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「親・家族・恋人・大切な人の死が悲しい・乗り越え・立ち直る」問答(Q&A)一覧

母が亡くなり

2か月程前に母を亡くしました。 肺に影がありますと言われたのが4年前になります。 その時のペット検査の結果は肺炎の影でしょうと… その後の定期検査でも変化はなかったのですが、2年過ぎた頃 影が大きくなっていますと言われたのです。 母は肺気腫の持病があり、年齢的にも高齢であること、癌の位置が 悪く手術は難しいと言われました。 それにリンパにも腫れがあり転移しているかもしれないと… それから毎日毎日どうしたらいいのか、どうすることが母にとって 一番良いことなのか、そのことばかり考えました。 主治医や色んな人に相談しました。 色々と考え抜いた末、母には病気のことは何も言わず元気なうちに 普通の生活を出来るだけ楽しませてあげようと決めました。 毎月母が好きな温泉へ旅行に行ったり、花が好きなので季節ごとの 花を見に行ったり、母が行きたいという所へ行ったりして、母の体を 心配しながらも楽しい時間を過ごすことができました。 今年の2月上旬、いつものように旅行に行って、帰ってから3日後に 体調が悪くなり病院へ行き、そのまま入院を勧められ、初めは嫌がって いた母も2週間で退院できるからと、嫌々ながら入院しました。 でも1週間過ぎた頃から日に日に悪くなり、そのまま入院から半月程で 亡くなってしまったのです。 受診だけして帰るつもりだったのに入院することになり、2週間くらいで 退院できると言われたのに、そのまま亡くなってしまうなんて… どうしてこんなことになってしまったのか、何よりも母がどれだけ辛い 思いをしたのかと思うと本当に辛くて… 振り返ってみると後悔することばかりで、病気のことを全て話していたら 違う状況になっていたのではないか、母を早く死なせてしまったのでは ないかと… 母が心配しないようにと、つとめて元気でいるようにしているのですが 写真を見たり元気な頃の母を思い出したりすると、今はもう話すことも 母を楽しませることも喜ばせることも笑わせることもできないんだ… そう思うと本当に淋しく辛くなります。 母の病気が分かってから、母を楽しませること、喜んでもらうことが 生きる目的になっていました。 でも今はその母がいなくなってしまい、生きる目的がなくなって しまいました。 これから先、何のために、どう生きて行ったらいいのか... 何かアドバイスをいただけたら嬉しいです。

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私の結婚、長男の死 三

子供の頃、あんなに苛めていた長男を自分の都合が悪くなると味方に しようとしてお兄ちゃんお兄ちゃんと充てにし、無理やり仕事をさせて、 精神的に追い込み、私にはどうみても元夫が長男を死なせたとしか 思えません。自分の母親の下の世話もさせていた長男だったのに。 ただ、その元夫が一月の検診で高血圧で再検査、検査入院が必要だと いう事が最近わかったのです。私には「全く異常ない」って嘘を言って いました。実は、女と付き合っていた時に、目視でも解る位異常が見られ 三年前に検診を受けさせたのですが、その時は僅かに冠動脈に狭窄が みられるが、僅かという事で放置されていたんです。しかしここ最近 血流の滞りから巻爪に悩み始め、顔色は赤紫、心臓の異常にみられる 耳たぶのしわなど、傍目から見ても明らかに異常がわかります。ですが こんな時の為に女との事はいいといってあったのに、いい時は女が寄って 来て、お金も無いし、病気になってしまってからは私が看護しなきゃ ならないのが冗談じゃない、って思うと憤りに震えます。でも、元夫の母親は 施設ですし、息子は大学、元夫の姉は京都ですから、独身でいてもすぐに 来てという事は無いんです。やっぱりここは私の役回りなんだろうか・・・。 そう思うと、落ち込みます。 なんだか、元夫の一族のためだけに地球が回っているとしか私には 思えません。本当は、元夫からは定年退職金の半分を調停で請求し、 女からは息子達の生命保険分のお金を慰謝料として取る予定で 進めているからです。大事な長男を死なせた元夫を、長男と同じお墓に 収めるのも嫌です。

