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「親・家族・恋人・大切な人の死が悲しい・乗り越え・立ち直る」問答(Q&A)一覧

亡くした祖母への思い

私の祖母の話になります。 今から10年前にお風呂場で転倒し足が不自由になり 最初は祖母も自分で頑張っていたのですが日々の生活に支障が出て難しい性格の祖母は私の母や祖父に頼みたくない。孫の私に頼みたいとの事でした。 私も祖母が大好きだったので仕事も夜勤に変更したりして朝から夕方まで毎日買い物や愚痴を聞いたり持病もあったので必ず通院には一緒に行きましたが去年の6月に持病であった心臓病で突然亡くなりました。誰にも何も言わず1人で病室で逝ってしまいました。 入院の日また明日来るね。待ってるよが最後の会話でした 入院する前年に手術をすれば助かるかもと医師にいわれ説得したのですが頑固にしたくないと言われその時諦めた自分も責めてしまってます。 葬儀も無事に済み周りからは良くやった、楽になった等言われましたが自分でも楽になったのかなと思った時期もありました。 でも祖母が亡くなって3か月後にはうつ病、パニック障害、社会不安と病にかかり外出や電車にも乗れなくなり現在に至ります。 毎日祖母のことを思い出しては誰にも分からない様似涙がこぼれ つい会いたいや後悔、今どうしたら良いか祖母に聞いて見たくなりますがそう思ったりすると祖母は振り返り振り返りでさまよってしまうのではないのかなと思ってしまいます。祖母の死をきちっと認めなければいけないのでしょうか。

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先週親友を病気で亡くしました

友人は同年代で、心から分かり合える親友でした。一昨年、脳腫瘍ということが分かり、その時点で余命1年との宣告でした。 家族以外は親友の私にしか病気のことは伝えられていませんでした。 友人はその時点で他の誰とも連絡を取ることをやめてしまい、私だけが唯一の心の支えとなっていたのだと思います。 家族からも、誰にも言わないでいてほしいと言われていたので、私自身も1人で悩み、事の重さを受け止めきれずにいました。 いつ友人から電話やメールが来るのか分からず、取り乱していることも多かったためしっかりと考えてから返事をしなければと思っていたので、しばらくは外出を控えた生活をしていたほどです。 その後、私が仕事を再開したり、妊娠したこともありマメに連絡をとったり、会ったりすることができない日々が続いていました。 友人も想像していたよりも元気にしており、このままの日々が続くのでは?と錯覚するほどでした。 それが先月急変し、あっという間にしゃべることもできなくなり、亡くなってしまいました。 あまりの事に今も受け入れられず、思い出しては泣いている日々です。 そして、なによりどうしてもっと会ったり話したりしなかったのかと後悔しています。どんなに苦しく、死の恐怖と1人で戦っていたのだろう。くだらない話しでもいいからたくさんすれば良かった。 できることがたくさんあったのに、どうして自分の生活を優先させてしまったんだろう。 いなくなって、どれだけ自分にとって必要な人だったのかを感じています。 ちょうど同じころに私は出産をしました。意識が無くなるほんの数日前のことで、最後に報告できて本当に良かったと思っています。10日も早く急に出産になったのはきっとこの子が生まれたことを友人に知らせるためだったのではないかと勝手に思っています。 友人の家族にも何もできなかったことを謝罪しました。しかし、本当に心の支えになっていたと思う、ありがとうという言葉を頂きました。 それでも私の心は悲しみと後悔でいっぱいです。この悲しみを乗り越えることができるのか不安です。 こんなに深い悲しみの中にいることを友人は望んでいないと言われるのですが、頭では分かっていても心が全くついてきません。

