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お坊さん達ではどう実態の話をしてますか

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私は般若心経に影響を受けています。
ここに机があります。私達はこれが無いと知っています。誰かが、それは机でそこにあって、木で出来ていて茶色で硬いと言います。
私にも茶色に見えるし、ぶつければ私は痛いです。
でも、やっぱり茶色は無いし、机もないし、私も無いです。
それでも痛いのは嫌で、そこに机があると考えて生活します。でも、あらためて眺めると、やっぱり無いです。
強いて言えば、さっきまであった、と言うかなと思います。でも、無いから『さっき』と言うのもいま言ったけど変だと思っていて、さっきも無いんだけど強いて言えばにすぎず、とにかくいま、机は無いよ、と思います。
私達はそこに水色のティーカップが見えていて、私にも見えています。でも、無いし、としか言いようがないく、水色もない。強いて言えば、その子が自分を水色と思っているでしょう、私もそれを水色と思っています。でも、そこに水色は無いと私達は知っています。
私達は、と言ったのは、きっと同じ話をしていると思っていますが、お坊さん達の間では違うのか、聞きたいと思いました。どこかは違うと思います。
その子の水色が無いと知っていますが、その子が「私、水色でかわいいの」と言ったら、ああ、水色だよ、それにかわいいよ、と言うと思います。
私は無いです。神も無いと思っています。私がいたら神もいる、私が無いなら神も無いと考えています。両方ある、と両方ないのどっちかしかないと思い、ところで実際どっちも無いよねえ、と思います。お坊さんはこう言っていないと思いました。
目の前に、机があり、傍らにまた水色のティーカップが見える、でも私達はこれが無いとしか見えないと思います。
私は、ひょっとして自分は時間の話をしているのかなとよく思います。
時間の話であれば、さっきと呼ぶものもなく、今机があるという事も起きていません。
今そこにあるという概念がなく、この机に対して机があると言える事実はなく、とにかくえんえん無いんだが、と思ったり仏陀は荒唐無稽で精神世界に限った話をしたのでは無さそうに思ったりします。
あると思っていて、としか言いようがない机をまた見て、もう無いとしか見えないし、ところであらためてそこに机があると言ってみる必要あるんだろうか、言わなくていいと思う、と考えたりします。私は時間の話をしているのでしょうか。
お坊さん達は違う話をしていますか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

【追記あり】何のための教えか?

ご相談拝読しました。

般若心経に影響を受けているとのことですから、空の思想に基づいた時に物事をどう捉えるのか?ということが質問の趣意でしょうか…

私には正直難しくてよくわかりませんが、しかしそもそも仏教の教えは今目の前に「ある」ものを「ない」とすることが目的ではなく、目の前のものを「私が思う様に」「ある」としてとらわれている「私」を問題とするものなのではないでしょうか?

私たちは意思疎通するにあたり「言葉」を共通の手段としますが、その「言葉」が指し示しているものが本当に私と他者で同じなのか。

目の前の現象を私が思う「言葉」で切り取って表現したときに、それはそのものの実際を表しているわけではない。言うならば虚構である。その「言葉の虚構」にもとづいて思惟分別するから迷う。

その思惟分別している「私」をこそメインターゲットとして観察すべきなのであって、思惟分別の対象である「もの」について論じようとすると知の遊びのようなことになってしまうのではないかなと思います。

ああ、中観をきちんと学んだお坊さんから回答が入るといいですねえ…私では力不足ですいません。

【追記】
・仏教の思想3『空の論理<中観>』梶山雄一・上山春平 角川ソフィア文庫

を是非読んでみてください。

それから空というのはおっしゃる通り言語ゲームのような頭で考えるものでなく、瞑想の実践による智慧の開発によって感得されるものでしょうから、それを抜きに頭で理解しようとするとわからないのかもしれませんね。
ただし瞑想実践にあたっては独学は危険ですので絶対におやめください。

