自分は真宗の門徒なのですが、大乗非仏説を未だにどう消化すればいいか分かりません。文献学的な事実として、大乗経典は歴史上のお釈迦様が説いたものではないと思っています。しかし信仰はあります。「当時の人が苦しい状況から抜けるために書いたんだろうな」とも思いますが、法蔵菩薩の五劫の思惟や兆歳永劫の修行は疑えません。 「当時の人が苦しい状況から抜けるために書いたんだろうな」というのが間違っているのでしょうか?仏教学的、専門的、もしくは信仰的に、導いてくだされば助かります…
他国の仏教と比べて(中国・チベット・インド・韓国・タイなど)、日本仏教の特色とはどのようなものですか?詳しく教えてください。よろしくお願いします。
どんな宗教やアドバイスでも、相手がそれを理解し考える力を持っていること前提になっていますよね。 仏教も例外ではありません。 しかし世の中には先天的または後天的理由によりその力を持ち合わせていない人もいます。 理解し考える力を持っていない者がもし道を誤った場合、仏教はどの様にアプローチするのですか? そういった人たちに救いはあるのでしょうか?
数年前に大好きだった祖母が亡くなりました。今、祖母の信仰していた浄土真宗について学んでいます。 (本当はお寺をお尋ねし、お坊様のもとで学ぶのが良いと聞きましたが、コロナ禍で、幼い子供もおりますので、You Tubeやhasunohaでお坊様のお言葉から学ばせていただいております。いつもありがとうございます) 先日、買い物帰りに倒れた自転車を見かけました。 通り過ぎようとしましたが、ふと恐れ多くも「阿弥陀如来様なら直すかな〜」と思い、結局その自転車を直して帰りました。 帰り道はそれなりに良い気分で、仏教を学んで私も良い人間になれたのかなと思いました。 でも、ふと、これはたまたま心に余裕があって直せただけじゃん。私が良い人間になったとかそんなこと思うのおこがましいな……と思い、 「たまたま私が人に親切にできるときには、それは私の人間性が良くなったからではなく阿弥陀如来様のはたらきがあったからだ」「でも、いい人になれなくても救っていただけるんだ」と気づきました。 その時、浄土真宗や阿弥陀如来様の教え・ありがたみが、とても腑に落ちたような気がしたのです。 そしてこれからは、念仏を唱えて、お釈迦様の教えをなるべく(全部は守れない凡夫なりに)守ることが、阿弥陀如来さまの御恩に報いることだ!とも思いました。生きる指針が見つかったような気がしました。 しかし、先日歎異抄を読み、自分の腑に落ちた答えが合っているのか、自信がなくなってしまいました。 考え直すと、自分の行いが御恩に報いることになるなんて自惚れです。 そして、私は正直あまり頭が良くないので、夫から「念仏に出会わず虐待されて死んじゃった子供は救われないの?」「どんな悪人でも、信じてなくても唱えればいいの?」とか聞かれたり、仏教の本を読んでて?と思うことも、「難しいことは考えても私には分からない。私は念仏を唱えればいい!」としていたのですが、これも自分の都合のいいように解釈し、助けてもらおうとしてるんじゃないかとモヤモヤしています。 浄土真宗門徒として、どんなふうに生きていけばよいのか、混乱してきました。お坊様からアドバイスがほしいです。また、こんなふうに仏教学べばよいというアドバイスもあれば嬉しいです。よろしくお願いいたします。
以前の2回の相談では大変お世話になりました。あれから絵については難しいことはせず、3分間スケッチを続け、仕事も復帰して数ヶ月になります。お答えくださった お坊様方、ありがとうございました。 さて今回は厄年について質問があります。 付き合っている彼が今年大厄を迎えるので心配になり、神社かお寺に厄祓いに行こうと提案したところ、生来面倒くさがりで宗教を信じない彼は、迷信のためにわざわざお詣りに行くのは嫌だと拒否され、その日はケンカになってしまいました。私が本気で心配したのには、母から大厄の歳には必ず悪いことが起きる、特に身内に不幸があるという言い伝えのようなものをずっと聞かされてきたからです。実際父も大厄には遠方に転勤になり、祖父が亡くなりましたし、私も大厄には最愛のペットを亡くし、その後の厄年には(歳がバレますね(笑) 体調を崩し休職しました。 彼が厄祓いを拒否していることを当の母にポロリと話したところ、母は今度は家によって慣習が違うかもと言い出しました。 遠縁のおばさんの一家では、厄年の歳には神社に寄進し、友人親類には贈り物をし、周りの人にはとにかく親切にする、つまり施しをして厄を祓う習慣があるそうです。 少し調べた限りでは厄年に対する考えや行いは地域によって様々あるようです。厄というものはどちらかというと神道の分野ですが、仏教では厄というものをどのように見做しているのでしょうか?そして私は厄年にどう恐れずに向き合っていけば良いのでしょうか?仏教からの見解をどうかお聞かせください。
いつも相談に乗っていただきありがとうございます。自分の相談へのご回答のみならず、他の方へのお坊様がたのご回答を拝見しては、納得、感心し、癒される日々を送っております。心より感謝と尊敬をお伝えさせてください。 自分もお坊さんになる、とまでは行かないのですが、日常を心健やかに過ごし、他者を元気づけるために、仏教の考えを学びたいと思っています。巷にはたくさんの書籍がありますが、初心者にも学びやすい本があれば教えていただけないでしょうか? 本屋さんで眺めてみたのですが、なかなかピンと来るものがなく。一朝一夕には身につかないものと承知しておりますが、もし何かおすすめの書籍や学びはじめの方法(お寺の法話に行ってみるとか?)がありましたら教えていただけると幸いです。
仕事柄、いろんなお宅を訪問しますが、浄土宗の檀家さんは裕福で人柄も穏やか、長生きの人が多いように感じます。 これは浄土宗が正しい教えだから仏神の御加護があるのでしょうか?