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母が亡くなり

2か月程前に母を亡くしました。 肺に影がありますと言われたのが4年前になります。 その時のペット検査の結果は肺炎の影でしょうと… その後の定期検査でも変化はなかったのですが、2年過ぎた頃 影が大きくなっていますと言われたのです。 母は肺気腫の持病があり、年齢的にも高齢であること、癌の位置が 悪く手術は難しいと言われました。 それにリンパにも腫れがあり転移しているかもしれないと… それから毎日毎日どうしたらいいのか、どうすることが母にとって 一番良いことなのか、そのことばかり考えました。 主治医や色んな人に相談しました。 色々と考え抜いた末、母には病気のことは何も言わず元気なうちに 普通の生活を出来るだけ楽しませてあげようと決めました。 毎月母が好きな温泉へ旅行に行ったり、花が好きなので季節ごとの 花を見に行ったり、母が行きたいという所へ行ったりして、母の体を 心配しながらも楽しい時間を過ごすことができました。 今年の2月上旬、いつものように旅行に行って、帰ってから3日後に 体調が悪くなり病院へ行き、そのまま入院を勧められ、初めは嫌がって いた母も2週間で退院できるからと、嫌々ながら入院しました。 でも1週間過ぎた頃から日に日に悪くなり、そのまま入院から半月程で 亡くなってしまったのです。 受診だけして帰るつもりだったのに入院することになり、2週間くらいで 退院できると言われたのに、そのまま亡くなってしまうなんて… どうしてこんなことになってしまったのか、何よりも母がどれだけ辛い 思いをしたのかと思うと本当に辛くて… 振り返ってみると後悔することばかりで、病気のことを全て話していたら 違う状況になっていたのではないか、母を早く死なせてしまったのでは ないかと… 母が心配しないようにと、つとめて元気でいるようにしているのですが 写真を見たり元気な頃の母を思い出したりすると、今はもう話すことも 母を楽しませることも喜ばせることも笑わせることもできないんだ… そう思うと本当に淋しく辛くなります。 母の病気が分かってから、母を楽しませること、喜んでもらうことが 生きる目的になっていました。 でも今はその母がいなくなってしまい、生きる目的がなくなって しまいました。 これから先、何のために、どう生きて行ったらいいのか... 何かアドバイスをいただけたら嬉しいです。

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私の結婚、長男の死 三

子供の頃、あんなに苛めていた長男を自分の都合が悪くなると味方に しようとしてお兄ちゃんお兄ちゃんと充てにし、無理やり仕事をさせて、 精神的に追い込み、私にはどうみても元夫が長男を死なせたとしか 思えません。自分の母親の下の世話もさせていた長男だったのに。 ただ、その元夫が一月の検診で高血圧で再検査、検査入院が必要だと いう事が最近わかったのです。私には「全く異常ない」って嘘を言って いました。実は、女と付き合っていた時に、目視でも解る位異常が見られ 三年前に検診を受けさせたのですが、その時は僅かに冠動脈に狭窄が みられるが、僅かという事で放置されていたんです。しかしここ最近 血流の滞りから巻爪に悩み始め、顔色は赤紫、心臓の異常にみられる 耳たぶのしわなど、傍目から見ても明らかに異常がわかります。ですが こんな時の為に女との事はいいといってあったのに、いい時は女が寄って 来て、お金も無いし、病気になってしまってからは私が看護しなきゃ ならないのが冗談じゃない、って思うと憤りに震えます。でも、元夫の母親は 施設ですし、息子は大学、元夫の姉は京都ですから、独身でいてもすぐに 来てという事は無いんです。やっぱりここは私の役回りなんだろうか・・・。 そう思うと、落ち込みます。 なんだか、元夫の一族のためだけに地球が回っているとしか私には 思えません。本当は、元夫からは定年退職金の半分を調停で請求し、 女からは息子達の生命保険分のお金を慰謝料として取る予定で 進めているからです。大事な長男を死なせた元夫を、長男と同じお墓に 収めるのも嫌です。