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私の結婚、長男の死 二

元姑の徘徊が始まり、真冬の夜中に居なくなったりした時は、私が 電話で呼ぶと、シブシブ帰ってきて探したり、大変になってきた時、元姑は 施設が決まり、ようやく楽になった時、元夫は真冬の一月、ストーブの 灯油が深夜に切れ、自分は女と一緒だからいいものの、私と息子は 凍死する位辛く、私はもう簡便ならず元夫に女の事について問い詰め ました。すると「会っていない、付き合っていない」と嘘ばっかりつくのです。 深夜三時に帰ってきて、誰とも会っていない訳がありません。そして調べて いくうち、女と二人で元姑の年金から二百万円も使い込み、遊んで全て 小便に流していたのです。それでも私は元々離婚していますから、 付き合っていてもいいと思っていたし、そうしてくれた方が元姑の事も、 息子達の事も、任せられるんなら、って思った位でしたから、別にいい、って 言ったんです。ただ、許せないのは、家族を騙して、家族を裏切って 使い込み、丸投げが許せない、って、それだけは問い詰めました。そしたら 次に息子二人と引越して行き、私を訴えてきました。調停内容を見て 余りにもバカで笑いましたが、息子二人の為に私は争わない事に したのです。その後長男が体調を崩し、一旦みんな家に戻りましたが 二ヵ月後、元夫は急に長男に仕事を見つけてきて、急いで決めさせ、 新しい家を見つけて出て行く計画を立てていたんです。長男に勤めはまだ 早い、せめて春まで待って欲しいと私は思ったのですが、女と約束が あったのか、早く出て行く事しか考えていない元夫でしたので、長男は 仕事の辛さと、家事がのしかかるかもしれない暮らし、 色々悩んでいたのは言わずとも解っていました。でも、もう元夫には何も 見えていなかったのです。そして、私に黙って二人の息子に生命保険も かけていましたから、私はようやくそれを解約させた時、長男は自殺して しまったのです。 今にして思えば、かけたまま死亡してしまっていら、使い込んだ二百万も 戻り、元夫、女との思う壺だったのかも知れない、私との間の子供なんか 要らない、って、そういう事なんだ、って私は思って疑いません。

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私の結婚、長男の死 一

こんばんは。 私は19の時、今の元夫と知り合い、22の時、結婚前に妊娠がわかり、 仕事もまだ正社員になっていず、さらに九州に住む親に子供できたから 結婚する、なんて言えないから始末してくれ、といわれ、中絶しました。 その後、正社員になり、結婚する事になりましたが、元夫の両親に 話したら、最初は快くいいと言ったものの、話していくうち「親の面倒を 見ない女との結婚は認めない」と言い出したのです。そんな事は一言も いっていません。ただ、北海道と九州ではすぐには無理だと言っていたのです。 結局、私達は式もせず籍をいれました。しかし、認められない結婚でした から、子供を育てるのでも全て私の親からの援助なしでは出来ません でした。が、子供が産まれ、育つうちに、元夫は長男に勉強を教えながらも 言葉の暴力で、いじめてばかり。私の母が見かねていました。そして次は パチンコ通い、夜遅くまでの飲酒、朝はいつもぎりぎりまで寝ていて、歯も 磨かず出勤というのが20年位続きましたが、私の母が心臓を患い、 医療費もかかる事から新築した家を手放す時、離婚をしました。それは 「親の面倒をみない女との結婚は認めない」と言われていたから、私は 母の看護があるし、と思ったからです。家のお金も私の親からで医療費も あって、元夫の親からは何一つなく、ついに破産した状態でした。 それから母親が亡くなり、長男が高校に進む事もあり、お弁当や 身の回りの事もあり、籍は戻さずに戻りましたが、いじめにあい編入をし、 次男は市内の高校に上がり、大学に行きたいといい始めた頃、元夫は、 舅が死亡後、元姑を引き取ってきたんです。痴呆が進み、独身の姉が 面倒みられないから、という理由で。私は結婚を反対された元姑の面倒を みさせられる結果になってしまったのです。痴呆ですから暴力もありました。 その頃長男もバイトから始めて、働こうとしていた時でしたので、私と 長男とで毎日痴呆の元姑と格闘していました。それから一年後、元夫が いきなり二人の息子を生命保険に入れたのです。母親の私に断りなく。 それは外交員の女と付き合う為で、自分で母親を引き取ってきたのに 面倒は私と長男に丸投げし、毎晩遊びに出かけていました。

