何点かお聞きしたいことがあります。 ①仏典にある通り、女性は仏にはなれないのか。(変成男子は除く) そうであれば何故なのか、そうでなければいけない理由は何か。 ②上記に関連して、比丘尼に対して具足戒や厳しい戒律を課したと聞いている。 ブッタはどのような考えでそれを課したのか。 ③デーバダッタの反逆は、当時のサンガが有力者等に色々と寄進・援助もあり、かなり豊かだったことにも起因していると聞いている。それに対して500人といわれるディーバダッタについていった人を諭した内容は、どういったものだったのか。(ブッタではなく長老2人) 以上、ご教示ください。 よろしくお願いいたします。
過去にとあるお寺でお坊様に悩みを相談したところ、心無い言葉を言われ深く傷ついた者です。 発言に傷ついたことを伝えると、それは煩悩のせいだぞ、自分が絶対正しいと思っているからそんなことを言うんだ、と責められてしまいました。 それは貴方もですよね?と返せば、僕は凡夫だからね仕方ないよと開き直られ・・・。 仕方なく相談料を払ってお寺を後にしました。 しかし、よく考えたら信仰している時点でその考えが正しいと思っているということですよね。 否定されればお坊様とて反論するでしょう。 それは煩悩とは違うのでしょうか? 自分が正しいという考えと何が違うのでしょうか? もしも気分を害されたらすみません。 お坊様がどのように考えておられるかとても気になりまして。 いろんなお坊様の意見が聞きたいです。
お坊さんたちに4つ質問がございます。 どんなに難しい回答となってしまっても構いませんので(仏教を勉強して頑張って理解します)、何卒よろしくお願いします。 ① 人はなぜ、自分自身によって「よいもの・正しいもの」と判断したものを否定されると、自分という存在が否定されたのだと思ってしまうのでしょうか。 ② 人はなぜ、自分という存在が否定されたと思うと、反射的に絶望した感覚へと陥ってしまうのでしょうか。 ③ 人はなぜ、この「絶望した感覚」によって自ずと苦しんでしまうのでしょうか。 ④ 「諸法無我」という教えが仏教にはありますが、上記の一連の流れをリアルタイムで実際に感じている「その“感覚”」及び「主体」も「諸法無我」なのでしょうか。もしそうであるならば、どうすれば「その“感覚”及び主体は諸法無我である」と実感できるのでしょうか。
こんにちは。日本仏教と権力についての質問です。 時々「日本仏教は政治権力に迎合していたため堕落してしまった。」 というコメントを見かけるのですが、 日本仏教は本当に権力に迎合していたのでしょうか? また、仏教では権力や権力者は「悪」なのでしょうか? 私には権力が嫌いな特定の思想を持った人達が 大げさに言っているだけのような気がします。
五体投地のやり方が知りたくて調べたのですが、チベットの話ばかりでてきてしまいました。 日本仏教の各宗派にも五体投地はあると思いますので、やり方を教えていただきたいです。 どのような作法で行えばいいのでしょうか。細かいやり方が知りたいです。 また、どのような場面で行うものですか。お寺に参拝したときに御本尊に向かって行なってもいいのでしょうか。 やる回数は一般的に何回くらいか、五体投地をする前後にはどんな作法があるか(読経など)、宗派ごとのやり方の違いなど、詳細に教えていただけるとうれしいです。
初めてご相談させていただきます。 私は最近縁があり、お寺の側に家を持ちました。ちなみに真宗大谷派のお寺です。 元々私は神社が好きで、仏教はあまり好きではなかったのですが、折角隣になったのだからお寺や仏教を好きになりたいと思い、仏教について勉強などを始めてみました。神仏習合についても勉強しました。 しかし、仏教の教えはとても素晴らしいと思うのに、「でも日本固有の神道と違って仏教は異国から来た宗教」「仏様は死んだら救ってくれるけど生きている人間にはは何もしてくれないんじゃないか」などと考えてしまいます。 家を買う際、「神社とお寺は違う」と分かっていたはずなのにそこをなぁなぁにしてしまった自分にも腹が立ちます。 こんなことを仏教徒の皆様に聞くのは失礼だと思うのですが、どうすれば仏教を好きになれるか、アドバイスをいただけましたらありがたいです。 まとまらない文章で申し訳ありません。
