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「仏教全般」問答(Q&A)一覧

2022/06/30

思うだけでも罪になる

私はどこの宗派に属しているわけでもありませんが、色々な書物を読むことが好きで、高校大学がカトリック系列であったため、聖書やキリスト教関係のものも少し読みました。祖父母は浄土真宗なので、般若心経も小さい頃から暗記するくらい読んで唱えて、大学院では国文学としての密教も少し学びました。どの教えも尊く、かつ興味深いのですが、中でもキリスト教の教えに「思うだけでも罪である」というのがありました。ここでの「思う」は、悪いこと、憎しみを思うことを指します。 確かに、「思う」だけで心におさめられることもありますが、「思」へば、それを実行してやろう(例えば、機会があったら悪口を言ってやろうとか。)という気にもなります。仏教(宗派は忘れてしまいました)にも似たような教えがあって、「良いことも悪いことも、思えばエネルギーがそちらに動いて、そのとおりに物事が進むようになる」とも。 ですので、何かマイナスの考えが浮かぶと「あー、ダメダメ。そういうこと思うのやめよ」と、なるべく自分に言い聞かせますが、なかなか思考はコントロールできないですよね。やはり、悪く思ってしまうこともあります。お坊様方は、自身の心の在り方を、どのように受け止めていらっしゃるのか、修行などによって、我々凡人よりも少し克服できるものなのか、伺ってみたいと思いました。

有り難し有り難し 26
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2022/06/08

「仏教ってどんな教え?」と聞かれたら

 いつもお世話になっております。こちらの先生方のお説法を拝読し、 なるほど、と思うことがたくさんあり、有難く勉強をしております。  私には、最近仲良くなった友人がおります。なんと不思議なご縁で、 学生時代は、私の不躾な振る舞いから、私を嫌っていたのですが、 近所に住んでいることが分かってから、道で会うたび 「ロータスさん!元気?」 などと、後ろから肩を叩かれるなどするようになり、仲よくしたい、 連絡先を交換しよう、ということになり、「実は…」と、私の障害を 打ち明ける、ということがありました。  「あなたに不快な思いをさせるのが、とても怖い。不快な事が あったら、教えてくれ」 と私が述べると、 「いいよ。でも、それは、ロータスさんじゃなく、障害のせいだと 思っておくよ」 と言ってくれました。  私が、お寺や神社に頻繁にお参りすることを、この友人は知って います。「今、〇〇寺にいるよ」とスーツに半袈裟を付けた自撮り 写真(もちろん、お堂の外で撮影)を送ったとき、 「襟のその綺麗な布は何?どうして、着けているの」 と返信が来、回答に困りました。その時は、仏具店のホームページに 書いてある事を引用し、答えました。  そこで、 「ロータスさんの信じている、仏教ではどんな事が説かれているの?」 と訊かれたとき、何と答えようかと考えました。  現時点では、神秘性を強調するなどしては、霊能者や新興宗教と 同一視されてしまう可能性を危惧し(ただでさえ、世間一般には 混同されている気がするので…)、 「物事には必ず、科学的(現実的)に、言葉で説明できる原因や、 法則性がある。何かが起きたら、神様仏様のお見守りの下、その原因や 法則性を明らかにして、苦しみを減らして、地に足をつけて生きよう、 っていう教えだよ。もちろん、色んな人や物、現象への感謝も忘れずに」 と、説明しようと思っています。  いかがでしょうか?私の見識は間違っておりますでしょうか? ご評価、お待ちしております。

有り難し有り難し 37
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2022/05/26

いい諦めと悪い諦め

お読みいただき、ありがとうございます。 人間誰しも大なり小なり、後悔はあるかと思います。私もいろいろ後悔があり、何年も、下手したら10年、20年前のことでもあの時アレがなかったら…、あの人がいなければ…、もっとあの時にあぁしておけば今頃は…、と未だによくクヨクヨと後悔する時があります。そしてそれをなんとか取り返す術はないかとどうしようもないことを考えてしまう時があります。 ただ、なぜか今日ふと突然「違う…『あの時アレがなければ、こうしていれば』とか『もっと今頃はこうなっていたはず』というのは自分はもっとこうであるはずなのに、という歪んだプライド、驕りの妄想でしかない。確かに「俺のせいではない」「なんで俺だけ」と言いたくなる出来事もあったかもしれない。でもその出来事に対する反応も含め、他の人なら違う行動が取れたかもしれない。結局は自分の器が自分があると信じて疑わなかったよりもずっと小さかった、ただそれだけのこと。」という考えがスッと頭に入ってきました。 そう考えると諦め(仏教的には明らめというのかもしれません)の気持ちというか、もうそんなに頑張らなくてもいい、人から見たら惨めな失敗の人生かもしれないけど、足るを知るで手に入ったものに感謝して、満足して、楽しく暮らしていけばいい、と思う一方で、やはり自分を、自分の可能性を信じることをやめた悔しさ、寂しさを感じるというか、そのような気持ちで生きていくと、いつか人生の終わりを迎える時に「なぜ俺は自分を信じて、少しでも挽回出来るようにと頑張らなかったんだろう」と自分の人生の時間の使い方を悔やむような気持ちを持ってしまいそうな気もしています。 そこでお聞きしたいのですが、仏教的な視点からいうと、いい諦めと悪い諦めってあるのでしょうか?違いはどのように考えたらいいのでしょうか?これが絶対正解、というのはないと思いますが、仏教ではこんな話がある、といったものでも、お聞かせいただけると幸いです。

有り難し有り難し 16
回答数回答 1