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「親・家族・恋人・大切な人の死が悲しい・乗り越え・立ち直る」問答(Q&A)一覧

父が先日亡くなりました

胆管癌の末期で手術して2年、先日緩和ケア病棟で亡くなりました。 食事も中々取りづらくなってきて、本人は痛いながらも普通に、食事をして家でゆっくり過ごしたいと思っていたと思うんです。 それが、主治医のある病院から退院して10日でお水も飲めない状態になってしまい 薬も飲まなくて、紹介された緩和ケア病棟に移り そこからは、眠り続けた後に少し起きて話をしてまた痛みと息苦しさとの戦いで、薬をして… 私達家族も、父本人も少し良くなって、また家に帰れると思っていたのですが それが叶いませんでした。 孫がお見舞いに来ても、すぐ良くなるからもう少し待っててねと 母には家に帰ったら、庭の手入れの話をしてやらなくちゃなんないと 先生も言っていたのですが、生きたいと思う気持ちが強い方なので…と。 絶対に弱音は吐きませんでした。 けれど、亡くなる前日、息苦しさと痛みが耐えられなかったのか… 俺はもぅ終わり… 死んだら終わりだ と何度も何度も繰り返し言っていました。 どうしてあげたら一番良かったのか… 家に帰りたいと一度だけ子供の様に騒いだ事もありました。 家に帰してあげたら良かったのか? 母も兄も私も、長期のお休みが取れる状況にあったので… 緩和ケアに入院してから2週間ほど毎日病院、朝から夜まで居ました。 でも、夜起きた時に1人なのが死んじゃうんではないかという恐怖と寂しさで、帰りたいと。 家族みんなと一緒にいたいと言っていて… 亡くなった日は、朝病院からの呼び出しで駆けつけて昏睡状態ということでしたので、父の兄妹と私達家族がいる中で最後みんなの問いかけにのど仏を2回ごっくんとさせて逝きました。 日に日に悲しさや喪失感が… 父が気に入って買った家まだ1年なんです。 家に帰って来たかっただろうに… とか考えてしまって。 家族みんなこれからの心構えが出来なくて 前を向いて歩いて行こうねと言いながらも 会いたい、声が聞きたいとなってしまいます。 どうしていいのか…? どんな気持ちに持って行ったらいいのか? わかりません。 文章が分かりづらくすみません。 どうか、教えてください。

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父親の死について。(長文です)

こんばんは。 私は実家を離れて生活していましたが、1年以上あっていなかった父が2ヶ月前に亡くなりました。 父はアルコール依存があり、家族に大きな声をあげたり借金を作ったりと散々でした。私も父が嫌いと思っていたので、たとえ亡くなっても悲しまないだろうと思っていました。 しかし、実際に父が亡くなるとまだ優しかった頃の父を思い出したりして涙が止まらなくなります。父の残した借金があったため相続放棄を行い実家も無くなってしまいました。 親戚は借金ごと実家を継いで欲しいという意見をもっており相続放棄の際は親戚からも責められたりしました。 私も実家を手放したくなかったですが、借金が返済できる額ではないので諦めてしまいました。 これだけ嫌っていたし、父の住んでいた実家を継いだわけでも、借金を肩代わりしたわかけでもないのに2ヶ月たった今でも寂しく、苦しい気持ちでいっぱいになります。他の事(仕事や友人と会ったり)をしていても常にぼんやりと頭のどこかでは父の事を考えて落ち着かない気持ちになってしまいます。父の死については親しい友人などにしか知らせておらず、職場などには知らせていません。 2ヶ月もたったのにこんな気持ちでいるのは甘えだとも思いますが、自分がどうしたいのかもよくわかりません。 こんな気持ちもいつかは受け入れられ、また穏やかな気持ちで過ごせるようになるのでしょうか。

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母が亡くなって1年

未だに1人になると、母のことを思い出して涙がとまりません。 思い出すのも、後悔ばかりです。 物心ついた時から父親がおらず、女手一つで、私を含め3人育ててきた母です。 貧乏であまりいい思いをしてこなかったので、よく母に当たったりしていました。こんな家に生まれたくなかった、とか幸せだと思ったこと一度もない、とか。 反抗期とひねくれた性格もあって、本当に酷いことばかり言ってしまったこと後悔しています。 地元から離れていたので、母の死に目にはあえませんでした。 母の友達から、母がよく私のことを心配していたと聞き、愛されていたこと、それに応えられなかったことがすごく悲しいです。 社会人になって、親孝行しようと思っていた矢先のことでした。一度も親孝行できず、なにもしてあげられていません。 母はずっと働いてばかりの人生でした。 いつか楽にしてあげたいと思っていました。 抗がん剤治療を受けながら働いていた母でした。 母なら大丈夫だろう、いつか治る、死ぬわけないって、思ってました。 なんで母が死ななきゃいけないんでしょうか。 母の代わりに私がしにたかったです。 もう地元に帰る家もありません。居場所がありません。 わたしも母のところにいきたいです。 母に会いたいです。

