自殺を止める常套句。 生きてれば良いことがある! 良いことはなく毎日地獄のような毎日を送り苦しむ、そこから逃れたいだけ。 ・毎日の苦しみ ・悩みからの逃れ ・人生や四苦八苦からの逃れ ・人間関係からの逃れ ・過去やトラウマからの逃れ 嫌なことは全部手放せる。 少なくとも自殺をするか、しないか毎日悩む時に私は死に対して希望を持ってしまう。 死への恐怖と残される親だけが抑止力である。 いつか良いことがあるという言い方はとても説得力に欠けます。 じゃあ良いことが無いならば死んだ方がいいのでは、ないかと思う。 生きてれば希望がある→大嘘。運が良く、とてつもなく恵まれた人は希望があるかもしれません。 昨日、感電して顔がグチャグチャになったアフリカ人がラジオに出ている画像を見ました、彼は自殺願望があるようです。顔がグチャグチャになったら良いことなんてあるわけないです。 苦しい事ばかりが待っています、そして本人はそれの予期ができる、これから人生が悪い方向に進むと。 私も同じ状況です、顔じゃないですが人生がグチャグチャですし、顔がグチャグチャになる事で毎日肉体的に疼痛が続くでしょう。 それが私の毎日の嫌なことに近いかもしれません。 つまり顔がグチャグチャになったアフリカ人やら、ナメクジを食べて全身麻痺になったオーストラリア人も、私も同じ状況です。 みんな嫌でしょう?顔がグチャグチャですよ? グチャグチャになったら良い事なんか想像できないから嫌な気持ちになるんです。 少なくとも誰も顔がグチャグチャになりたくない。 誰でも予測出来ますよ、今から顔がグチャグチャになると想像してみてください。 差別はされますし、友達は減りますよ、働けないし働いたとしても嫌な仕事、結婚はできないし、趣味もできない、毎日肉体的に痛い苦痛。 死にたくもなるでしょう。 それでも生きてれば良い事があると言えますか? 自分の顔が今グチャグチャになっても生きてれば良い事があると言えますか? 顔がグチャグチャになるというのは比喩ですが、私も同じような状況です。これから嫌な事が毎日毎日毎日あるとわかっているのにどう生きたいと思えるようになるのだろうか。 私も自殺をしたくはない。でも生きてるのが苦痛すぎる。
三十代半ばで地元に戻り、周囲は結婚して育児をしています。そしてこれから転職活動をします。 二十代から三十代前半にかけて、自分のやりたいことを主軸に考え、自分のやりたいように思い切り生きて来ました。 自分で選んだ人生だと思っていましたがこの歳になり仕事もうまくいかず、今だに独身で今までの選択は間違っていたのではないかと苦悩する日々です。 かつては『人は人』と思っていましたが、最近の自分はうまくいかないことも多くて周囲と自分を比べてしまいます。 自分が選んだ人生なのに、焦ってしまって辛いです。 私の選択は間違っていたのかな…。 正解ってなんですか?
家族で外食するのを、嫌だと思ってしまいます。 そんな思いは言葉に出さずに、外で食事はしたくない、とだけ話すと「なんなの? 面白くない!」と母を怒らせてしまいました。 父と母、年上の男兄弟と、いい歳をした私。 同級生が新しく家族を作っているというのに、私たち家族は、年齢を重ねていっているだけで何も変わらない。 正直、恥ずかしいのです。 誰にも見られたくないし、会いたくもない。 こんな考えは、おかしいでしょうか? 知り合いと会いそうな地元のスーパーは極力避けているし、顔見知りがいないか常に気を張っている状態です。 何一つ持たず、変わらない私を誰にも知られたくないのです。 ならば、引っ越せばよいのではと何度も考えましたが、今の仕事を辞めるわけにはいきません。 大学を卒業して、周りから遅れること三ヶ月、ようやく決まった会社です。 他に雇ってくれそうなところなど、あるとは思えません。 これから先、どうしていくべきなのか… 最近は一人でですが、旅行に行くのを楽しんでいました。 しかしそれは、現実から逃げたいだけだったのかもしれません。 嫁に行けない娘を、両親はどう思っているの? 友達を作れず、いつも一人行動な私は、やっぱり変な人? 一人で生きていくにはいくら必要?お金があったとしても、きっと寂しい。 一人で死んだら、私の死体はどこへいくの? そもそも、誰が見つけてくれるのか。 ひとつ嫌なことがあれば、普段気にしないようにしていることが、どんどん頭に浮かんでしまいます。 私には、叶わないことが多すぎます。
