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「仏教全般」問答(Q&A)一覧

2022/05/02

自分の行為は大丈夫なのでしょうか

こんばんは・・、とても不安というかもう一番過去一番ダメなのかもしれないと思う事を相談させてください。 頭の中にお釈迦様のお名前や阿弥陀如来さま・薬師如来さまのお名前が出ることがあり、私は頭の中でお釈迦さま・阿弥陀如来さま・薬師如来さまは凄い人とか凄い方だと言ってる事があります。 ですが、とても上から目線すぎるのではないかなと・・・・・。 とある質問を投げかけて、回答に答えてくださった人があるサイトの一文を コピー(されたと思われる)載せました。 仏法を聞いて「今日の話は良かった」などと誉めることも謗法罪になります。誉めるということは評価しているということです。仏法を評価するということは、釈迦より上の立場になっており、いわゆる「上から目線」であり、釈迦に説法している状態です。 と記載されており、自分の頭の中によぎった時に頭の声に上の方に書いてある事を言っていますが、とても失礼な事を言っているような気がします。 自分のこの行為は謗法罪に当たるのではないでしょうか・・。 とてもじゃありませんが、許されるような事ではない気がします。 もうダメ済むような問題ではなさそうなのですが、どうなんでしょうか。 教えてください

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2022/04/25

ダンマパダ76番について

 いつもお世話になっております。本棚からダンマパダを見つけ、読み 始めました。さすがお釈迦様、勉強になると思い読んでいたのですが、 深遠なみ教えですから、私の頭では理解しがたい箇所も多くあります。  この中でもダンマパダ76番、 「おのが罪過を指摘し過ちを告げてくれる聡明な人に出会ったならば、 その賢い人に付き従え。隠してある財宝のありかを告げてくれる人に 付き従うように。そのような人に付き従うならば、善いことがあり、 悪いことはない」  叱ってくれる方の存在は貴重だと一般的に言われ、私もそう思います。 私の訪問看護師も、私が知らずのうちに間違ったことを言ったりしたり すると、「それは違う」と告げてくれ、有難いと思っています。  時折見かける「ありのまま」「がんばらなくていい」思想も危険性を はらんだものだとも思います。(何のために就労移行訓練所や生活訓練所 があるのかということです。特に就労移行訓練所は業界でもお稽古が厳しい と言われています。生活訓練所も、割合にはっきり注意されます)  しかしながら、隙あらば他者の粗拾いをする人、例えば私は精神科病棟 への入院歴があるのですが、そこの古株的な患者さんが、私が髪を梳かし ていると僅かに跳ねた水滴を見つけて 「そこ、濡れてるわね」 などと言ってきたり(私は水を使っていない)、  以前の質問で触れたような、職務中の警察官などを突如捕まえ 「お前たちはだらしない愚か者だ」 などと怒鳴り散らし、周りの人にまで本人たちに聞こえよがしに同様の 事を訴える人…  ワイドショーやバラエティーで、 「若者はこんなにいい加減だ、平然とこんな事をする」 などと一事が万事のように特定グループの人々を一緒くたにして 糾弾したり…  これも「罪過を指摘し告げてくれる聡明な人」に入るのでしょうか。 「罪過を聡明に告げてくれる」のと「激しい、汚い言葉で相手の粗を 論う」のは紙一重な気がします。  後者の人を聡明だと思って付き従っていれば、逆に自分の心身を 滅ぼしてしまうような気がします。  「聡明」とは何でしょうか?  モラル・ハラスメントや、「ただ人の粗を拾いたい人」との違いの 見極めはどうすればよいのでしょうか?  ご教授のほど、よろしくお願い致します。

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2022/04/13

釈尊の悟りは神通力を得た結果?