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私の結婚、長男の死 二

元姑の徘徊が始まり、真冬の夜中に居なくなったりした時は、私が 電話で呼ぶと、シブシブ帰ってきて探したり、大変になってきた時、元姑は 施設が決まり、ようやく楽になった時、元夫は真冬の一月、ストーブの 灯油が深夜に切れ、自分は女と一緒だからいいものの、私と息子は 凍死する位辛く、私はもう簡便ならず元夫に女の事について問い詰め ました。すると「会っていない、付き合っていない」と嘘ばっかりつくのです。 深夜三時に帰ってきて、誰とも会っていない訳がありません。そして調べて いくうち、女と二人で元姑の年金から二百万円も使い込み、遊んで全て 小便に流していたのです。それでも私は元々離婚していますから、 付き合っていてもいいと思っていたし、そうしてくれた方が元姑の事も、 息子達の事も、任せられるんなら、って思った位でしたから、別にいい、って 言ったんです。ただ、許せないのは、家族を騙して、家族を裏切って 使い込み、丸投げが許せない、って、それだけは問い詰めました。そしたら 次に息子二人と引越して行き、私を訴えてきました。調停内容を見て 余りにもバカで笑いましたが、息子二人の為に私は争わない事に したのです。その後長男が体調を崩し、一旦みんな家に戻りましたが 二ヵ月後、元夫は急に長男に仕事を見つけてきて、急いで決めさせ、 新しい家を見つけて出て行く計画を立てていたんです。長男に勤めはまだ 早い、せめて春まで待って欲しいと私は思ったのですが、女と約束が あったのか、早く出て行く事しか考えていない元夫でしたので、長男は 仕事の辛さと、家事がのしかかるかもしれない暮らし、 色々悩んでいたのは言わずとも解っていました。でも、もう元夫には何も 見えていなかったのです。そして、私に黙って二人の息子に生命保険も かけていましたから、私はようやくそれを解約させた時、長男は自殺して しまったのです。 今にして思えば、かけたまま死亡してしまっていら、使い込んだ二百万も 戻り、元夫、女との思う壺だったのかも知れない、私との間の子供なんか 要らない、って、そういう事なんだ、って私は思って疑いません。

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私の結婚、長男の死 一

こんばんは。 私は19の時、今の元夫と知り合い、22の時、結婚前に妊娠がわかり、 仕事もまだ正社員になっていず、さらに九州に住む親に子供できたから 結婚する、なんて言えないから始末してくれ、といわれ、中絶しました。 その後、正社員になり、結婚する事になりましたが、元夫の両親に 話したら、最初は快くいいと言ったものの、話していくうち「親の面倒を 見ない女との結婚は認めない」と言い出したのです。そんな事は一言も いっていません。ただ、北海道と九州ではすぐには無理だと言っていたのです。 結局、私達は式もせず籍をいれました。しかし、認められない結婚でした から、子供を育てるのでも全て私の親からの援助なしでは出来ません でした。が、子供が産まれ、育つうちに、元夫は長男に勉強を教えながらも 言葉の暴力で、いじめてばかり。私の母が見かねていました。そして次は パチンコ通い、夜遅くまでの飲酒、朝はいつもぎりぎりまで寝ていて、歯も 磨かず出勤というのが20年位続きましたが、私の母が心臓を患い、 医療費もかかる事から新築した家を手放す時、離婚をしました。それは 「親の面倒をみない女との結婚は認めない」と言われていたから、私は 母の看護があるし、と思ったからです。家のお金も私の親からで医療費も あって、元夫の親からは何一つなく、ついに破産した状態でした。 それから母親が亡くなり、長男が高校に進む事もあり、お弁当や 身の回りの事もあり、籍は戻さずに戻りましたが、いじめにあい編入をし、 次男は市内の高校に上がり、大学に行きたいといい始めた頃、元夫は、 舅が死亡後、元姑を引き取ってきたんです。痴呆が進み、独身の姉が 面倒みられないから、という理由で。私は結婚を反対された元姑の面倒を みさせられる結果になってしまったのです。痴呆ですから暴力もありました。 その頃長男もバイトから始めて、働こうとしていた時でしたので、私と 長男とで毎日痴呆の元姑と格闘していました。それから一年後、元夫が いきなり二人の息子を生命保険に入れたのです。母親の私に断りなく。 それは外交員の女と付き合う為で、自分で母親を引き取ってきたのに 面倒は私と長男に丸投げし、毎晩遊びに出かけていました。