何かをしようとしても何もやる気が出ない。 新しい仕事を探そうとすると涙が出ます。 履歴書1枚すら書けない。 負けた。 社会にも客先にも自社にも自分にも負けた。 働くとは生きるために働くのか、死ぬために働くのか今となっては分かりません。
社会人になってから、人の目を、人の意見を気にしながらやってきました。 自分の行動を否定され、自分の意見を否定され、家族にさえ愚痴を話しても「その程度は苦労に入らない」言われ、これまで自分なりに頑張ってきました。 そのなかで最近よく思うのです。 自分が今、生きている意味ってなんだ? そもそも何の為に生きている? と常々考えては何も浮かびません。 では何の為に毎日行きたくもない場所へ起きたくもない時間に起きて行き、したくもない事を一緒にいたくもない人間とやっているのかが甚だ疑問になり、でもその答えも当然出ません。 では私は何の為に何をしているのでしょうか、もう自分でもわかりません。 甘ったれた事をと、御叱咤されるのが最もな質問なのですが、どうか教えてください。 私は今、何をしているんですか
毎日、あまり食べられない日が続いています。 胃がやられているんだそうです。 全身のしびれとかあるときがあるときは吐き気がするときがあり、毎日が辛いです。 食事も食べたら食べたで吐き気がしたりしてとても辛いです。 病院から処方された薬を飲んでいるのですが、効いているんだか効いてないんだかわかりません。 病院へ行ってもストレスがある限りは治らないと言われました。 事の発端は逆流性食道炎からでした。最初に行った病院は、夏バテだと言われ、次の病院も夏バテだと言われ入院しました。入院している間はパニック障害が毎日のように起こりとても辛かったです。 最終的には違う病院で胃カメラをし、逆流性食道炎ということがわかりました。 毎日、薬を飲んでいたおかげで逆流性食道炎は治ったのですが、パニック障害と胃炎?みたいなものが治っていません。 きっと治ると信じることしかできません。 早く楽になりたいです。 正直いうと死にたいです。 当たり前のことができなくなってしまいました。 もう病気以外のことなら何でも乗り越えられる勢いです。 私は毎日、短いながらも仏様に拝んでいます。 少しでも良くなるように 寝ているときが一番幸せです。 どうか私に言葉という救いの言葉をお願いします。
幼い頃からひとりだと、ひとりで生きていく術が身につきました。 逆に集団生活が苦痛です。こういうのを「協調性がない」というらしいです。 ごもっともらしい事を言いやがって! そう思えてなりません。
数年前、私は大量の下血をしました。 その当時の私は、生きることに疲れていました。 主治医からは「命に関わることですよ!」と言われましたが、私は「ラッキー!」と思い、検査を断りました。 それから1年が経ち… 「まだ生きているやん…」 そこで「じゃあ、一周年記念に」と、大腸検査を受けに行きました。 特に問題なしとのこと。腸内には傷も何も残っておらず、「また定期的に検査を受けに来て下さいね」と言われただけでした。 なので、そのままに。 定期検査にも行くことなく、今に至ります。 でも、実は今年に入ってからも、また下血を繰り返している時期がありました。 「またか…」という気持ちです。 まだ検査は受けていません。放置していたら、また下血しなくなったので、何だか行きそびれましたね。 でも、「まぁ、いっか」と思っています。 体調が悪いことには慣れてしまいました。 今は、別の病気で、別の精密検査を受けているので、大腸のことは「まぁ、いっか」と。 人間、なかなか死ねないものです。 思っている以上に、頑丈に出来ているのですよ。 多分、死にたい時には死ねません。 しかし、死にたくない時に死ぬこともあります。 自分でコントロール出来ないのが「死」です。 誰にもコントロール出来ないのです。 でも、いつか必ず死は訪れます。 だから、何も焦る必要はありません。 「今」を精一杯生きていればいいのです。 私は、「いつ死んでも後悔しないように生きる」をモットーにしています。 辛い時も苦しい時も、楽しい時も幸せな時も、全てが「今の私」なのです。 頑張らなきゃならない時は頑張りますし、頑張らなくてもいい時は頑張りません。 私は、1人ではありませんよ。 hasunohaで出会ったお坊さまだって、たくさんいます。 だから、皆に感謝して生きています。 時々、暗~い私もhasunohaに訪れますが、何もなくて幸せ~な私もhasunohaに訪れます。 hasunohaは、私が頼る場所であり、同時に勉強する場所です。 他の方の質問も読ませていただいております。 そして、それに対してお坊さまがどのようなアドバイスをなさるのかも注視しています。 生きている限り、私の「学び」は続きます。 今私が頑張れるのは、皆が存在するお陰です。 皆様「ファイト!」です。
