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サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想

回答数回答 6
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スマナサーラ長老さんが、サマタ瞑想よりもヴィパッサナー瞑想を推奨していらっしゃる文章を目にしたのですが、
臨済宗の座禅(数息観)は、サマタ瞑想に入りますか?
1日のうち、臨済宗式での座禅も10分くらいして、スマナサーラ長老さん式の実況瞑想を別途1時間。
(連続ではなく、一日のうちで、別の機会をもうけて。)
そんな感じで実践してOKでしょうか?
それとも、ミックスせずに、長老さんオススメ方式でいくなら、臨済宗の座禅はやめてしまって、実況瞑想(ヴィパッサナー瞑想)オンリーでいったほうが良いでしょうか?


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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

坐禅・座禅・THE禅。同じ禅定でも曹洞臨済上座部何が違うか。

数年前、曹洞宗の本庁で「只管打坐とマインドフルネスとの対話」というタイトルで討論会があり、パネリストとしてスマナサーラ長老が招かれました。只管打坐の英訳は海外ではJUST SITTINGとされていますが本当はJUST BEINGであるべきだ、と。
坐禅は座ではありません。瞑想も行法、流派、手法よりも「本当に、本当は❝どうなればよいのか?❞」という追及の極みが大事。そうでないと臨済をやった、サマタ、ヴィパサナをやった、只管打坐をやったという行だけで終わるからです。
念仏・坐禅一つでも坊さんによって解釈が異なるでしょう。人によって解釈が異なる仏法は本当は仏法ではなく解釈・仏教学。だから道元禅師は「正法」と説かれた。百人が百人、人によって解釈が違うものでは、何でもいいということになる。
それは仏法とはいえないので、得法、得道、成仏を重んじられた。
求道者がもつべき態度は仏道行法ABCというカタチをやるのではなくABCを通して実味・法味=得法、得道になるかどうか。
禅定の本質は呼吸や数息観や座ではない。
ヴィパサナもサマタも行のあり方がどうかよりも本当は「それ」を通じて「どうなればよいのか」。ここの追求が正しくなければやるだけになる。どうあれば決着がつくのか。ここの追求。滑走路の方を大事にしてフライトすることが無ければ羽根がありながらも滑走路だけ走り続けて終わる。
禅門で大悟された優れた師家は「数息感は数息観ということをやっているのであって坐禅をしているのではない」と。
優れた指導者はそういう所にとどまらせないのです。させるにしても次回や遠い日のことにしない、させない。遠回りをさせない。なにをすればいいのか?行法や手法がどうかより、それによって導かれ、明らかにされる所そのものに用があるのでしょう。だから真の師家はそこを提唱する。もっと大事なのは本人の菩提心。
手の音一つ聞く、この文字一つ読むのに、そこにあなたの感受の上に臨済、サマタ、ヴィパサナ、只管打坐というラベルや異なるようなことがありましょうか?ないでしょう。
そういう本源の所に仏法の真髄を見極めるのです。
そこを見極める力があれば念仏・坐禅・ヴィパサナでも作務でも調理でも今こうしていることでも仏法でないものはない。
せっかく親切に回答してくれた方に凹み反応しちゃうなら、その残念な心をこそ残念にしない工夫に答えあり。✨

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有り難し
おきもち

どちらが良いかはやればわかる

私は至極単純に捉えてます
数を数えるのは己が如何に意識をコントロール出来てないかをきづく方法として長けています

喋らないのはいかに言葉で表現出来ておらず実践できていないかをきづく方法

動がないのは動きをコントロール出来ていないかを知る方法

三つの行法に共通するのはコントロール出来ていない事にきづき生に応用し
自他を安息に導く事

さて一点集中から一気に開花を狙う方法は
時に己がきづきと同時に快楽を求める間違った行為に及ぶ事があり
ここには大変な危険が伴いますので導師が必要です

それぞれの入り口は此処に記した通りで
そうした瞑想的時間を積み重ねる事で
内的な変化を促し
外的変化を求める事です

日本のお坊さんの瞑想は少し昔の時代に合わせて発展したものです
これが全ての人に良いものであるかは安易に語れないので
必ず導師の力が必要という話です

現在のお師匠様がどの理解のステージに居られるのか解りませんし専門がなにかなのかすらわかりませんからなんとも言えませんが

全て学んでみたら良いのではないでしょうか?
学びに終わりはないので結論もないのです

いずれの場合も自分の問題を発見する事が最も大事な事なのをお忘れなく

私などが文字で表現できる事は実に稚拙であり足りな過ぎて申し訳ないのですがこんなところでございます

合掌

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有り難し
おきもち

山形のそれは小さなお寺の住職です。 私は子供の頃いじめられ、社会からドロ...
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止と観