私はいつか、お坊さんのように、困っている人の相談を聞いたり、助けてあげられる人になりたいと思っています。皆さんはどのような経緯でお坊さんになられたのでしょうか。 また、そう言う人になるには、どのようなことを心がけて生きていけば良いのでしょうか。 他にも、お坊さんといえば男性のイメージが強いですが、女性でもお坊さんになることができるのでしょうか。 教えていただけると嬉しいです。
勉強不足なので相談させてください。 今日、家族でいつも行かせていただくお寺にご祈祷に行った際に、子ども(幼児)が仏足石が気になり、その土台のところに少し乗って、仏足石の上にたくさん乗っていた小銭を触ってしまったみたいです。 何か、悪いことが起きてしまうかもしれないとすごく不安です。 私がお守りを返納している間の出来事で、目を離してしまったことをすごく後悔しています。 仏足石は低い位置にあり、周囲に囲いなどはなかったので、夫は、大丈夫だよっと言っていますが、私がすごく不安です。
お坊様に質問があります。 病や怪我で苦しんでる方のお役に立てればと思い、定期的に献血をしているのですが、献血も菩薩行(布施行)なのでしょうか?
こんにちは。初めて書き込みさせていただきます。 私は現在仏教徒としての道を歩んでいきたいと考えております。 きっかけとして仕事などが原因でどのような生き方をすべきか悩んだり、死への恐怖について不安になったりした時、いつも自分を助けてくれたのは仏教の教えでした。 先日母からうちが新興宗教の元信者だったことを知らされました。 母は所謂二世だったのですが、今は脱会しており仏教(真言宗)へと改宗しています。 私は母親の告白から真言宗について興味を持ち、調べていくうちに大日如来様や弘法大師様の御心に惹かれ、真言宗の信徒として歩んでいきたいと考えました。 しかしどのように学んでいけばいいのかいまいち分かりません。 仏教はキリスト教やイスラム教のように洗礼を受ける必要がないと聞きました。母が真言宗なので私も真言宗という考えでいいのでしょうか。(父は多分別の宗派だと思いますが) また、仏壇を購入するなどして形から入るべきなのだろうかとも考えましたが、何が正しいのか分からないので、とにかく今は仏教に関する本や記事をたくさん読んでいるところです。 何から始めればいいのか、どうすればいいのか教えていただければと存じます。ご回答のほどよろしくお願いいたします。
実家が永代院号というものをお寺からいただいていることを知りました。 昔はお金持ちの家だったとは聞いていましたが、今現在は普通の一般家庭です。 そして私は独身で、私の代で家系は途絶える事になる可能性大です。 最近になって立派なご先祖さま達に申し訳ない、私で途絶えてもいいのだろうか、と悩んでいます。 今は家系の存続のために結婚する時代でもないですし、両親も特に何も言わないので自由に生きていますが、 本当にそれでいいのか、ご先祖さまが守ってきた家系かもしれないのに… とその事を考えると気持ちが不安定になります。 何かお坊さま目線でアドバイスいただければ嬉しいです。
閲覧ありがとうございます。 自分の中で仏教に対する憎しみ(逆恨みのようなもの)があり、どう付き合っていけば良いのかわからず、 ご助言をいただければと存じます。 仏教に帰依する方々が集う掲示板でこのような質問をしてしまう非礼をどうかお許しください。 私は現在20代前半の社会人で、学生時代からお付き合いしている彼が雲水修行をしております。 その彼に対する恋愛感情、会えない時間に対して、 修行のせい、仏教のせいと思ってしまう自分がおり、苦しく思っております。 彼の実家はお寺で、彼は跡取りとして育てられました。 お寺の跡取りを嫌がり逃げ出す御子息も多いと聞いていますが、彼は特に抵抗もなく入山いたしました。 ただ、話を聞いていると本気で仏教の道を志したい、解脱したいといった様子ではなく、雲水修行も住職になる資格を得るため、嫌々入山したようです。 私がここで仏教に対し敵対心を持ってしまう理由として、以下の2点が挙げられます。 ①彼のように生活のために嫌々修行を行う人間が多く(もちろんハスノハの皆さんは違うと思っております。回答を拝見する限り、仏教への信心がとても伝わってきます)、修行が形骸化している。 ②寺を継ぐことを期待され、他の道を選べなかった彼への感情(日本の仏教が廃れないように世襲制のような形へ発展していったのは理解できますが、子供の人生を縛ってしまう点が気になります。また、義務で修行を終えたような人より、本当の意味で修行をされた方がお寺を継ぐべきと考えてしまいます。