわかりませんが、南無阿弥陀を唱えると、仏様が極楽浄土へ連れて行ってくれるという話を聞いたので、正直、他人のためではなく、唱えることにより自分が死後、安らかな場所に行けるように唱えていると考えてしまいます。 そこで2つ質問があります。 1 心の中で南無阿弥陀と唱えるだけでも良いことですか?また、他人に亡くなった方に対して唱えることは良いことなのでしょうか? 2前述したように、南無阿弥陀と唱えることは、自分が死後安らかに過ごせるようになるためであり、それは他人の為ではないという考えが少なからず自分の中にあります。純粋に他人の為に仏教に信仰心を持つにはどうすれば良いのでしょうか? この先は質問と関係無く、ただhasunohaのお坊さんへの感謝と自身の信仰に関する話です。 いつも悩みを聴いてくださり本当にありがとうございます。1人では考えきれない事を今までお坊さん方は真剣にアドバイスしてくださり、以前あった私の死にたいという気持ちも随分と楽になりました。本当にありがとうございます。また、このサイトがきっかけで、宗教とは非常に遠かった私の中に信仰心が生まれました。正直、極楽浄土や地獄、仏様など、目に見えない世界に関しては半信半疑です。しかし、過去の仏陀やお坊さん、そして現在のお坊さんなどが人々の為に幸せや平穏を願った。そして今も願っているという事実は変わりません。そしてその事実が現実に対して言いようのない不安に駆られていた私にとって光です。誰かの幸せの願う心の存在こそ私の救いです。皆さんの考える仏教への信仰とは全く違う形かもしれませんが、私は仏教をこのように信仰してます。 そしてこれからも、お坊さんのように誰かの幸せを願う人でありたいです。質問とは関係はありませんが、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
仏教で、どうか救って下さい。生きるのが辛く、苦しいです。四諦を見てこの世はまず苦しみだらけと理解し、次に煩悩、渇愛、貪欲が自分を苦しめるものと理解し、諸行無常といういつか不幸は起こるもの、覚悟しろという形を学び、諸法無我にて我執を捨て煩悩を無くそうとしました。合ってますか? つまり仏教とは「この世は全て嫌な物ばかり。だから愚かしく間違って何も願うな期待するな、何にも叶うわけがない非情さが常だ、夢なんて見るな、そんなくだらん欲を捨て、自分を一切酷く殺して、何も感じないようにして、傷ついても痛覚を無視して、死人のように生きろ」という意味なのでしょう? それでも仏教は救ってくれるのですか? ちなみに、僕はこの意味を自分の意見として持っているし、しかし本当は何を伝えたいんだ、と疑問を抱いています。仏教は、一体何をどう救ってくれるのですか? できるだけ、簡単に教えて下さい。
お忙しい中、質問を読んで頂きありがとうございます。 経年劣化のためお数珠の買い替えをすることになりましたが、房が濃い紫色だと失礼になりますか? 御坊様の衣や昔は身分が高い人が紫を着用していたことを思い出し、房の色の選び方に迷っています。 紫の房は避けるべきでしょうか? 宗派を問わず、避ける色などありましたら教えてください。
素人が五鈷杵などを持つことはやはりやめておいた方がいいですか?? できれば理由も教えてください。
自分は仏教について全く詳しくありません。 しかし、仏教を辞めたという知り合いから先日こんな事を言われました。 一切皆苦、四苦八苦、諸行無常… 仏教は当たり前の事を言ってるだけで、何の救いも無い宗教だと分かった。 この世の中は抗えない事が多いから、諦めて受け入れて、死になさい。 そういう宗教だと分かった…と。 本当にそうなのでしょうか? 住職の方々の意見をお聞きしたいです。
(編集部より。投稿の一部を変更しています) 彼氏がある宗教に入っており、 御釈迦様の力は2000年程前からなくなった。だからお坊さんになんかしてもらっても成仏できない。大聖人様を信じる人しか成仏できないと言ってます。 また、戒名や登板は金儲けでなんの意味もないと言ってます。本当のところはどうなんでしょう?
仏の心とは大慈悲これなりとはどういう意味でしょうか。出来れば分かりやすく教えて頂きたいです。
年末多忙の時期、しかもコロナ禍のさなか、恐れ入ります。 かれこれ10年前、勤めていた職場をリストラで追われ、どうにか生き延びて参りました。10年をへて、その当時の慢心や、先般ついに手帳まで頂いた障害など、自分自身の上に反省すべき点も多々見い出しつつあります。 にもかかわらず、その当時、とある方から言われた言葉がやはり折に触れて脳裡に甦ります。しかも抗弁しようにも、その方は数年前に急逝なされ、いまはお浄土に。その言葉とは、 「ピンチに出くわして、すぐに救いの手が伸びて来ないのは、人徳がない証拠」 というものです。なるほどな、とも思わされますが、同時にやはり、「ちょっと待ってくださいよ!」という思いもございます。 そのかたは生前、仏教者として特色ある活動をなさった人であり、みだりに批判することは倫理的にも強く躊躇(ためら)われます。それでも、そのかたがお遺しになった会社が、今般のコロナ禍でかなり四苦八苦している様子を人づてに聞かされますと、心の中に「どうしました?人徳がないから左前になるんですよね?」という、どす黒い思いが湧いてこないと言えばウソになってしまいます。 そのかたとは私がリストラされるまで、ご縁あって、幾度か帰り道に御一緒したこともあるのですが、10年前、突然の(……会社側からすれば兼ねて計画していたとおりの)リストラで苦痛の極にあった私へ、「君の声は某宗教の布教師どもの声そっくりだ。不快きわまる!」というお言葉もいただいております。自分は声がやや甲高いので、それが不快感を与えてしまったのか…と思い余った末、喉仏に男性ホルモンか何かを注射して治してもらおうとすら考え、これは家族みんなに止められました。 さて、ようやく立ち直ろうとしている今、この疑問に対する自分なりの答えも日ましに脳裡で形をなしつつあります。このうえ回答僧諸師をお煩わせするのはいかにも申し訳ないと思いつつも、皆様の多年にわたる御回答経験の中から、大所高所に立ったお言葉を頂けたらと念じております。 もっとお苦しみのかたが沢山いらっしゃいます。でも、どなたかお手すきの折に何か無形の御守りともなりそうなお言葉を頂けたら幸甚です。以上、ここまでお読みくださいまして、誠にありがとうございます。
大学で仏教の授業を受けてから、仏教がとても怖い教えだと思うようになってしまいました。 仏教は怖い教えではないですか?