昨夜の22時以降の記憶が飛んでいて、何をしていたのか分かりません。 普段は、夕方に2時間程寝るだけなので、朝5:30に「ハッ!」と目覚めるようなことはなく、また、何故、居間で倒れるようなかたちになっていたのか不明です。 本当に、全く記憶がありません。 でも、多分、PTSDとか発作のようなものが私を襲って、そうなったのでしょう。 朝起きて、スマホを見ると、昔友達だった人に、メールを書こうとしていることに気が付きました。 その人にメールするなんて、まぁ無いはずなのに… 書こうとした目的も分かりませんし、「削除」としたら、その人からメールが届いている!しかも2通! 昨夜、読んで「すみません。欠席します」と私は返信したかったのでしょうか…。 届いていたメールの内容は、こうでした。 「11日に中学校の同窓会があるんだけど、来ない?トラスさんに連絡がつかないと、他の子から連絡があったんだけど」という内容のもの。 私は今、実家におりますし、同窓会があるならハガキぐらい届いているはずです。 メールのアドレスを知っている友人もいます。 が、昨夜初めて、離れたとこにいるその人から、同窓会へのお誘いのメールが届いていたようで… 私は中学生の時、自殺する程の酷い「イジメ」を受けていました。 以前、このhasunohaで、当時のイジメのことを書いたことがあります。タイトル「喜怒哀楽」から抜け落ちた「怒」です。 卒業式が終わった後の帰り道、別れ際に「誰がトラスさんを怒らせるかゲームしてたんだよ!」と言われた、という投稿でした。 そう、そのゲームの対象にされていた、中学校の同窓会へのお誘いメールを、わざわざ離れた場所にいる友人から、「連絡が取れない」「来ない?」とギリギリにメールが届き、私はパニックになっていたのかも知れません。 約6時間の記憶がぶっ飛んでいました。 先ほど「また元気になったら参加するね、ありがとう」と返信しておきました。 急激なストレスに耐え切れず、記憶をぶっ飛ばす方へ、脳が働いたのでしょう。 癒えぬ傷。 でも、記憶が飛んで良かったです。 倒れるだけで良かったです。 発作的にまた自殺でもしていたら、「負け」ですから。 この記憶のない約6時間が、私を救ってくれました。 思考回路の停止、安全な自宅内での失神or倒れ。 何も出来なくしてくれた「脳」に感謝です。
お互いへの思いやりが持続する関係が築けません。 (例1)先日、数年来の友人と待ち合わせをしました。 少し離れた場所だったので時間を逆算して家を出、到着5分前に「1時間遅れる」と連絡がありました。遅刻の常習犯でしたが1時間待たされるのは初めてでした。 仕方ないので暑い中待っていると「休憩してる~」と、喫茶店で涼んでいる写真が送られてきました。 (例2)別の、ドタキャン常習犯の友人に「こちらの都合もあるので早めに知らせてほしい」と注意すると「そんなことを言われる筋合いはない」と逆ギレされました。 (例3)ゼミの合宿で、車での移動中、「怖い先生の隣に座るのは後輩の役目」と先輩に言われ、後輩たちでローテーションしようという話になりました。 しかし、私の番が来ると、その席順がなぜか固定化され、乗車前に「変わろうよ」と言おうとすると、私を無視して他の同級生は集まって別の車に乗り込み、置いて行かれました。 同級生は、私がグループの代表に指名され、教授に質問攻めにされているときに、答えられず視線で助けを求めると、無表情で何か資料を読むふりをして、絶対に目を合わせませんでした。 彼らがひどいことをしてきたのは、きっと私が学内で「基本的にひとりで行動する人」だったからではないかと思います。 私に親切にしても人脈は広がらなそうでしょうし、努力しても結果の出ないバカだと先生に目をつけられていたので、足を引っ張られると思っていたのではないかと考えています。 例1、2の友人たちは、皆口を揃えて「あなたには甘えられる」とニコニコして言います。食事に行って「一口ちょうだい」と言われ、交換しようとしたらもう相手は食べ終わっていたり。(笑) なんだか「甘え」なんて可愛いものではなくてただ「馬鹿にされている」としか思えません。 共通の知人から、「あの子、あなたは大人で心が広いから、何をしても大丈夫なんだ~って話してたよ」と聞いたこともあります。 こんなに嫌な思いをするなら、ずっと「お互い気を遣う関係」でいたいのです。 同じグループにいても、他の人はそんな目に遭いません。 なぜ私だけ、「気を遣わないで」とも「何をしても怒らないよ」とも言ったことないのに…。 ひとりで生きていくしかないのでしょうか。