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偶然と必然

4年前、私が中学生の時におじいさんが亡くなりました。 亡くなった時はもちろん悲しかったのですが、入院もしていて弱っていることは分かっていたので、私も家族もおじいさんが亡くなることに心の準備は出来ていたと思います。 しかし、お通夜の時にお隣の家の方が亡くなったという話を聞きました。 亡くなったのはその家の一番上の息子さんで、まだ20代で就職したばかりの、私も小さい頃にたくさん遊んでもらった人でした。 お隣のお母さんはすごく悲しんでふさぎこんでしまうほどでした。 私のおばあさんは「おじいちゃんが寂しいから連れてってしまったのかもしれないね」と言っていました。 私は偶然だろうという気持ちがありつつも、近い日にお隣の、しかもとても若い人が亡くなってしまったことに偶然ではない何かがあるように思えて仕方ありません。 おじいさんのお墓参りをする度にお隣のお兄さんのことを思い出してしまい、悲しさや残念な気持ちや申し訳なさなどで少し心が苦しくなります。 もちろん私が責任を感じるようなことはなにもないのですが、お兄さんのお葬式に行った際、たくさんの友人や先生など若者で溢れかえっていたことを思い出すとどうにも言えない気持ちになります。 私はおじいさんと隣のお兄さんの2人の死をどのように受け取ればよいのでしょうか

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親が亡くなり10年経って 3

長くなり、申し訳ありません、続きです。 くもの巣だらけでねずみのふんも落ちていて、住職は目が見えず、檀家も 歳とともに離れていき、管理がおろそかであることが解りました。そして 事情を話して、更に驚いたのが母が健在でいた時から、母が妹に預けて いたお寺の維持費を全く払って居なかったのです。そればかりか、私達が 新築した時、姪から預かった新築祝いも使い込み、私の手には渡らず 母が「私が立て替えるから」と、言っていましたが、出来るはずもない 妹に援助しつづけていたのですから。そして母が亡くなり十年、 姪は一昨年おまいりに来たものの、お金の事は知らん顔して 帰って行ったというのです。 でも、私も冷静になり、よく考えたら息子二人を育てる為に、母の 協力があってこそでしたし、養女であっても母は長女でしたし、維持費も 収めていないのに、たとえねずみのふんだらけでも、くもの巣が張っていても 十年も置いてくれたお寺に、何もせずお骨を引き取るなんて失礼だと 思い、滞納維持費を納めて引き取って来ました。ねずみの匂いがするのか、 猫が気にするのでお位牌も全て新しくし、お墓には母方のご先祖の墓誌も もう出来上がります。不思議と、長男の一周忌には全て片付きました。 それでも、母からの虐待、長男の自殺、その理由は元夫にある事を 考えると、私の気持ちは何一つ整理されていません。 ちなみに、母の妹の息子は、大学出てるのに最近までフリーターで 娘は専門学校を卒業しているのに田舎のホステスです。私の母は フリーターとホステスにする為に援助していたのかと思うと、本当に 悲しいです。母が亡くなっても、その辛かった事を思わない日がありません。 母の妹の子供達は、自分達の直系の先祖であるのに何もせず、 汚い仕事と、お金の事、厄介な事は全部私に押し付けて、母もその妹も さっさと死んで、何で私ばっかり。。。って、思っています。 私は、息子が亡くなっても、まだ泣いていません。そして私は 悲しくて泣いた事が一度もありません。 母が生きてる時、憤りで「私なんか産まなきゃよかったじゃない!」 って、どれだけ口論したかわかりません。 私はいつも悔し泣きしかしていません。