はすのふあさま

坐禅の実践は、止と観のバランスが求められる禅定(の一つ)となります。

もしも、正しい止観の実践のための理論を学ばれたいとなれば、

中国・日本仏教の止観については、「天台魔訶止観」がお勧めです。

チベット仏教の止観を学ぶのであれば、「菩提道次第大論」がお勧めになります。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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回答を乞う側の謙虚さ

追記に「独学だとも独学でないとも書いていないのに、独学だと思い込まれて回答されたことが残念です」と書いています。

背景説明が足りないのは、あなたの文章不足のせいです。
「思い込ま」せてしまったことに、一定の責任が自分にあることを認めるべきでは。
認めたなら、誤解させて悪かったと言うべきです。
それが、回答を乞う側の謙虚さです。

その謙虚であるべきところを追記で「独学だと思い込まれて回答されたことが残念」、などと回答僧に批判めいたことを言っています。そういう姿勢こそ「残念」です。

どんな質問でもここは書くことは可能ですが、どんな態度で質問してもいいという場ではありません。

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有り難し
おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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混ぜなければ大丈夫

出家の師弟関係は二十四時間ですが、在家者と出家者の師弟関係は、その時々ですので、混ぜなければ大丈夫だと思います。直接習いに行く場合でも、どこかのお寺の坐禅会なら、その導師のやり方で徹底的にやる。別の瞑想会に行くなら、そこのやり方の通りにやる。参加している間の師弟関係で、その時だけ、その先生のやり方でしっかりやればよいのです。後で、自分で比べて、やがてどれかを取り、どれかを捨てることはあり得ます。
 国語の時間には数学の自習ではなく国語の先生に全力で向かう。デザートは主食が終わってから食べる。
 困るのは、修行は自分の内面のことなので、形はなんとか目の前の導師のやり方に沿っていても、心が、うっかり自分の癖で自分の好みのやり方や、あちこちのやり方が混ぜこぜになっている場合です。特に、自宅などで独力でやっている場合にそうなりがちではないかと思います。
 修行は結局は結果を出すための手段なので、結果が出にくいと感じたなら、導師のやり方に問題があるのでは?と考えるだけでなく、やっている自分が本当に言われたとおりにやっているかどうかもチェックすると良いでしょう。形は分かりやすいのですが、自分の心の中は、ホントに真剣に見ないと分かりにくいものです。
 比較対象があるともう一つのものの特徴も分かりやすいので、どれか一つに絞らなければいけないとは考えずに、納得するまでどちらをも突き詰めてみると良いと思います、それぞれの時間を分けて。

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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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きちんとした師の下で

こんばんは。

 最近ね、私はある習い事をはじめました。実は習いに行く以前から本やyoutubeなどを見ながら独学でやっていたのですが、やっていても、これで正しくできているのか、進むべき方向はこれであっているのか、全然わからなくなってしまいました。youtubeはいろんな先生がいて教え方も様々なので余計にわからなくなってきます。そこで近所の教室に通って習う事にしましたが、先生がいると、正しくできているかどうかがよくわかり、またこれからどのように学習していけば良いのかも明確になり、上達が早くなったと感じます。

 あなたも、瞑想についてきちんとやってみたいと思うのでしたら、きちんとした師について行う事だと思います。そうしないと、何が正しく何が誤っているかが全然わからなくなります。独学で学び変な思い込みに固執しそれを手放す事ができなくなると、それが迷いになります。
 尚、師を探す時はカルトや悪徳業者などに気をつけて。

追記します
 師がいらっしゃるのでしたら、その師に聞くのが筋でしょう。他の人に聞くことは師にも失礼ですし、あなたの迷いの元になります。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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質問者からのお礼

光禪さん
臨済宗の座禅については、独学ではありません。
あえてお名前は出しませんが、縁あってお立場のあるかたのところで指導は受けています。

独学だとも独学でないとも書いていないのに、独学だと思い込まれて回答されたことが残念です。(実際には独学ではないです)
具体的な質問を記しているので、そこに対してご回答頂けるかたからの回答を期待していました。回答がつくと、回答済みとみなされて、質問への正解をご存じのかたからの回答がつきにくくなるので、残念です。

追記へのお返事です。
宗派をまたがっての疑問点なので、ここハスノハで質問しました。
臨済宗での立場や実力がどれだけあろうと、そのかたは恐らく、スマナサーラ長老さんの実況瞑想についてご存知ないと思いますので(ご自身の環境に打ち込まれているがゆえに他の宗派のことは疎い)
ご存知ないであろうことをあえて問う方が失礼と私は考えますし、
そもそも、純粋な疑問を、色々な宗派、立場の人がいるハスノハで問うことを師に失礼とも思いません。背景を考慮して柔軟に対応するほうがベターであり、なんでもかんでも師に質問しなければならない!と考えるのは、むしろ戒禁取的だなぁと私は思います。

沢山のご回答ありがとうございます!