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亡くなった人達は

亡くなってしまった人達は時々、こちらに帰って来ているときはあるのでしょうか?旅行しているときとか、コーヒー屋さんにいるときとか、亡くなった父も近くで飲んだり食べたりしたり、実は一緒に観光してて、このお城すごいなあ。おい見てみろよ!昔の人はすごい技術を持ってるね。って子供の頃色々と連れていってくれて、見聞きさせてくれたみたいに、実は一緒に観光地を回っているとか、通勤列車の中に一緒に乗っているとか。実は見えないだけで、父はずっと近くにいるのだとしたら、素敵だな、と思いました。仏様の国に行ってしまっても時々戻ってきてくれて、一緒に生きてきたときと同じく近くにいてくれているのだとしたら、うれしいなと素敵だなと思いました。亡くなって、しばらくは父がいるような気配もあったのですが(ろうそくや花が風もないのに揺れたりしました。私の思い込みかも知れませんが)最近それもないので、亡くなってしまった父やその他のお世話になった人達が、こちらの私達の近くに帰ってきてくれることはあるのかと思い質問をさせて頂きました。もし見えているなら、帰ってきて近くにいるとしたら、私たち姉妹が喧嘩して家が家がゴタゴタしている今の状況をきっと悲しく思うのでしょうね。

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母が亡くなり父のことが心配です

はじめまして。 年明けに5年間闘病中だった母が50歳で亡くなりました。 自分のことより他の人を大切にしていた本当に素晴らしい母で、未だに実感がありません。 両親はとても仲が良かったため、父はずっと泣いていました。 私たち兄弟は家を出て一人暮らしをしていて、実家には父方の両親と父だけになってしまいました。 父と祖母はあまり関係が良くなく、ほっとしておいてほしい父に対し、祖母は口うるさく絡んでしまいます。 祖母は母に対して厳しく、葬儀でも1度も涙を流すことはありませんでした。 しばらくは私たち兄弟も実家にいたのですが、全員社会人のため仕事に戻りましたが、そこからうつ状態が続きアルコールに依存するようになってしまいました。 ずっと祭壇の前で横になっています。 仕事には行きたいから入院したくないと言っているのですが、近くに住んでいないためとても心配です。 お酒は我慢すると言っていたのに、三日後の今日帰ってきたらお酒の缶が置いてありました。 信じていたのに本当に悲しいです。 私自身、母がいなくなった悲しみもあるし、悲しみを受け止めながらも仕事に行ったり自分の生活を取り戻したいのに、父が心配で何もできません。 手続き等も全て私が行っており、父と県内に住んでいるので様子も見に行かなければならないし、なぜ私ばっかりという気持ちになってしまいます。 何かアドバイスなど頂けないでしょうか。 長文失礼しました。 宜しくお願いします。

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最愛の母親の四十九日でした、、

投稿は3回目ですが、最愛の母親の四十九日法要終えたところでした、、 去年の11月11日に緊急入院してわずか約2週間後の29日に永眠してしまってから時間がまだまだ進むのが遅く感じてます、、 末期の大腸癌からの腹膜炎併発で余命数日と宣告されて生きた心地がしないまま看病してきました。 本人には告知できずずっと手を握りしめて涙浮かべてた母親、、最後の数日前ギュッと握り返してくれた反応、、 未だに頭から離れず悲しみが溢れかえってきます、、 四十九日法要をお寺に遺骨と位牌遺影持参してお経してもらったのですが、住職がお経唱えてる間、自分はずっと遺影に想いを込め続けて見つめていました。 その時不思議な体験をしました。 遺影の後ろに花瓶で生けてある百合の花がバサッ!と音を立てたんです、、 風もないし、完全な本堂の閉め切った中で、、 お母さんが挨拶してくれたんだと自分はそう受け取りました、、 涙がとめどなくとまりませんでした、、 これでようやく先祖の元にたどり着いたんだね、、ゆっくりと見守ってくれるんだねって、、 普通はあんなタイミングで沢山生けてある花瓶の百合の花がバサッと大きな音立てる事はないから、、、お母さんがちゃんと伝えやすい方法でやってくれたんだねって、、 自分の事より常に家族の心配第一に考え日々を過ごしてくれた母親、、 84歳でもユーモア溢れる優しさに満ちた性格で、片足不自由なまま生きてきた母親を常に自分は側で支えてきました、、 買い物や、遊びに出かけさせるのも車に乗せて常に母親を楽しませてあげたい想いで仕事頑張ってきました、、 いつも母親は、こんな年寄りといつも一緒に行動してくれてありがとね、、ほんとなら若い子と遊びに行きたいやろうに、、って、、 自分は全くそんな事思いませんでした、、自分が幼少から母親の壮絶な苦労を見てきてたので早く大人になって常に守って楽しませてやるんだ!って、、母親が喜んでくれるならどんな苦労にも耐えてきました、、 それだけ密接な家庭で歩んできたので、母親の存在の偉大さがなくなった今、すさまじい悲壮感と空虚感の反動が続いてます、、 母親の為にも自分の残り人生幸せに歩んでいかないとって思いはわかるんです、、母親の元へ自分も後追いたいとか変な気も常にあり続けてますが、そんなのも悲しませるだけってわかります、でもとにかく今は悲しい、、

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