こんにちは。 以前こちらでお世話になった者です。その節は相談にのっていただき、ありがとうございました。 先日母の四十九日法要を終えたのですが、そこで二つの疑問が浮かびました。 ①成仏とは何か ②お経の内容(現代語訳)は何か 法要で「お経は生きている人に向けてのもの」と伺い、以上のような疑問が湧いた次第です。 お経は亡くなった人が成仏できるように唱えるものだと思っていたので、大変驚きました。 疑問を調べてみたところ、「仏教は今を生きるための知恵」とありました。 亡くなった人は、遺族が"今"を生きることで成仏するのでしょうか。 また、「生きるための知恵=お経」なのでしょうか。母を亡くした寂しさと悲しみを乗り越え、前向きに生きていくために"生きるための知恵"を具体的に知りたいです。 無学で恥ずかしい限りなのですが、二つの疑問について教えていただけると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。 ※ちなみに宗派は日蓮宗です。葬儀や法要では南無妙法蓮華経を唱えました。
何度か利用させていただいております。 精神的に不安定でとても辛い時も、わけのわからない内容で恥ずかしいのですが、心のこもった回答をいただきました。 職場で仲間外れにする嫌な人が一部いたり、以前の仕事から外れてしまったり、悔しさの中で自分なりに一生懸命やって、仏様は見ていて下さっているとか気持ちの持ち方の回答をいただいて救われました。 最近は仏教やお寺に興味がわいてきて、 本当はお寺を訪ねたいのですが、最近はなかなか外出もままならず… せめて内容を知りたいと思い、何か仏教入門書のようなお薦めの本があれば、教えていただけますか? あまり難しくなくて読みやすいものがいいのですが… 仏教の教えや生きていく上でのヒントなどわかれば…と思っています。 よろしくお願いいたします。
今回は非常に個人的な悩みとなります。 私は最近、仏教について調べたり、考えたりして、一種の信仰心を持つようになりました。(他人には一切信仰を公言してません)他人が悲惨な目にあったニュースを見聞きしたり、電車の人身事故があった時などは、心の中で南無阿弥陀と唱えるようにしてます。(宗派とかはよくわからないので、とにかく心で唱えるようにしてます)ただ、この教えはどの宗派かはわかりませんが、南無阿弥陀を唱えると、仏様が極楽浄土へ連れて行ってくれるという話を聞いたので、正直、他人のためではなく、唱えることにより自分が死後、安らかな場所に行けるように唱えていると考えてしまいます。 そこで2つ質問があります。 1 心の中で南無阿弥陀と唱えるだけでも良いことですか?また、他人に亡くなった方に対して唱えることは良いことなのでしょうか? 2前述したように、南無阿弥陀と唱えることは、自分が死後安らかに過ごせるようになるためであり、それは他人の為ではないという考えが少なからず自分の中にあります。純粋に他人の為に仏教に信仰心を持つにはどうすれば良いのでしょうか? この先は質問と関係無く、ただhasunohaのお坊さんへの感謝と自身の信仰に関する話です。 いつも悩みを聴いてくださり本当にありがとうございます。1人では考えきれない事を今までお坊さん方は真剣にアドバイスしてくださり、以前あった私の死にたいという気持ちも随分と楽になりました。本当にありがとうございます。また、このサイトがきっかけで、宗教とは非常に遠かった私の中に信仰心が生まれました。正直、極楽浄土や地獄、仏様など、目に見えない世界に関しては半信半疑です。しかし、過去の仏陀やお坊さん、そして現在のお坊さんなどが人々の為に幸せや平穏を願った。そして今も願っているという事実は変わりません。そしてその事実が現実に対して言いようのない不安に駆られていた私にとって光です。誰かの幸せの願う心の存在こそ私の救いです。皆さんの考える仏教への信仰とは全く違う形かもしれませんが、私は仏教をこのように信仰してます。 そしてこれからも、お坊さんのように誰かの幸せを願う人でありたいです。質問とは関係はありませんが、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