 仏教には「一切智」という言葉があるそうですね。下記の資料で知りました。 2021-01-12  一切智とは三明のこと  仏陀は、6年間にわたる苦行(断食行と止息行からなる)は、何ももたらさないと考え、スジャーターからもらった乳粥を食べ、瞑想に入ります。 そこで、四禅を行じ、三明を得ます。 この三明こそ、仏陀の悟りを解き明かすものです。 仏陀が言う一切智とは三明のことです。 三明とは、宿住智、天眼智、漏尽智のことです。 【宿住智】についての記述 わたしは欲するままにさまざまな過去の生存を思い起こす。 すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、十万の生涯、幾多の消滅の劫、幾多の生成の劫、を思い起こす。 そこにおいては、わたしはこのような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。 そのわたしはそこから死没してこのところへ再生し、そこでも、このような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。 そのわたしはそこから死没し、この世へ再生した。 このように様々な過去の生存を、様相と細かな状況ともども、思い起こす。 (後略)  この桁外れの記憶力は神通力に依るものではないでしょうか?「欲するままに思い出すことが出来る」とは単なる記憶ではなく神通力を発揮したときそれが可能になると考えられます。 更に濾尽智ではより深い瞑想にふけり、宿住智以上の神通力を深め、それよりはるかに遡って物質誕生以前の宇宙まで見通して得た、実体がない「空性」を発見したのです。  駒沢大学学長を歴任された水野弘元先生は著書「釈尊の生涯」で次のように語られています。「後夜には、世界人生の真理に関する智慧としての濾尽智通(濾尽明)を得たとせられる」と表現されましたが、「世界」は多分「諸法」の翻訳と思われますのでこれを「宇宙」と翻訳されていたら「世界人生」が「宇宙人生」即ち「宇宙生成に関する智慧としての濾尽智通」となり、世間の注目を浴びて早い段階で「空性」とは何かが明確になったと思います。

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2022/04/11

仏教は反権力主義?ご信徒様との付き合い方

 いつもお世話になっております。  毎週、近所のお寺の法座に上がってお勤めをしているのですが、 数年前に通うようになった2人の奥様が気に掛かるのと、それに付随 した10年来の疑問があります。  法座が終わるとお堂の外に出て皆さんで世間話をするのですが、 お寺の境内でするにはあまりにも不適切な内容の話で奥様が 盛り上がります。 「皇族の@@殿下は頭が悪い」 「@@(大企業)の社長、旅行に行ったきり帰ってこなければいいのに」 「政治家の@@は裏でこういう事をしているそうよ。嫌ね」 というような、大企業、皇室、政治家などといったいわゆる「力ある 人」の醜聞や誹謗中傷です。  私も一時期、聞かなければ失礼かと思ってそれにお付き合いして しまっており、別の参詣者様が後ろで 「信じらんない…」 と呟いていたのを聞き、同類視されたと思い、あまりのショックで 帰宅して嘔吐しました。  お寺に全く行かない私の知人も、 「お寺に行かない私でも、そんな話はお寺でする話じゃないってわかる」 と言っていました。  1人の奥様は栄養士の資格を持っているので、役に立つ事を教えて くれます。それはありがたいので聞きます。しかしそういった悪い ゴシップが始まると、私は一緒くたにされたくないので 「お先に失礼いたします。お疲れ様でした」 と言って早々に離脱するようにしました。  先述のように、普通はお寺で人の悪口や醜聞など語るべきではないと 思っています。  権力に歯向かうのが功徳になるとでも思っているのでしょうか。 昔通っていて今決別した寺院も、住職が 「@@主義は仏法に通じる」 と公言し、寺報で政策を優しさの中に激しさを包含する言葉で批判する などしていました。まるで過激派の機関誌です。  私は当時体調がよくなく、でも家に籠っているのは嫌なので日参を していたら寺の職員全員から執拗な嫌がらせを受けました。  別のお寺でも、境内で防犯キャンペーンをしていた警察の人に 大声で暴言を吐き、言い終わった後にお坊さんを捕まえ、警察の人が 聞こえるように警察の人を指さして喚き散らしていた人を見たことが あります。  せっかく気持ち良くなりたくてお寺に来ているのに…これも修行 でしょうか。私の対応は適切ですか?また、仏法は反権力主義 なのですか?  ご教授よろしくお願いいたします。