そのような現在の仏教のあり方にも憎しみを感じてしまいます。) 特に①について、形骸化した修行のせいで彼と引き離されているというような逆恨みの感情があります。 彼とは結婚を前提にお付き合いしており、入山前にはご両親にもご挨拶をさせていただきました。 しかしながら、仏教を逆恨みし自分の目の前の感情しか見えていない私がお寺に入ってやっていけるのかと苦悩しております。 特にこういったクリスマスなどの時期、カップルを見るととても寂しく苦しい気持ちになります。 彼に会えない、形骸化した修行のせいで…と被害者面をし、自分の寂しさに対し仏教へ責任転嫁をしようとする愚かな自分がいます。 こんな自分が嫌です。 何かアドバイスを下さい。
変えられるもの。変えられないもの。その線引きについての質問です。 仏教版の「二ーバーの祈り」を知りたいと思いました。 ※二ーバーの祈り(大木英夫 訳) 神よ、 変えることのできるものについて、 それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。 変えることのできないものについては、 それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。 そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、 識別する知恵を与えたまえ。 (ここまで) そこに明確な線引きなど無い、と分かってはいるのですが…。 例えば、他人の感情・行動です。 原則として、変えることができない、と思います。 しかし、自分から働きかけることで、一部変えられる可能性もあります。 だからこそ、自分から働きかけて、相手が自分の思い通りにならないときに、苦しいんだと思います。。 ならば、変えることができるものは、「自分の感情と行動だけ」と捉えて、それ以外は、変えることができないものと、割り切るべきでしょうか。少しストイックすぎるようにも思えますが。。 漠然とした質問で恐れ入りますが、ぜひ皆様のお考えをお聞かせください。
真言宗のお寺に護摩祈祷して頂いたお札の祀り方で迷っています。 家には神棚と仏壇があるのですが、神棚でも良いとする説、仏壇が良いとする説などを読み悩んでおります。 神棚が南向きなのですが方角も考慮した方が良いのでしょうか。皆様の知恵をお貸しください。
初めまして。仏教に関心がある男性です。 仏教では、感情や気分に執着しないことが大事であると説かれていると思うのですが、例えば音楽とか映画等を観て、感動したり、心地よい気分に浸ることなども、仏教的にはあまり推奨されないことになるのでしょうか?
鴨長明の『発心集』における仏教について質問です。 聖人が死にかけている鯉を池に戻したところ、 聖人の夢の中で鯉が「賀茂祭でお供え物になれば生まれ変わって苦しみから解放されるのに、聖人が余計なことをした(池に戻した)せいで台無しになった」 と言って聖人に怒っている内容のものがありました 平安時代の日本の仏教では 殺生を受けてもお供え物にされることで畜生は生まれ変われるという考えがあるのでしょうか?
仏教の初学者です。何卒よろしくお願い致します。 ①ブッダがナイフで刺されたら、どう反応されたでしょうか。 慈悲で相手を許されるかと思いますが、止血しようとしますか? 「生への執着」すら持たないのでしょうか。(想像で構いません) ②より良い生のため、「知足」と「向上心」をどう両立させるか? 以下の4パターンを考えてみました。 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい しかし、諸法無我を考えると混乱します。 異なる線引きが適切でしょうか? また、向上心は往々にして執着/煩悩に変わりそうですね。。 ③人間は「感覚」に「反応」して、喜んだり悲しんだりするかと。 A 感覚「喉が渇いた」etc. B 反応「不快だ」etc. 瞑想や修行で、A⇒Bの繋がりを弱めることは可能だと思います。 悟りとは、A⇒Bの繋がりが無くなる(=涅槃)との認識です。 そこで質問。悟ったら、生きてて楽しいのでしょうか? (批判する意図は全くありません) 一切皆苦を前提とした上で、喜んだり悲しんだり「いま」を味わうのが「生きる」とすると、悟ってどんな「いいこと」があるのでしょうか? (メタに考えると、一切皆苦から逃げたいという煩悩がある?) 或いは、煩悩と悟りの間でどうバランスを取られているのでしょうか? 長文失礼いたしました。 ピントがずれているかもですが、何卒宜しくお願い致します。