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偶然と必然

4年前、私が中学生の時におじいさんが亡くなりました。 亡くなった時はもちろん悲しかったのですが、入院もしていて弱っていることは分かっていたので、私も家族もおじいさんが亡くなることに心の準備は出来ていたと思います。 しかし、お通夜の時にお隣の家の方が亡くなったという話を聞きました。 亡くなったのはその家の一番上の息子さんで、まだ20代で就職したばかりの、私も小さい頃にたくさん遊んでもらった人でした。 お隣のお母さんはすごく悲しんでふさぎこんでしまうほどでした。 私のおばあさんは「おじいちゃんが寂しいから連れてってしまったのかもしれないね」と言っていました。 私は偶然だろうという気持ちがありつつも、近い日にお隣の、しかもとても若い人が亡くなってしまったことに偶然ではない何かがあるように思えて仕方ありません。 おじいさんのお墓参りをする度にお隣のお兄さんのことを思い出してしまい、悲しさや残念な気持ちや申し訳なさなどで少し心が苦しくなります。 もちろん私が責任を感じるようなことはなにもないのですが、お兄さんのお葬式に行った際、たくさんの友人や先生など若者で溢れかえっていたことを思い出すとどうにも言えない気持ちになります。 私はおじいさんと隣のお兄さんの2人の死をどのように受け取ればよいのでしょうか

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親が亡くなり10年経って 3

長くなり、申し訳ありません、続きです。 くもの巣だらけでねずみのふんも落ちていて、住職は目が見えず、檀家も 歳とともに離れていき、管理がおろそかであることが解りました。そして 事情を話して、更に驚いたのが母が健在でいた時から、母が妹に預けて いたお寺の維持費を全く払って居なかったのです。そればかりか、私達が 新築した時、姪から預かった新築祝いも使い込み、私の手には渡らず 母が「私が立て替えるから」と、言っていましたが、出来るはずもない 妹に援助しつづけていたのですから。そして母が亡くなり十年、 姪は一昨年おまいりに来たものの、お金の事は知らん顔して 帰って行ったというのです。 でも、私も冷静になり、よく考えたら息子二人を育てる為に、母の 協力があってこそでしたし、養女であっても母は長女でしたし、維持費も 収めていないのに、たとえねずみのふんだらけでも、くもの巣が張っていても 十年も置いてくれたお寺に、何もせずお骨を引き取るなんて失礼だと 思い、滞納維持費を納めて引き取って来ました。ねずみの匂いがするのか、 猫が気にするのでお位牌も全て新しくし、お墓には母方のご先祖の墓誌も もう出来上がります。不思議と、長男の一周忌には全て片付きました。 それでも、母からの虐待、長男の自殺、その理由は元夫にある事を 考えると、私の気持ちは何一つ整理されていません。 ちなみに、母の妹の息子は、大学出てるのに最近までフリーターで 娘は専門学校を卒業しているのに田舎のホステスです。私の母は フリーターとホステスにする為に援助していたのかと思うと、本当に 悲しいです。母が亡くなっても、その辛かった事を思わない日がありません。 母の妹の子供達は、自分達の直系の先祖であるのに何もせず、 汚い仕事と、お金の事、厄介な事は全部私に押し付けて、母もその妹も さっさと死んで、何で私ばっかり。。。って、思っています。 私は、息子が亡くなっても、まだ泣いていません。そして私は 悲しくて泣いた事が一度もありません。 母が生きてる時、憤りで「私なんか産まなきゃよかったじゃない!」 って、どれだけ口論したかわかりません。 私はいつも悔し泣きしかしていません。

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