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2022/04/08

日常的にお釈迦様の教えに触れたいです

以前、上司からのパワハラについてこちらで相談させていただきました。 その後、仏教について改めて調べました。お釈迦様の考えを思い出すことで、少しだけ仕事でのストレスが減ったように感じました。 その経験から日々、何かしら仏教の教えに触れたいと感じるようになりました。   仏教については幼稚園と大学が浄土真宗真宗大谷派で、お釈迦様の教えと親鸞聖人については少しだけ知っています。 しかし、お釈迦様の教えに触れられる方法で私が知っているのは教えを幼稚園児が学べるようにした歌のみ、物としては手元には大学からもらったお守り的なお数珠があるのみです。   祖父が住職だったこともあってか、小さな仏様の像は家にあるのですが、他の家族の部屋にあり私はあまり入ることができませんし、入ることができても仏様に手を合わせることしか仏教に触れる方法が分かりません。 ネットや図書館で探してみても、同じ宗派でも内容がさまざまでよく分かりませんでした。 また、転勤族のため特定のお寺の檀家ではなく、気軽にそういった相談ができるお寺がありません。   そこで ・宗派的にどのお経を唱えれば良いのでしょうか ・大学でもらったお守り的な数珠は身につけた方が良いのでしょうか ・念持仏など小型でも仏像を持った方が良いのでしょうか ・念持仏をお迎えすることとなった場合、真宗大谷派では阿弥陀如来一佛を本尊としていますが、干支守り本尊は不動明王である場合はどちらを選べば良いのでしょうか ・檀家でなくても、同じ宗派ならお寺にお話を聞きに行っても良いのでしょうか。   以上を質問させていただきたいです。 無知ゆえ、お坊さんからすると当たり前のことをお尋ねしているかもしれませんが、教えていただけますと幸いです。

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2022/03/31

仏や神の教えを信じれなくなりそうです

母や父の周りも住職さんや僧侶の知り合いが多く仏教の教え等胸に刻んで生きてきました。この世は修行の為にあり、体は借り物のため物事に執着をあまりせず、人には優しくし困った人には施しを行い、ご先祖様や神様仏様は見えずともいて彼らを敬い粗末にしてはいけない。 人にしたことは必ず自分に返ってくるから見返りは求めずに善行を積みなさいと教えられ生きてきました。 最近度重なる不幸が続き、この世が修行だとしても心が折れそうです。 善行を詰んでいたのは無意味だったのではないか。 私だって人に施したり助けたりではなく助けられたい、甘えたい。 会社でも善行の積んだおかげか、ある程度の地位に若くしてなることができましたが。頼られることはあっても頼れることは少なく、人生修行の一環だとしてもこんなに辛いならなんの為に教えに沿って生きてるかわからなくなりました。 理不尽にもほどがあり、こんなに理不尽続きならもうなにもかも諦めて投げ捨ててしまいたいと思ってます。 それでも修行の一環は続くのでしょうか。仏様や神様の教えにしたがってた私は何一つ報われないのでしょうか。辛すぎます。 なにか少しぐらい救われたっていいのではないかと悲しい気持ちに負けそうです。 お坊さん方はどのようにこの様な気持ちを乗り越えたりするのでしょうか。よろしくお願いします。

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2022/03/28

現世安穏後生善処 

 この言葉は私が最も好むこの世の処世術です。  私がこれを知ったのは数年前、法華経のCD販促の新聞広告ですが、その解釈が「現世安穏とは、自分だけが幸せになることではありません。お釈迦さまのいう幸せは、他の多くの人々の幸せがあって初めて自分の幸せがある、ということです。」 となっていました。  あまりの意訳に唖然としたのですが、釈尊の説教は判りやすく伝えていますから、直訳で充分の筈です。   これは多分最も貧しい村に、弟子らが布施が少ないと反対したのを振り切って説教に赴いたときの言葉ではないかと想像します。  貧しさで苦しみと恨みに満ちていたところを、現世は心にとって仮の姿であるから安穏な気持ちを持って過ごすようにすれば、後生は良いところに生まれるよと諭したのだろうと想像します。  貧しくなくても人間関係で苦しみや恨みも生じやすいので、それをプラス思考で安穏に過ごせば、後生は吉報が待っている気がします。  現世では生きるために直接、間接の殺生を積み重ねていますから、通常の人間にはその悪業は免れません。今生は今更悪行を我慢したり改めることなく、後生に「精進料理」を残して置いて、安穏を優先するのが良策かと思っています。  しかし果たして後生にその記憶が残っているかは心もとない限りです。  互いに安穏であれば争いも少なくなるし、自殺の心境では後生で更に悪化するので、思い止まるきっかけにもなるでしょう。