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親が亡くなり10年経って 2

 続きです。 そんな辛い幼少期を過ごし、母が病に倒れた時、妹と姪は見舞いと 葬儀に来ましたが、もう援助がもらえないという意味で泣いていたし、 母が入院中にお金がかかり、自分の美容院も節約して私にカットや カーラー巻きをさせていて、その浮いた分を妹の孫にお祝いとして 出していた母でしたから、葬儀のお金がまったくありませんでした。 私は、母が援助していた分を返す意味でも、葬儀代を出して欲しいと 話したら、「姉さん死んだら関係ないから!」って、怒鳴り散らして 帰って行き、それ以降会っていません。妹は死亡したみたいですが 姪はまだ健在みたいです。結局兄が、こつこつと葬儀代をローンで払い、 私が医療費を払いましたが、私の実家の菩提寺の住職には、お恥ずかしい 額しか包めず、今も申し訳なく思っています。PTSDもあって、今も母には 憎しみしかありません。いい思い出が全くないんです。貧しくて 辛い事ばかり。ですが、去年、長男が自殺してしまい、そんな事から これから先の先祖供養も考えて、私の実家と長男と、私の祖父が50年を 過ぎていたので50年墓を建てなくてはと思い、大規模な墓石に リニューアルする事になり、全て完成した時、ふと自殺する半年前に 長男が言った言葉を思い出しました。たまたま50年墓の話をしていて、 その時「じゃあ、おばあちゃんの実家のお骨さん達もね」って、 言ったんです。母は養女でしたから、本当は血のつながりもなく、血縁の あるのは妹の方だったんですが、嫁いでる事を理由に明治からある自分の 親の先祖を骨堂に放ったままにしていたんです。でも、長男は遺書も残さず 亡くなりましたから、それを遺言と思い、私は母方の親のお骨を預かりに 10年ぶりに骨堂に行き、驚愕しました。

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親が亡くなり 10年経って1

こんにちは。 私は、35の時に父をがんで亡くし、40の時に母を心不全で亡くしました。 ですが、どちらを亡くしても、特に母の時は泣くこともなく、むしろ 清々して葬儀、埋葬をたんたんとこなしていました。それには ひとつ、理由があります。 私と兄は、子供の頃から恵まれず、父は私が中学の時、家庭を 捨てて千葉に移り住み、そこで一人で働き、病で亡くなりましたが 私が居たこともあり、生活費だけは送ってくれていましたし、 そのおかげで、結婚しても二人の息子を育てるのにはとても 助けになりました。その一方母は、私や兄の事を殆ど 考えず、自分の妹、弟、姪のことばかり援助をし、私の兄は 調理師学校に行きたい、と、親に頼んでも余裕がないと言っていたのに 妹の息子の大学、娘の専門学校には多大な援助をしていました。 妹にお金を貸しても、戻ってくるものは妹の勤めている加工場の海産物 ばかり。現金は見たことがなく、それでいて妹自身はダイヤモンドに ブランド服と、派手な生活をしていました。一度私がその事で母に 問い詰めましたが、ちゃんと返してもらってる、の一点張りでした。 私は、子供の頃に母から虐待されていて、殴られ蹴られは普通 でした。今は幼児虐待死といいますが、私の子供の頃は「せっかん死」 という言葉があって、親がしつけのためにせっかんして、その時に 子供が死亡しても、大した罪には問われなかった時代でした。 その時、私は、母のする事には一切口を挟まない、黙る子になったんです。 黙ってしまったから、虫歯になっても、歯医者を託児所だと思っている 母でしたから、子供は親の付き添いが必要でしたので、悪化してようやく 歯医者に行く、の繰り返しで、今もって親からのネグレストが原因で、 歯の治療も進んでいません。そして、父が出ていったのも、子供の事も 夫も顧みない、母のそうした行動が原因だというのも、この頃に 気づきました。 2に続きます。