仏教で、どうか救って下さい。生きるのが辛く、苦しいです。四諦を見てこの世はまず苦しみだらけと理解し、次に煩悩、渇愛、貪欲が自分を苦しめるものと理解し、諸行無常といういつか不幸は起こるもの、覚悟しろという形を学び、諸法無我にて我執を捨て煩悩を無くそうとしました。合ってますか? つまり仏教とは「この世は全て嫌な物ばかり。だから愚かしく間違って何も願うな期待するな、何にも叶うわけがない非情さが常だ、夢なんて見るな、そんなくだらん欲を捨て、自分を一切酷く殺して、何も感じないようにして、傷ついても痛覚を無視して、死人のように生きろ」という意味なのでしょう? それでも仏教は救ってくれるのですか? ちなみに、僕はこの意味を自分の意見として持っているし、しかし本当は何を伝えたいんだ、と疑問を抱いています。仏教は、一体何をどう救ってくれるのですか? できるだけ、簡単に教えて下さい。
お忙しい中、質問を読んで頂きありがとうございます。 経年劣化のためお数珠の買い替えをすることになりましたが、房が濃い紫色だと失礼になりますか? 御坊様の衣や昔は身分が高い人が紫を着用していたことを思い出し、房の色の選び方に迷っています。 紫の房は避けるべきでしょうか? 宗派を問わず、避ける色などありましたら教えてください。
素人が五鈷杵などを持つことはやはりやめておいた方がいいですか?? できれば理由も教えてください。
自分は仏教について全く詳しくありません。 しかし、仏教を辞めたという知り合いから先日こんな事を言われました。 一切皆苦、四苦八苦、諸行無常… 仏教は当たり前の事を言ってるだけで、何の救いも無い宗教だと分かった。 この世の中は抗えない事が多いから、諦めて受け入れて、死になさい。 そういう宗教だと分かった…と。 本当にそうなのでしょうか? 住職の方々の意見をお聞きしたいです。
(編集部より。投稿の一部を変更しています) 彼氏がある宗教に入っており、 御釈迦様の力は2000年程前からなくなった。だからお坊さんになんかしてもらっても成仏できない。大聖人様を信じる人しか成仏できないと言ってます。 また、戒名や登板は金儲けでなんの意味もないと言ってます。本当のところはどうなんでしょう?
仏の心とは大慈悲これなりとはどういう意味でしょうか。出来れば分かりやすく教えて頂きたいです。
年末多忙の時期、しかもコロナ禍のさなか、恐れ入ります。 かれこれ10年前、勤めていた職場をリストラで追われ、どうにか生き延びて参りました。10年をへて、その当時の慢心や、先般ついに手帳まで頂いた障害など、自分自身の上に反省すべき点も多々見い出しつつあります。 にもかかわらず、その当時、とある方から言われた言葉がやはり折に触れて脳裡に甦ります。しかも抗弁しようにも、その方は数年前に急逝なされ、いまはお浄土に。その言葉とは、 「ピンチに出くわして、すぐに救いの手が伸びて来ないのは、人徳がない証拠」 というものです。なるほどな、とも思わされますが、同時にやはり、「ちょっと待ってくださいよ!」という思いもございます。 そのかたは生前、仏教者として特色ある活動をなさった人であり、みだりに批判することは倫理的にも強く躊躇(ためら)われます。それでも、そのかたがお遺しになった会社が、今般のコロナ禍でかなり四苦八苦している様子を人づてに聞かされますと、心の中に「どうしました?人徳がないから左前になるんですよね?」という、どす黒い思いが湧いてこないと言えばウソになってしまいます。 そのかたとは私がリストラされるまで、ご縁あって、幾度か帰り道に御一緒したこともあるのですが、10年前、突然の(……会社側からすれば兼ねて計画していたとおりの)リストラで苦痛の極にあった私へ、「君の声は某宗教の布教師どもの声そっくりだ。不快きわまる!」というお言葉もいただいております。自分は声がやや甲高いので、それが不快感を与えてしまったのか…と思い余った末、喉仏に男性ホルモンか何かを注射して治してもらおうとすら考え、これは家族みんなに止められました。 さて、ようやく立ち直ろうとしている今、この疑問に対する自分なりの答えも日ましに脳裡で形をなしつつあります。このうえ回答僧諸師をお煩わせするのはいかにも申し訳ないと思いつつも、皆様の多年にわたる御回答経験の中から、大所高所に立ったお言葉を頂けたらと念じております。 もっとお苦しみのかたが沢山いらっしゃいます。でも、どなたかお手すきの折に何か無形の御守りともなりそうなお言葉を頂けたら幸甚です。以上、ここまでお読みくださいまして、誠にありがとうございます。
大学で仏教の授業を受けてから、仏教がとても怖い教えだと思うようになってしまいました。 仏教は怖い教えではないですか?
