努力は無駄? 夢を諦めるか、諦めないか。
学生時代に精神を病み、芸術学系の研究者になるための就職に挫折し、現在は実家暮らし。父の扶養の範囲内で働く。生活費は実家に面倒見て貰っている。
美術館でアルバイトをしながら、細々とネット上で美術史などのエッセイを投稿しています。
あんなに熱心に勉強したのに、
精神を病んで研究職の推薦を、実質上破門になり辞退してからは、私の執筆は、病人の手慰み、ただの趣味扱いされるようになりました。
ネット上の投稿として、注目を集めていない、実力が伴っていない状態を加味しても、屈辱です。
一度は、修士を修了して、内々に推薦されるところまでいった文章力です。
まるきり無価値なはずはないと思います。
でも、家族も、かかりつけの精神科医も、ネット上の読者も、彼氏も、誰も私が研究者の卵だったこと、それがアイデンティティだったことを理解してくれません。
私の文章に興味を持ってもくれません。
誰も、努力・個性・発信内容の価値・過去の経歴を認めてくれない。
さらに、どんな思いで、健常者と同じに活躍できないこと、体力を目一杯消費して楽しめない悲しみに耐えてきたか、知ろうともしない。
それがとても悔しい。
専門的な資料だって、私費で本棚に溢れ返るくらい集めました。
傍から見れば、裕福で何不自由なく育ったように見えるだろうけれども、
両親はいつもギスギスしていたし、男手一つで育って、勉強以外は休日の時間は家の用事に使ってきました。
子どもの頃から、大学院修了まで、他の経験を犠牲にして、教養や学問一辺倒で努力してきました。
けれども、後ろ盾なしでは評価の土台に上がらない、私の乏しい才と、持病の精神疾患により実らず、無駄になりました。
健常者なら、若いから人生これからですが、精神障害者なので、すでに半分、社会からドロップアウトしてる心持ちです。
研究者として挫折した時に、心の現役も終わり、余生になった感じがします。
○私は、どんな心構えでどんな目標や指針に生きればいいのでしょうか。
また、集めた資料も売却して、執筆も辞めて、美術館のアルバイトも辞めて、美術と無関係の障害者雇用で働いて、障害者なりの微々たる収入を増やし、稼いだお金を少し楽しいことに使って、気安く生きていこうかという選択肢も検討しています。
○このまま執筆を続けていく意味はあるのでしょうか。
ご意見、お待ちしております。

有り難し 9

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