有り難し有り難し 8
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2022/03/10

解脱

 解脱は最高の「涅槃」から最低の「浄土」までレベルがあるようですが、日本の仏教は、目指すレベルに従って多宗派に分かれたようですね。  最初日本に齎された仏教は解脱の実践方法だったようです。  仏教の基本は真理の「般若経」、真実の「般若心経」、そして論理の「阿含経」で構成されていると思いますが、「阿含経」は南伝だったので、日本ではなじみが薄かったのでしょう。  これらを基本とする根拠は 金剛般若経の次のような記述に依ります。  説法の本質 「それはなぜか。スプーティよ。如来は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」  ところで、「阿含経」には解脱の処方迄示されています。  有縁  (南伝 相応部経典 12.23. 縁)  前略  比丘たちよ、そのように、無明を条件として行がある。(中略)愛→取。取→生。生→苦。 (ここまでは十二支縁起と同じ)  (続けて)苦→信。信→悦。悦→喜。喜→軽安。軽安→楽。楽→三昧。三昧→如実知見。如実知見→厭離。厭離→離貪。離貪→解脱。解脱によって煩悩を滅尽したと知るのである。  後略  如実知見→厭離。厭離→離貪、の意識が芽生えれば、 離貪→解脱、に至ります。  厭離は徳川家康の旗印「厭離穢土 欣求浄土」の事ではないでしょうか?  この世が「穢土」であることの認識が重要です。  これによって衆生は「浄土」、菩薩は「涅槃」を求めることになると思います。

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2022/03/07

仏教的に見た、善人と悪人・罪人

10代の頃から悩みの多い人生で、未熟なまま大人になりました。 家庭を持ち30代になっても周囲に対して愚かな言動をしてしまい、人を気付けたり迷惑を掛けたりしてトラブルになってしまった事が複数ありました。 反省と後悔で苦しみながらこちらにもお世話になっています。 様々な問題を抱えており、これから先の人生に希望をなかなか持てずにいます。 ハスノハでもいろいろな回答を読み、特定の宗派と言うよりは、お坊さんのお話で自分にしっくりきたものを取り入れさせてもらっています。 ある宗教評論家の方が出されている本で、とても気になる事が書いてありました。 それは、「この世の中には善人も悪人も必要」 そして「人間は皆それぞれに役割が決まっていて、それぞれ精一杯にその役を演じれば良い」 更には、「お浄土へ行った時、仏様に労われるのは悪人・罪人の方」との事。 極端な物言いを売りにしているので、この抜粋だけでは著者の本意が伝わらないかも知れないのは恐縮ですが、お坊さん方はこの考えについて、どのようにお感じになりますか。 (ちなみに、誤解を恐れずに言うと、私は少し救われた気持ちになりました。 だからと言って、罪を犯していいとか人を傷付けていいとは決して思いませんし、著者もそういう意味では言っておられないと思います。) お坊さん方の見解をお聞かせ頂ければ幸いです。