全体: 仏教はこの世が苦しくてたまらない人が解脱or楽になる為に信仰している。 今回のタイトル: 全く楽にならない。 なぜ 1楽にならない助けて!というと本人の思考、もしくは生まれる前の前世が最悪だったからというどうしようもない提案をされる。 さてその本人の考え自身も、彼自身が会得したものではないという事すら苦しみなのです。 人を殺めていいという環境に生まれた人が、別環境に押し込められて考え方を根性で変えよ!というような暴論。 また前世は証明されたわけではないのにどうしようもない変えようがない物をあげて耐えろ!という暴論。 2信じないのなら離れろ!という暴論 信じないのなら離れて、消えて。みたいな事を言われます。だとしたら楽にならないけど仏教を続けて一部の人は楽になるのに一部の人は楽にならないわけでそれ自身が苦しみになるのでは? ブッダの考え方はとても好きだけど、その後の仏教の考え方が嫌いな場合でも信仰をやめて離れろよ?的な暴論が苦しい。 論理を求めたから仏教にたどり着くのに論理がしたいなら仏教の論文でも書け!みたいな無理な事を求めるのは根拠はない!根拠は俺!みたいな考えではないですか?それこそ私が嫌いなものです苦しみの根源です。 3圧倒的な不幸な人より煩悩にまみれた仏教徒の方が幸せ スマホに、結婚や性行為に、家に、車に、欲しい物に、他の生物を食べて生きる事、を普通にやってて、それ以下の苦しみしか得てない人は一切幸福が得れない。 結局煩悩を満たす為に欲を満たすしか方法がないという事なのではないか?という結論に至りそう。 4論理的に反論できない時は、修行が足りないorその人に聞いてみろ。その人の不幸は実際に本人の気持ちにならないとわからないという逃げ。そしてその中に内包するお前はそんな事情も知らないで嘆いてるんだろ?という攻撃。 修行なんていつまで続けるか?という区切りがありません。だとしたら楽にならないのでは?という事。また早く死ぬ可能性もあるわけで惨憺たる人生のまま亡くなってしまう事もあるわけでその人自身は苦しむ為に生まれたの?を否定できなくなる。 5織田信長は天下を取れたという事。 彼は焼き討ちしたのに幸福な人生を生きた。 ↓ 楽になりたいのです。さて上の説明を含めてどうすれば良いでしょうか?
1年前にも同じような質問をしたのですが 41願のことを「信心を得たものは諸根が具足する」と書いてある本があって(蜂屋賢喜代という方の四十八願講話という本です)、それなら 身体が具足することが信心を得た証拠になるじゃないか、おかしいじゃないかと思っていろいろな善知識の方に相談しました。 すると先生のように、身体は関係ない、と様々な方からいろいろな理由で言われました。香月院深励師の本には『初住以上の菩薩』と書かれてありました。 そこで素直に「そうだな、合理的に考えて41願以降の願が念仏者に向けられているとは考えられないし、41願のことは考えなくていい」と思えればよかったのですが、なぜか「41願によって信心を得たものは諸根が具足する」という思いが1年ほど強迫観念のように頭にありました。 今も、前ほどではありませんが、1日に何度も「41」という数字が頭に浮かびます。これは疑いなのでしょうか? この不審があっても、往生の障りにはならないのでしょうか。念仏や生起本末には疑いがないのですが、この不審が頭に浮かぶたびに 「こんな心じゃ往生できない」と思ってしまいます。 けれど今はもう不審の「内容」は嘘だと分かっていて、41願の内容は念仏者ではない菩薩のことだと思っています。 この心は蓮如上人の言葉で言うと、自力の心を振り捨てて、の自力の心なのか、妄念妄執がおこるのもとどめるにあらず、の妄念妄執の心なのか、専門的に言えばどちらなのでしょうか 長文失礼しました。変な質問ですみません。ご返事いただければ幸いです。
先月、父が亡くなり、葬儀場から火葬場まで霊柩車に棺を乗せ移動し、火葬前に僧侶の方に読経して頂き、火葬炉に棺を納める時に僧侶の方がベル?鈴?(名前が分かりません)のような物を鳴らして誘導?しているように見えたのですが、それには何か意味があるのですか? また、ベル?鈴?の名前を知りたいです。 ちなみに私は曹洞宗なのですが、宗派により異なるのでしょうか? よろしければ、お教え下さい。