生きなければなりませんか?
こんにちは。
初めて質問させていただきます。
私は社会の一員として働いています、
人間として人間関係を築いています、
生き物として呼吸をしていますが、
それはただ「人間ならそうするべき」と押し付けられた価値観ではないでしょうか。
この姿は「生きている」と言えるでしょうか。
責任、義務、親孝行、
いろんな物に縛られた私は未だにこの世に生きています。
しかし、その物たちを背負いながら、
生きることがとても疲れ、退屈に感じました。
幸せなことも時々ありますが、
それらと比べると、
とても些細なことに過ぎないです。
別に人生に貪欲がありませんし、
やるべきことを全部果たした後、
一人ぼっちになった私は生きる必要があるでしょうか。
自分のためというなら、
鋼鉄の町で退屈で孤独な未来を迎えるより、
泣くほど美しい景色を浴びながら死んでいく方を選びたいです。
自分には自分の生死を決める権利があるへきだと思います。
そうであれば、
生きなければならない理由はなんでしょう?
御坊様方、どうかお教えください。
有難うございます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
不満を残して死んでも生まれかわるだけ。
人生で一番大事なのは、仏教を学び実践することです。
なぜはら、仏教は、自分と他人の悩み苦しみを減らすテクニックの塊だからです。
また、仏教では輪廻転生を考えます。
輪廻転生してしまう、死んでもまた生まれ変わってしまう原因は、煩悩や執着が残っているからです。
完全に煩悩がなくなり、完全に不満がなくなり、完全に満足したとき、心底「成すべきことは全て成し遂げた」と思え、そのときに初めて、二度と生まれかわらない、二度と生きる必要がなくなるのです。
「生きるのがしんどい」と思うようでは、まだまだ煩悩だらけで、満足していないのです。
不満を残して死んでもまた生まれかわるだけ。
法然上人という鎌倉時代のお坊さんは、「生死ともにわずらいなし」と言われています。
生きても良いし、いつ死んでも良い、という境地。
「早く死にたい」という不満もないし、
「もっと生きていたい」という不満にもない。
それは、仏教徒が目指す心境の一つだと思います。
せっかく今、人間に生まれ、仏教のある国に生まれたのです。
このチャンスをのがさず、少しずつでも仏教を学んでください。
また、仏教て養った慈悲の精神で、社会のために何かをやってください。
普通に働いて税金を納めるだけでも、他人のためになりますし。
泣くほど美しい景色ですか、それは良いですね。
ぜひ見に行ってください。
世界中にはたくさんの美しい景色があると思います。一つでもたくさんの美しい景色を見に行ってください。
ここに書いた相談事も、美しい景色を眺めていたら答えが自然に見つかるかもしれないですからね。
泣くほど美しい景色を見るために生きてください。
意味、理由、価値などは・・
くも様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
価値、意味、理由・・これらは無いわけではないのですが、かといって、有るわけでもないのであります。
非有非無の中道とか申すのですが、「なんのこっちゃ」でありますでしょう。。
まあ、実体として「これだ」と決まったもの、決めれるものとしてあるわけではなく、色々な因縁(原因と条件)次第により成り立ち得ているに過ぎないというものとなります。
その因縁も、貴女様と拙生で例えば同じものがあったとしても、貴女様が捉える意味、理由、価値と拙生が捉える意味、理由、価値も、認識する自分次第で真逆となることだってあり得るのであります。
言ってしまえば、自分にとって善い意味、理由、価値と捉える善い因縁次第となるのであります。
自分が善いと捉えられるように、善い因縁を調えられるものを調えることで、そう捉えられるようにしていければ、ということになります。
どんな光景でも、それを捉える自分の心のありよう次第にもなってくるところでもあります。
鋼鉄の町の光景も、大自然の光景も、光景の側に何か、意味や理由や価値があるわけではなく、それを捉えるそれぞれの心のありようにより、意味や理由や価値を見出しているに過ぎないのであります。
ちなみに、悟りに近づいた覚者であれば、いかなる光景を認識しても、空性の顕現として、清浄なるものと捉えることになる、あるいは、空性を大いに認識することで、心に大楽が生じると言われております。
そのように至れるまで、しっかりと仏道に精進して参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
命は自分のものに非ず、阿弥陀さまから頂いた命
こんにちは。亀山純史と申します。
私たちは、自分の命は自分のもののように思っていますが、実はそうではありません。もしも、自分の命が自分のものであるならば、自由自在に自分の命を操ることが出来るでしょう。しかし、現実にはそうではありません。心臓は自分の意思で動いているわけではありませんし、病も自ら選んで病気になっているわけでもありません。
私たちの命とは、(私の宗派の表現を取るならば)「阿弥陀如来から頂いた命」であり、「生きる」とは、「そのような頂き物の命を生きる」ということなのです。ですから、『歎異抄』において「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。」と述べられていますが、これは「阿弥陀如来から頂いた命の縁が尽きてしまったならば、どんなに名残惜しいと思っても、阿弥陀さまのもとに生まれさせて頂くのだ。」ということなのです。
以上が私からの回答です。阿弥陀さまから頂いた命です。大切にしたいですね。