初めて質問を書きます。 生き死に について。 私は24歳です。 3年前、大変な仕事で精神的にも肉体的にもボロボロになってしまいました。 心療内科の先生からは抑うつ状態との診断を受けました。 その際、カウンセリングの先生から生き死にに関して問われました。 私は、生きるということに対して貪欲でないことに気が付きました。 生きる未来より死ぬ未来の方が安心していました。 ただただ、生きていたんだと思いました。 いままで大きな病気をしたこともないので、死を目の前に感じ、恐怖したことは有りません。 日本は尊厳死、安楽死の法整備は進んではいません。 自殺という方法でしか死ぬ日が決められないのかなと思いました。 私のような考えはおかしいのでしょうか。 私が生きていていいのでしょうか。 御坊様方、どうかお教えください。
こんにちは。 初めて質問させていただきます。 私は社会の一員として働いています、 人間として人間関係を築いています、 生き物として呼吸をしていますが、 それはただ「人間ならそうするべき」と押し付けられた価値観ではないでしょうか。 この姿は「生きている」と言えるでしょうか。 責任、義務、親孝行、 いろんな物に縛られた私は未だにこの世に生きています。 しかし、その物たちを背負いながら、 生きることがとても疲れ、退屈に感じました。 幸せなことも時々ありますが、 それらと比べると、 とても些細なことに過ぎないです。 別に人生に貪欲がありませんし、 やるべきことを全部果たした後、 一人ぼっちになった私は生きる必要があるでしょうか。 自分のためというなら、 鋼鉄の町で退屈で孤独な未来を迎えるより、 泣くほど美しい景色を浴びながら死んでいく方を選びたいです。 自分には自分の生死を決める権利があるへきだと思います。 そうであれば、 生きなければならない理由はなんでしょう? 御坊様方、どうかお教えください。 有難うございます。
※身元特定され、患者様達のご迷惑にならないよう、以降、プロフィールの都道府県を「お坊さんのみ公開」に致します。 私は今、自分の病気を治す為に、自宅療養しておりますが、病気が回復すれば、また復帰したいと考えております。 あくまでも、私はですが、入院・通院している間は、あまり病院内で知り合いに会いたくない、わざわざ職場の仲間に見舞いに来て欲しくないと思っております。 長年、患者様との距離感をどう保つべきか、や、入院・通院されている患者様と、院内でばったり出会した際の対応について、様々な疑問を抱いていてきました。 馴染みの患者様だと、わざわざ(例)「今度、ワシ6階南に入院するからな~!」と笑顔でおっしゃってこられる方もおられます。そういう場合は、この患者様はお見舞に来てな~とおっしゃっているんだなぁと解釈し、時間があるときに顔を見に伺ったりします。 しかし、何分、大きな病院ですので、大病を患っている患者様が多いのが現状。ばったり出会ったとき等は、挨拶した方が良いのか、それとも気付かない振りをした方が良いのか、咄嗟の判断に迷います。 とりあえず、明るい顔をされていたら挨拶したりお話したりするように、逆に、暗い顔をされていたらスッと気付かない振りをして通り過ぎるように、と、私なりに何とか無難に対応しようと心がけているのです。 大半は、見ぬ振り、知らぬ振りをします。ですが、「私、この前まで入院してたのに、全然来てくれなかったやん!」とか言われてしまうこともあります。 病気はプライベートなものですし、知らぬ振りをするのが一番かと思うのですが…。大病の末、亡くなられる患者様も多いです。病名は嫌でも分かってしまう為、「死」が身近にある患者様、「死」を意識せざるを得ない患者様に、いつ、どういったタイミングで、どういった声をおかけしたら良いのか、いや、自分がその病院内にいることをさとられないよう、静かに見守らせていただいた方が良いのか、悩んでいます。少しでも元気付けたい!という気持ちはあるのですが、病気を伏せておきたいという患者様も沢山いらっしゃると思います故… ビハーラ活動を勉強し、実行したい反面、自分が患者側に立ってみて、出来ればそっとしておいてもらえればなと感じております。 ケース・バイ・ケースだとは思いますが、お坊さまの視点から、何かアドバイス等あれば、お聞かせ願いたく存じます。