>藤本先生
詳しく、分かりやすいアドバイスをありがとうございます。私の疑問点にストレートに完全に答えてくださり、尚且つ、その方向で進む上での注意点まで細やかに伝えてくださり、本当に感謝です。
藤本先生のご本は、具体的で面白いので、とても貴重で、有り難く読ませて頂いております!

>丸山様
とても分かりやすいアドバイスをありがとうございます。他の質問者との問答を拝見して丸山様は真摯に仏道を歩まれているかただなぁと感じていたので、コメント頂けて嬉しかったです。ありがとうございます。

>釈様
そうですね、私はストレートな物言いをしがちなので、態度が悪く見えないように気を付けますね。

>丹下様
本質のお話をしてくださりありがとうございます。仰る通りです。「残念な心」(笑)もその通りですね。残念じゃなくしていきますね✨

>川口様
具体的な推奨文献を記してくださり、ありがとうございます。川口様の真摯な仏道邁進の姿勢にはいつも励まされます。

「仏教における瞑想」問答一覧

うつ病の中でも利他の心を持つためには

5年ほど心の病に苦しんでおります。最初は適応障害という診断でしたが症状が悪化し、3年前にうつ病と診断されました。 それでも昨年から始めた漢方の治療やカウンセリング等の効果で体調は良化しており、検査の数値も改善してきています。 しかしながら「ものを考える余裕」が生まれたこともあってか、生き方に対する苦悩は深まるばかりです。 うつ病に向き合う手がかりとして、宗教・哲学・心理学など多くの本に触れているのですが、その多くで「他者に関心を持つこと」「他者と関わること」「他者のためにはたらくこと」が幸せへの道として説かれていました。仏教においても、「利他」は大切な考えだと思います。 しかし、今の私には「他者のためにはたらくこと」はおろか、「他者と関わること」も考えられません。他者とつながりを持つことを恐ろしいと感じてしまいますし、他者のことを考える余力自体も不足しているように思われます。毎日念仏をお唱えするときも、自分の身体のことや心のことばかりを考えてしまいます。 自分でも「利他の心」を持てたらとは思うのですが、負のループに入ってしまっているような気がしております。 勿論、日々の中で「他者を傷つけないように」「他者を不快にさせないように」と心がけているつもりではおりますが、それだけで良いのか、と自問自答してしまいます。 どのような心がけで日々を過ごせば良いのか、ご助言を賜りたく思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

瞑想とは

ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。 私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。 ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。 以下質問となります: この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。 それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。 有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。 個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。 よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 16
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マインドフルネスについて

瞑想を2週間ほど前から朝の日課にしています。欲を少しでも手放せたらと思い、始めました。 そして、昨日仕事中にふっと目の前の仕事に全意識が向いている心地よさを体験しました。これがマインドフルネス?と思いました。15分くらいしか持ちませんでしたが。 どうしても自分で自分を苦しい状態にしてしまうので、どうしたらもう少し楽に生きれるだろうと思い、このマインドフルネス状態が長く続けばいいのでは?と考えています。 そして、大人になると生活の7割くらいが仕事なので、仕事中にマインドフルネス状態が続けば毎日がもう少し楽になると考えました。 しかし、仕事内容が慣れているものであったり、どう進めるか想像つくものであればマインドフルネス状態になりやすいと思ったのですが、仕事内容によっては難問にぶつかったり、やったことないことをやらないといけないことだってあります。クリエイティブ系の職種のため、アイディア出しなどはいつも苦しいんでいます。今思うと、まだこの職種の経験も浅いこともあり、8割ほどの仕事内容にいつも苦しめられています。難問にぶつかった場合もただ難問に向き合うだけでマインドフルネスなのでしょうか。 マインドフルネスについては本などを読んで、自分なりに解釈しているところもあるので間違いがあれば訂正していただきたいです。 仕事中あっちこっち気持ちが散らかるので、マインドフルネスの実践ができたらなと思います。

有り難し有り難し 18
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