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元妻が亡くなりました。

2年4ヶ月前に離婚し、当時小学5年生の長女・1年生の次男は元妻が引き取る事になりました。当時の長男(元妻の連れ子)は就職が決まっていたので独立。 離婚の原因は経済的な理由でした。 婚姻中元妻はがんに罹患し、離婚時は経過観察中。 元妻はがんが再発し亡くなりました。今日が初七日です。 元妻は離婚後、付き合っている男性がいます。離婚後3か月くらいでその事に気が付いたのですが、離婚したのでとやかく言う事は出来ませんが子供への影響については一度だけ話しました。 子供の事は別として、「自分にはかかわらないで」と言われたので私はその後一度も口にしませんでした。再婚したとしても子供は私の子供ですし。 元妻は再婚はせず、いわゆる内縁関係の状態を続けており、かぜの噂では別れる別れないの話もあったようです。 私と子供達の関係は、次男はほぼ月1~2回泊まりにきており、長女は中学生のなると同時に盆暮れ正月に泊まりに来るのと、おこずかいのおねだりの時に泊まらなくても食事等をしていました。 元妻の異変は、子供の安全と保護のため役所の方からの連絡で知りました。亡くなるまでの数か月間、子供たちは一切私に話すことはありませんでした。また、子供達が発していたかも知れない信号に気が付いてあげる事ができませんでした。 亡くなった事は長男のSNSで知ることに。 葬儀の翌日、長男含め4人で話し合いました。 話し合いと言っても、子供達を混乱させたくないので私がちゃんと引き取る事の意思を伝え、今の子供達の気持ちの聞きました。 しかし、長女は内縁の男性と一緒に、次男は言えませんでした。 それ以上は話せないと思い、みんなで食事をし、次男は私の所に泊まりました。 内縁の男性と話しましたが、自分が引き取るとの意思は固いようで、法的手続きをすると言っています。 私は私で手続きはしますが、結果は今わかりません。 ただ、子供達がなぜそうなったのか、もっと私にできる事が私が気が付いていないだけでたくさんあったのではないかと思うと、自分が情けなく言葉になりませんし、何だったのだろうと考えても答えが見つかりません。 私自身しっかりしなくてはならないのですが、整理が付きません。 気づく方法や考え方を教えて下さい。 また、結果が相手なった事を考えると心配と不安です。

有り難し有り難し 21
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彼女が病死しました

丁度一年ほど前に、最愛の彼女をガンで亡くしました。 その事で落ち込んでしまい、なにも手につかず、ただ死にたいと思う日々が続いています。 精神科などにも行っても、納得の行く前向きな考え方がまったくできません。キリスト教や仏教の教えを聞いてもまったく納得できません。 彼女は僕が知りうる人の中でももっとも出来た人でした。 余命を宣告されても、自分よりも僕や自分の親のことを案じ、手術で子宮卵巣を摘出されて、術後の激しい痛みの中でも、子供を産める女性を羨ましく思う自分を律するほどでした。 なぜ彼女が死ななくてはならなかったのでしょうか、なぜ僕は彼女を失わなくてはならなかったのでしょうか。 「彼女は今天国で幸せにしている」と人は言います。 果たしてそうなのでしょうか? そう信じるほかないのは他でもない僕自身ですが、その保証はどこにあるのでしょうか? 「彼女はあなたに優しくされて幸せだったの」と人は言いますが、はたしてそうでしょうか? 僕のことを愛してくれていたからこそ、僕と家庭を築き子供を育てることこそが本当の幸せだったのではないでしょうか? 僕にはわかりますが、彼女は幸せではなかった。 できることが減っていく毎日の中で、死を感じてゆく日々に絶望し、毎日を当たり前に過ごす他人が恨めしく、またそう思う自分と戦っていました。 人は等しく罪人であると、僕も心からそう思いますが、それでもやはり彼女は若くして死ぬにはあまりにも惜しい人でした。 彼女があのように苦しむ謂れはあまりにもあり得ません。 彼女と僕のこの無念は、あまりにも大きすぎます。 僕はただ、また彼女に会いたいだけです。 どうして会えなのでしょうか、なぜもう一緒にいられないのでしょうか。 相談する身でありながら、何を聞きたいのかもよくわからない状態の自分をお許しください。 ただ、なにか、お言葉を戴ければと思います。