今回の災害のニュースを目にするたび、お年寄りが逃げられず亡くなった事が多いように思います。さぞ苦しかっただろうと思います。そのご家族も、また苦しいく辛いと思うし、私も胸がしめつけられます。 いろいろ考えさせられます。 心で考えて、行きついたところは「生きる」。 どんなに苦しくて辛くて、絶体絶命な状況下になっても諦めません、絶対に。
一年久方ぶりにハスノハに寄り道しました。 何から話せば自分の伝えたいことが伝わるのか 毎日あれやこれや優しい気持ち、妬み嫉妬、 それでも思いやり持って自分らしく?過ごすなか 少し前まで当たり前に元気だった人が亡くなったり、当たり前に顔を合わせてた人が突然いなくなったりと パタパタな日々でした。 ふ と気持ちの持って行きようがなくハスノハに来ました。 生きてると毎日 バタバタですね。 何を言いたいのか自分でも頭の中、整理できないで居ます。 ハスノハの皆様 ぶれない日々を過ごす秘訣を お教えくだされば嬉しいです。
ふと、あと何年生きれば人生終わらせることができるのかと、塞ぎがちになってしまいました。 役者を志していた際、無理がたたり鬱病になりました。 鬱病の間は両親の貯金で生活してしまった為、両親の貯金はかなり少ないと思います。 父は来年定年、このままだと今の生活レベルは無理だと聞いています。 私が働いて少しでも家にお金を入れれば、少しはマシだと思います。 役者を再び志すことで前に進めると思い、もう一度挑戦しようと思いました。 しかし今は中々アルバイトが決まりません。 毎日将来への不安の中焦っていた際、一体自分は何の為に生まれたのだろう?と疑問に思ってしまいました。 両親の介護の為でしょうか。人は自分の老後の為に子供を産むのでしょうか。 どうして私達はただ生きる為だけのために心をすり減らしながら働かなければいけないのでしょうか。 なんだか張り詰めてた糸が切れてしまったような感覚です。 あと何年生きなければいけないのかという苦しみの中、日々生きることに虚しさを感じます。 生きることは修行ですか?では何の為の修行ですか? もし生きることが修行だというのなら、生まれた時から自分の運命や課題、生まれた意味を知らないのは何故でしょうか。
お世話になっております。 最近、知り合いの方のご家族が、病気の為に将来を悲観して自殺しました。 私も、耳や目や、他の病気について、将来を悲観しており、自殺を考えたりするので他人事ではありません。 病気を持っているということは、病気により苦しむ覚悟をしなければなりません。 稼げなくなるし、お金がないから、生活に潤いがなくなる。孤独死。 苦しんでじわじわ死ぬより一思いに楽になりたい。 人間は精神が死ねば死んでいるのと同じです。 今の世はハンデある人には生きづらいです。 知り合いの方にはどうして自殺するくらい悩んでる御内を気遣えなかったのかといかりがわきます。 私の家族も私が自殺したいくらい悩んでいるのが、話しても分からないので。 生き抜くにはどんな心構えが必要なんでしょう? 生きたくても稼げなければ苦しいだけですよね。
いつもお世話になっております。 今週も、新しい経験ができ、新たな自分を見つけることができ、ありがたいなあと感じています。その中で、「なぜ生きるのか」についてある考えに至りました。 生きている理由は、ご先祖様からの課題を解決するためだと考えます。これは、兄弟間でも異なるのではないかと思います。課題解決のために、身体と能力を与えられたと考えます。解決方法は、行動実験してみて、五感で自分がどう感じるかということを実証することだと思います。自分の内面を見つめることだと思います。 例えば、坐禅、書道、神社参拝、寺院参拝、コーラス参加、仕事をする、家事をする、テニスをする、など日常生活すべてを行動実験にすることができるのではないかと思います。この行動実験が修行なのかと思います。 だから、いろいろなことをやってみるというのは大事なことで、これが自分に与えられた課題を解決していく近道だと思います。 とはいっても、課題が何なのかと認識したり、五感を使いこなしたりというのは、自分のことなのに難しいですよね。これらがよくわからないから、苦しむのかなと思います。 生きるとはどのように考えますか?