【再追記】
空についての話になると皆黙って教えてくれないというのは、その人たちがわかっていないから教えられないのでは?かく言う私も同じです。わからない。

でも、あなたの求めるものが空をどう言語表現するかというものなら是非上記の書籍を読んでみてください。龍樹の論理形式など興味深いですよ。私には難解ですが…。

それにいくら頑張って「私」はいないといっても世俗を生きる以上は勝義諦だけには逃げ込めません。
「常一主宰な私」はいなくとも「刹那滅の連鎖としての私」はいるのです。それは「時間の話し」にもなるのかもしれませんが、私には上手く説明できません。
貴方が本当に気になるのならあきらめずに学んだり実践したりしてみましょう。

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おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

動いている。

ロジェリンさんによると、
机は何もしていないのに
そこにあったりなかったりしているそうですね。

それはなぜか?

「ロジェリンさんの心が動いているから。」
ご投稿の内容を拝見すればするほど
私にはそのようにしか見えません。

机そのものが問題なのではなく
「見え方」がコロコロ変わっていることを
言っているのだと思います。

ちなみにですね。。
では、私はロジェリンさんのご投稿に
回答したのでしょうか。
回答していないのでしょうか。

どちらだと思いますか?

                    摩訶般若波羅蜜 合掌

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おきもち

Buddhism. knowing what it actually is. ... 2020/08/22退会 2023/08/29再入会

実態が無いということは確実にそこにはあるということ

実態が無いということは永続性を持ったものではないということですが、それは物物事の側のことではありません。
それを察知するこちら側の事。
先ほどまで見ていたこと、接していたことがこの身に行われない。
実態が無いということを多くの学者や仏教者は外の物質のこととして説いているものが多いでしょう。だから、学校の理科・科学・化学の話のようになってしまう。
そんなことは仏教ではなく、科学の話です。
仏教の言わんとする所の真意はそうではないところ。
物が変わる、変化するということは人から習わなくても元々この体がいつも知ると知らずにかかわらず体感しているものでしょう。
では実体。実態がないということはどう弁えるべきことか。
それはこの身心の上の現れです。ものの現われが一期一会でその時限り、そのバカ切り、そのこと限りという法相をしている。
モノの授かり、事の授かりに焦点を当ててみてください。
この自己の身心が今、聴いている音、映していること、体感されていること。
そこにそのことが現れた時、どうなっているか。
それを実態が無いというのです。
禅では非思量・不思量とも申しまして、モノを眺めてものの現われが体感されている際に、そこに一切の人間の意味付けや言葉の名付け、好き嫌い、評価、評論、ツッコミが伴わない所があるので、そこを見解交じりではないままに体感することを説いています。
するとものの真相が明らかになる。
人間の後天的な知識や意味付けのお手付きが行われないままの姿。
カルタでたとえればお手付きのされていないままの姿、着手されていないままの「ちはやふる」の広瀬すずもお手付き無し「ほとけふる」な姿。
雪道で人の足が入り込む前のまっさらな姿。雪やこんこん、人も来ん来んな人の着手や踏み入れのない前人未到な「ほとけふるねす」な姿。
そういうのがモノの実態でしょう。
実態が無いのではなく、真実の実態、真実態こそが法の姿、法相。
法相とはこの身が瞬時瞬時、一刻一刻、流し去り、来たり去り、とどまりないままの有菜がなくないながらにある「ナイナガラの滝」。
滝というは人の言葉。水の一滴、ひとしずくは別のものナリ。
ここでいう滝とは、音の滝、映像の滝、気の滝、味の滝、感覚の滝。
そこ限りでしょう。
それがモノの現われの真実の姿。実態ではないでしょうか?
そこを自覚すると空が理屈抜きにわかる。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

時間の話であるなら

それを仏教では
「諸行無常」としてとらえています。

何物も何事も永遠不変ではなく変化していきます。
過去と今現在と未来とが同じでないのは当然。
それを同時に考えるのは仏教ぽいかも知れません。

自分に都合の良い物事を永遠不変であるように望んだり
自分に都合の悪い物事が永遠不変でずっと苦しむかのように恐れたり
する必要は全く無いのです。

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おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