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嫌と言えない八方美人をやめたいです

先日、別れたこどもたちの父親のことで、彼から会いたいとの連絡が今もくると相談させていただき、会うべきではないとお答えをいただきました。 まずは自分とこどもたちの生活をしっかりと持つことが大切だ、とも。 彼は私にとって最低な人でした。 ですが無視しきれないのです。 もう2度と会いたくもないし、会うつもりはないのですが、どうにか円満に彼から諦めてもらいたくてつい返事をしてしまうのです。 そんな中でも嫌われるのが怖くて、ついつい、いつかは会うかもしれないけど今は…というニュアンスで返事をしてしまいます。 昔からこの性格には悩んでいて、嫌と言えない性格のせいで、告白された男性に対して断ることができずに、結果として二股をかけてしまったこともありますし、友達に薦められらるがままあまり欲しくもないものを買ってしまったりします。 何かを頼まれると、これを断れば嫌われてしまうという気持ちが大きくなってしまって、嫌われるのが怖く、嫌だと言えなくなってしまうのです。 それは知り合いに対してだけでなく、初対面の人にもそうなのです。 そうして疲れて、すべてがどうでもよくなって全てを投げ出してしまったりするのです。 どうにかしなくては、と思ってはいます。 二股のようになってしまったこと、今でも反省しています。 ですが変われないのです。 変われずに、最低な父親である彼を見捨てることもできないのです。 八方美人で嫌だと言えないこの性格をなおすことはできるのでしょうか? ご教授願います。

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母の死

こんにちは 初めて質問させてもらいます。 今年の1月母が癌で亡くなりました。闘病生活1年、入退院を繰り返し、効果があると言われれば温泉にいったり、食生活を変えてみたり、他県の最先端の治療を受けにいったりと色々走りました。一時はいい方向にいきましたが結局癌を止めることはできませんでした。先生にもう本人の好きなことをしてゆっくり過ごしてくださいと言われましたが2月に産まれる私の子供が見たいからと最後まで 諦めず治療をすることを選びました。闘病中、母は私に1度だけ苦しいもう治療をやめたいと言いました。私は心の中でもういいよと思いながらも諦めるの?と言ってしまったのです。その時は治療を信じるしかなかったのです。母は自分でまず3年生きるだから頑張ると言ってくれましたがたぶん私を不安にさせないためだったと思います。頑張ると言っていた治療を終え退院し自宅に帰って来た次の日容態が悪化し酸素をつけながらも自分が死ぬのをわかっていたのかみんなに会いたいと姉妹全員が病院に来てくれ、そして家族全員とありがとうと握手をして、だんだん意識がなくなりみんなに看とられながら亡くなりました。 すごく痛く、苦しい中でも周りを気づかっていた母。 闘病中、一生懸命支えようとどんどん変わっていく母を見て涙を流さないようにと強がって厳しく接することしかできず、死を受け入れてちゃんと接することができませんでした。もし受け入れていたらこんなにも辛い治療を選ばせずに、体を傷つけずにもう少しだけでも長生きできていたのかな、心穏やかに過ごせていたのかなと後悔しかありません。どれだけ無理をさせて苦しめてきたのかと思うと涙が止まりません。優しくできなかった、病気を早く見つけてあげられなかった、自分が憎いです。