身近に相談できる方がいないため、僭越ながらこちらに質問させていただきます。 私は今年から大学3年生になった者です。 恥ずかしながら私はアルバイトの経験がありません。 1年ほど前に社会勉強としてアルバイトを始めたいとの旨を親に相談したところ、「お金ならあげるからもっと学生のうちに出来ることをして」と言われてしまい、今もその言葉に甘え続けてしまっています。 今後、就活などをする上でもアルバイト経験がないというのはとても不利だと思いますし、自分でも始めなくてはと思うのですが、チャレンジする前から不安な事ばかりが頭をよぎって結局楽な方に逃げてしまいます。 周りの人は1年生の頃から、下手すれば高校生の頃から始めている人が多く、そんな周りの人と自分を比べてしまい強い劣等感と、もっと自分も早く始めておけばよかったという後悔で常に落ち込んでしまいます。 自分は自分、他人は他人、と頭の中では分かっていても、なぜ自分は他の人と同じように生きられないのか、なぜ他の人が容易く成し遂げてしまうことがこんなにも難しく思えてしまうのか、不安と自己嫌悪で毎日押し潰されそうです。 どのようにすればこのような弱い自分を受け入れ、様々な事に対して挑戦できる強い人になれるでしょうか。 長文失礼いたしました。
こんにちは。20代の学生です。 私は以前から抱えていたいくつかの悩みをずっと解決できずにいます。 一つ目は家族との不仲です。 高校生の時は家族と喧嘩してもそのことについてずっと引きずることなく、 むしろ割り切って話せる関係になってよかったな、この家族でよかったなと思っていました。しかし大学に入ってからはそうはいかなくなりました。 理由もなく、ちょっとした家族の一言が癇に障るようになって冷たい態度をとってしまうのです。 自分に余裕がないんだろうな、と思って気を付けようとしても変われません... 私が不機嫌な態度を取るため、家族にもそれが伝染してお互いの一言一言が冷たくなりました。 また以前よりも食事中の会話がめっきり減りました。 楽しくて憩いのはずだった時間も、私の理由ない不機嫌な態度が原因で起きてしまっていると思うと申し訳ないのに、 今から自分の行動を改めようと思ってもなぜか変えられません。 勇気を出して変わらないと、と思っても一歩踏み出せずにいます。 もう一つは友人関係です。 友人と話しているときの私の頭の中は、楽しい空気を作らなきゃ、 冗談言ったつもりだけどあんまりいい反応じゃなかったな、 やっぱり私の話ってつまらないんだな、と相手の反応ばかり気になってうまく話せなくなってしまいました。 私の周りの友人は、ユーモアがあり知的で素敵な人ばかりなので、 なおさら自分のふがいなさが目に付きます。 私自身、友達ともっと楽しい時間を過ごしたいという気持ちと、○○(私)といると楽しいな、と友人に思ってもらえたらいいなと思うのに上手くいきません。 このような日が一年ぐらい続いていて、私ってなんで生きているんだろう?もし今私が死んだとしても、きっと誰も悲しまないな、とも思えます。 こんな風に思ってしまう自分も大嫌いです。 家族とよい関係を築きたい、友人との時間をより良いものにしたい。 変われないままの自分はもうたくさんです。 成長しない私をどうか叱ってください。厳しいお言葉で構いません。 勇気を踏み出すためにはどのような心持でいたらよいでしょうか。 会話の秘訣とはなんでしょうか。 どうか力をお貸しください。 最後まで読んでいただき本当に有難うございました。