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2022/03/02

与えることと奪うことについて

布施として、他者に施しを与えることは良いことだと解釈されると思いますが、この行為が、相手の自立性等を奪うという不偸盗に触れるのではないかという懸念があります。 私の妻は、精神疾患を患っております(私も患っております。)。 彼女は根幹に「他者は敵」というような意識があるようで、周りからの様々な刺激に反応してしまい、苦しんでいます。 私との関係においても、被害者・加害者の対立構造をつくり、批難をしてきます(確かに当を得た批難もありますが、多くは上記対立構造に落とし込んだうえでの批難であり、八つ当たりと思われるものも含まれます。) このような彼女に対し、私は、「支えてあげよう」と思い、「今は勉強を頑張っているから」「今は精神的に疲弊しているから」と、家事のほとんどを私が行ったり、八つ当たりと思われるものにも耐えてきました(昔の、男が「おい」と言えば妻がお茶を持ってくるようなイメージも。)。 しかし、思えば、責め立てられたくないから、争いたくないから施すという打診的な部分もありました。 彼女の病状は良くならず、私がすることについても当たり前といった態度になり、「感謝の気持ちをもったほうが生きやすくなる」と諭しても、「そうやって家事を逆手に取るなら、やるな」という態度です。 私も疲れ、疲れた気持ちや嫌な気持ちを非公開アプリに書き込んでいたところ、それを見ては、「裏でそういう気持ちになっているなら、相談も弱音も吐けない」とのことです。 思えば、交際時より、いつの間にか、そのようなご機嫌伺いをするようになっておりました。 いつかは分ってくれると思いながら、仏教の布施を笠に着て、彼女に接した結果、実は彼女の自立の機会を奪う、不偸盗をおかしていたのではないかと思うようになりました。 どう考えればよいのか、そして、どう接していけばよいのか、ご教示いただければ幸いです。

有り難し有り難し 10
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2022/02/19

仏教を学びたいです。教えてください

長文になりますが、見て頂けますと幸いです。 私の曽祖父は神戸市須磨区にあります須磨寺というところで副住職をしていたと伝えききました。年齢的に戦前であったと思われますが、寺務所では確認できませんでしたので、定かではありません。その曽祖父が何らかの理由で須磨寺を離れ、神戸市長田区の善心寺というお寺へ移りました。その後曽祖父の娘婿さんが跡を継ぎ、現在は別の方が住職をされております。 この度祖母の四十九日法要を善心寺で行うこととなりましたので、縁は続いておるみたいです。 私の先祖代々のお墓は曽祖父が須磨寺へ建立しております。四十九日法要のあと、納骨は善心寺の方が須磨寺まで来てくださり行います。 私は今まで宗教に無関心でしたが、祖母が亡くなったことをきっかけに、祖母への感謝、後悔などの想いと真言宗の僧侶であった曽祖父の存在で仏教に関心を持ちました。 仏教をしっかり学び、ご先祖様への供養をしたく、また自分の生き方のヒントとしたく思っております。 私が曽祖父のことをもっと知りたいと思ったきっかけはもうひとつあり、私はご先祖様が守ってきてくださった苗字を受け継ぐ長男です。曽祖父には13人子供がおりその中で男が4人で13人兄妹の末っ子が私の祖父です。そして父、私となりますが、祖父の兄妹のお子様方は女性のみで苗字を守れる血筋が私の所だけとなっております。私は2人子供がおりまして2人とも男の子なので、ここからまた苗字を守れる子孫が繁栄してくれると願っております。 こういう経緯で偶然とは思えずご先祖様方の意志や願いなどを託されていると思うようになりました。 ⁡ 長くなり申し訳ございませんが何点かお聞きしたくよろしくお願いいたします。 ・私が真言宗の仏教を学ぶに当たり、善心寺のご住職へ師僧となって頂きたいと思うのですが、仕事をしながら仏教を学ぶために師僧となって頂けませんか?とお聞きすることは失礼に当たりますか? ・仕事をしながら得度し仏弟子として学んで行くことは可能ですか? ・私の菩提寺はお墓のある須磨寺だと思いますが、これから関係を深めるべきは善心寺でしょうか? ⁡ 私は父に血筋のことや宗派の話などあまり詳しく聞いてきませんでした。この度のご縁で私のルーツを知り自分の子たちへ受け継いでほしいと思っております。 長くなり申し訳ございませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

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