有り難し有り難し 16
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親友でもある母の死

友達のように仲の良かった母が 先日癌で亡くなりました。 最後は苦しみながらではなく、 昏睡状態のまま亡くなりました。 癌が発見されて約二年半でしたが。母のしたいのと、食べたいもの、会いたい人にあって 濃厚な二年半を過ごしました。 癌が発見されてから、いつかこの日がくるとは分かっていても、親友のような母だったので、 毎日連絡取っていたのが、取れなくなり、喋りたくても喋れない。。 とても寂しいです、分かっていても寂しくて 歩いていても、母と娘2人が歩いてる人を見ると羨ましくて仕方ありません。 人は亡くなると四十九日までどうなってるのでしょうか? 天国に行っても、悪い人から追い払うとか聞いたのですが、天国にも悪い人なんているのでしょうか?三途の河は存在するのでしょうか? 母が心配でなりません。。 夢で会えると思っていましたが、まだ夢でも会えていません。たくさん話したい事があるのに、 話せなくて…。 昏睡状態のまま亡くなった母は、 自分の命が長くない事に気付いていたのでしょうか。そんなことばかり気になってしまう日々を過ごしています。 長々と申し訳ありません。 少しでもこの疑問が解決出来ればいいなと思い、投稿しました。

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母の死

母の介護を15年してきました。状態が悪くなり入院をしました。その後、鼻から栄養を入れて、元気になり、胃ろうをして退院の日も決まっていました。ある日病院へ行くと、前日とは全く違う苦しそうな呼吸をしていて、私が看護師に言うと、何もないような事を言うので、看護師が言うなら大丈夫かな?と思い帰りました。翌日行くと、呼吸は変わらず苦しそうで。違う看護師に聞いたけど、暑いからね〜。と。私は納得できず、夜勤で交代する看護師にもう一度おかしい。と言いました。その看護師は慌てて先生を呼んでやっと診てもらえました。肺炎でした。それから1週間後、退院予定の日に亡くなりました。 看護師にも婦長にもなぜあの時すぐに気付いてくれなかったのか?こちらがおかしいと言っているのに診てくれなかったのか。私は看護師を責めました。長い命ではなかったかもしれないけど、入院中に肺炎になって見過ごしで亡くなるのは納得がいがず、訴訟も考えています。それから1年になろうとしています。時が経てば怒りもおさまるだろう。と思っていたけど、おさまるどころか病院に対する不信感と憎しみが増幅しています。いろんな人に聞いてもらっても、答えがでません。家族は訴訟おこしても、還ってはこない。といって、私1人が悶々としています。母の事は全て私がすすんでしていたので、自宅で看取る覚悟でいたので、こんな納得のいかない亡くなり方に心が晴れる事がありません。私が間違っているのでしょうか?それと、介護生活の中で暴言を吐いたり、叩いたりしてしまった事を後悔しています。その事が頭から離れず苦しくて仕方ありません。母が亡くなる1ヶ月前に愛犬を亡くして、立て続けに大切な家族がいなくなってしまって、心から笑えなくなってしまいました。 母から譲り受けた遺伝子のおかげで友人や知人に恵まれているので、助けてもらえる事が唯一の救いです。 母が受けた信仰宗教もできなくなった母のために頑張ってきましたが、やめようかと思っています。 私は軽いパニック障害があり、日常生活に問題はありませんが、離れたところへ1人で出掛ける事が不安でいつも誰かについてきてもらって迷惑かけていて、これからの事を考えると、この頃、母と愛犬のところへ行きたくて、早くお迎えこないかなぁ。と思ってしまいます。 私はどう受け止めたらいいでしょうか? よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 26
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