質問者からのお礼

吉武さま、吉井さま、ありがとうございます。
私がないのです。
吉武さまは、『私を観ましょう』というのが、仏教、と言っているのかなと思いました。
観てる“私”が無いので、観るのは誰で、観られているのは何?観るって事も起きようがない、現象のような?と思います。私もうまく言えません。
中観???どなたか言葉で普段ご説明されていると思います。ありがとうございます。
吉井さま、答えを聞くならもう一段階あったほうが良い質問だったかもしれません。それだと心がどこにあるかをまず探しましょう、と言っているような気がしてしまいます。探す?それがある事になっている?と思います。
仏教の慈悲がよく分からないのです。心と感情の話をしているように見えます。ものがなく、心はあるらしい?
動くもの(心)があるって話を考えよう?よく分からないのです。
それで、私は自分が時間の話を思い浮かべているのかと思いました。仏教の話をしていないように思ったり、同じ話をしている気がしたりします。机はずっとないのです。私もないのです。それで、私は慈悲がどこにあるのだろうと思っています。慈悲がころころ動く心の話ではないと思っていて、じゃあ何なのかよく分かりません。心は探したらあるだろう。探さないなら、元から無さそうに思うので、と思っていてよく分かりません。動く心が実在するなら私が生みました。ところで、私、も心、も無さそうなので、と思っています。
慈悲の話をするなら、時間の概念といった論理構造から離れ、心も、ものも全部実在して、動くのだと話をする事になる気がしています。これらの、ものと心とは、見えている、と思っているものです。前提として全部あるにしては、仏陀がそんな話をしていたように感じないのです。
質問が穿っていなくてすみません。

私は論理学の話をしているのだろうか?と疑問がわきますが、分かりません。昔、関東にある有名のうちに入る大学の先生が、この大学に合格する成績で志して受講する学生でも、全員が分かる学問ではない、と言っていました。年にひとりかふたり、分かったよとか、もっと勉強したいと言ってくれたら嬉しいそうです。
言語ゲームかどうかを見分けるには、私に知性が足りず、お坊さんも専門外だと思います。
そしてまた、極端に賢い人だけ分かるのだ、という話でもないと思っています。さらに、仏陀の話が論理で成立していないと聞いた事はないです。(本人が書いたのではなかったと思いますが)
質問を整理するほうがいいかもしれません。
ちょっといまから夕ご飯してみます。

吉武さま、追記ありがとうございます。
そんなに何回も経験があるわけではないですが、空の話題に移ると急に『あなたにはまだ分かりませんからね(?)』と話題が移り、続いて空の話は誰もしないんです。
私が文字で読むと、空以外の話では、誰も私と同じように思っていないように思ったり、こうして返事しようとしてくれたりします。
そして空になると突然全員黙るのです。
「分かっていなくても、いいものだと思ってていいよ」とか、「自分にとってはなくてはならないんだけど、分からないだろうから、ここで話をやめようか」みたいにも言われません。
急に全員、無言でそそくさといなくなります。追記にも感じました。
私が空を知らないから、というより、空をはじめた人同士でそういう協定でもあるのかな、という印象です。
なんのルールなんだ?「瞑想すれば分かるよ」もなければ「瞑想しても分からないかも」とも言われないんです。
しかしたぶん言語ゲームなら付き合うんだよ、って話なんですね。
この感じだと事実「こんな時は無言で立ち去る」になっているのでしょう、奥が深いですね。
ならば、論理学を学習する事が将来ない私には、ここで質問する事が途絶えたと判断しました。机は言語ゲームですね。慈悲というのも、知る事はないだろう、仏教徒でないなら、これまで通り心と感情に終生動きつつ付き合えば良いかな。
きっぱりこれから考えずにいますね!ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